2010年6月21日月曜日

「からだ」の記憶ということ。

 あじさいの花が,路地を歩いているとここかしこでいまを盛りとばかりに咲いている。梅雨どきを代表する花として子どものころから馴染んできた。
 花言葉によれば,「七変化」するという理由で「移り気」だそうだが,それは「紫陽花」に対して失礼というものだろう。こんなに立派な名前なのだから。子どものころ育った禅寺の境内にも,比較的大きなあじさいの一株があって,少しずつ変化する花の色を楽しんだ記憶がある。連日の雨にうんざりしながら,空を見上げ,早く外にでて遊びたいとはやる気持ちを抑えていたことを思い出す。本堂のすぐ西側にあるあじさいの花を,上から見下ろすことができたので,それはなかなかみごとな咲きぶりであった。
 いまから思い返すと,わたしが馴染んだあじさいは野生種に近かったせいか,じつにいろいろの色に変化した。はじめは黄緑色のガクが開きはじめ,それが次第に白に変わり,少しずつ青みがかってくる。この青が次第に個性を発揮して,徐々に青の色を増していく。こんなに青くなるのかと思うほど青くなると,やがて,色あせたような間の抜けたような青になり,こんどは紫がかってくる。しかし,この紫はあまり強く自己主張することもなく過ぎ去り,こんどは赤みがかってくる。が,この赤もそんなには赤くなることもなく,色あせていく。最後は,薄い赤とも紫ともいえないような曖昧な色を残して,しおれていく。しおれた最後は茶色になって,落花する。
 こんな話を友人にしたら,そんなことはないだろう,と一笑に付されてしまった。そして,おそらく,二株か三株,一緒に植わっていて,それぞれの花をみていたんだろう,という。そんなにいろいろな色に変化するはずはない,という。そういわれてみれば,いつもの鷺沼から事務所まであるく路地に咲くあじさいは,白なら白,青なら青,紫は紫で,あまり変化しないようにも見受けられる。あまりに悔しいので,事典で調べてみた。そうしたら,最近では西洋系の改良種が中心で,むかしながらの日本のあじさいはすっかり陰をひそめてしまった,とある。ことしは,じっくりとその色の変化がありやいなやを見届けようとおもっている。
 しかし,わたしにとっての,記憶のなかのあじさいは上記のとおりであって,みじんだにゆらぎはしない。それは科学的にいくら説明されても,わたしの記憶は変化しない。それがわたしにとっての真実なのだから。どんなことがあっても,この記憶を間違いだとはしたくない。できるはずもない。しかも,子どものころの記憶を訂正することなどあってはならない。とまあ,みずからを慰めている次第。
 なにゆえに,こんなことに拘っているのかといわれそうなので,少しばかり本音を吐き出しておこう。わたしたちの記憶はからだに刻まれるものだ,とわたしは考えている。いまも,そう考えている。しかし,そのむかし,記憶は脳に収められているのであって,脳はからだではない,という人に出会ったことがある。脳は知的・精神的活動を司るところであって,からだとは別物である,というのである。わたしは,脳も立派なからだの一部であって,それ以外ではない,と主張。この当時のわたしの脳の知識は,時実利彦さんの『脳の話』(岩波新書)からえたものでしかなかったが・・・。とうとう最後まで平行線のままで終わった記憶がある。このときの議論の記憶がよみがえるときには,なぜか,あじさいの花が思い浮かび,じめじめした空気が肌にふれている感覚と一緒だ。たしかに記憶装置としては脳が中心になって受け持っているのは確かだが,それだけだろうか,とわたしはいつも考えてきた。とりわけ,スポーツで鍛えたからだの記憶は,脳のそれにも匹敵する,と。
 たとえば,もっとも単純な歩くという運動。いわゆる歩行運動。もちろん,脳との連携が必要であることは否定のしようもない。しかし,からだに叩き込まれた筋肉組織の「自動化」という機能が大きな役割をはたしていることも明らかだ。それは,たとえば,オートポイエーシスの理論がさらに進化して,「第四領域」などまで提示され,最近になってますます重視されるようになっている。それよりもはるかにむかし,『ダーウィンよ,さようなら』という本を書いた牧野尚彦さんが,進化論のパラダイムをシフトする発想から,きわめて面白い事例を(自分の体験談として)紹介している。それは,毎日の通勤で通る大阪の梅田駅構内にある移動するエスカレーターが,ある日,故障して止まっていた。自分の意識としては「止まっている」ということを承知でそこに一歩を踏み入れたところ,からだが前につんのめってしまった,という。どうしてこういうことが起こるのか,ほとんど丸一日考えていた。帰路も同じエスカレーターが止まったままだったので,こんどこそ,と強く意識して「止まっているのだから,ふつうに歩けばいい」と脳から命令を出したにもかかわらず,朝と同じことが起こってしまった,というのである。ここから,牧野さんの,独創的な思考がはじまる。その結論は,歩行運動の大半は,脳ではなく,全身の筋肉のなかに「自動化」という記憶装置があって,それによってコントロールされている,という。
 これを読んだときに,わたしの中にあった疑問が一気に解消した。たとえば,わたしは器械体操なるものを若いころにやっていた。だから,いまでも「倒立」は,なにも考えることなくできる。つまり,完全な「自動化」がなされた運動であるので,からだが勝手に判断し,勝手に動く。脳で考えるまでもなく自動的にコントロールされているのである。トップ・アスリートとは,この「自動化」の極限を究めた人たちのことである。だから,ふつうでは考えられないようなスーパー・プレイを難なくこなしてしまう。人びとが感動するのは,そういう場面に立ち会ったときである。いま,行われているサッカーW杯に人びとの関心が引きつけられるのは,まさに,「神の降臨」に立ち会いたいからだ。
 さて,こんな話になるとは夢にもおもっていなかったが,そろそろ結論を。あじさいの花の「七変化」の記憶は,わたしの全身に刻まれた記憶であって,それはもはや「自動化」をはたしている。だから,これを修正しようとしても,それは無理難題というものである。しかも,からだに刻まれた記憶こそが「真実」そのものである,と。いささか牽強付会のそしりを免れぬかもしれないが・・・・。でも,わたしは固く信じているのである。これがなかったら生きてはいけなくなる。わたしにとっての「真実」。

2 件のコメント:

竹村匡弥 さんのコメント...

今年の七月七日は、吉野金峰山蔵王堂の蛙飛びを見に行くだにょ。
蛙と河童はどうやら関係が深いらしいだにね。。。

事実がどうであれ、妄想が真実と化す時、河童は、自分がどういった存在物なのか、どこに立っているのか、訳がわからなくなるだにぉ。。。

しぇんしえいのブログを読んでいて、妄想してしまっただにぃ。

Unknown さんのコメント...

kappacoolazyさんへ。
コメント,ありがとうございました。
自分がどういう存在物なのかが一番わかっていないのが人間だにぉ。だから,都合の悪いことは全部,河童のせいにして自分を合理化しているだけだにね。いまのメディアの流している情報などは真実そうな顔をしながら,じつはほとんどが妄想。その妄想と妄想とが多数決原理で支配権を争っている・・・それが政治。こんどの選挙もいかに上手に妄想をでっちあげ,説得した方が勝ち。こうやって歴史もつくられてきたとしぇんしえいは考えているだにぉ。いけない,河童弁がうつってしまった。くわばらくわばら。いやいや,すがわらすがわら。