2010年6月22日火曜日

十牛図の「空円相」と「内在性」の関係について

 このところ『十牛図』(上田閑照・柳田聖山著,ちくま学芸文庫)のことが気がかりになってきて,時間をみつけては読み返している。とりわけ,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』でいうところの「内在性」との関係がどうなっているのか,そこのところが知りたい一心で。
 『十牛図』については,いつか,まとめて(連載のようなかたちで),わたしなりの解釈を提示してみたいとおもっている。したがって,ここではあまり深入りはしないで,ごく簡単な説明だけにとどめておく。一般的には,禅の修行を10段階に分けて,悟りに至るまでのステップを図示したものだ,といわれている。しかし,第一図の尋牛から第七図の忘牛存人までは,たしかに修行の段階を図示したものではあるのだが,第八図の人牛倶忘から第十図の入〇(字が出せない)垂手(にってんすいしゅ)までは,必ずしも悟りの段階ではない,と上田閑照は説明する。そこが,じつは,この『十牛図』を理解するための最大のポイントでもある,と上田閑照は強調する。ここを説明するためにこそ,あえて「自己の現象学」というサブ・タイトルをつけて,文庫本で約170ページにわたって懇切丁寧に論考を深めていく。その意味では,とても優れた解説書になっている。というよりは,上田閑照は「十牛図」を手がかりにしてみずからの思想・哲学を開陳したものというべきであろう。力作である。
 で,今日,問題にしたいのは,第八図の人牛倶忘=空円相をどのように理解すればいいのか,ということである。これもごく簡単に説明しておくと,第八図は,ただ大きな円が描かれているだけで,なにも無いのである。タイトルは,人牛倶忘。つまり,人も牛もともに忘れ,なにも無くなるということ。人(自己)も牛(真の自己)も両方とも消えてしまって,無になる,ということ。すなわち,絶対無。「自己ならざる自己」も消えてしまう,すなわち「自己なし」も消えてしまい,ほんとうになにも無い。無も無い,という意味での絶対無。
 この絶対無というものが存在するとすれば(存在すると考えること事態が矛盾であるのだが),それは,バタイユのいう「内在性」のなかに溶け込んでしまうことではないか,とわたしなりに考えていた。つまり,「水の中に水があるように存在すること」,すなわち,他者なる水のなかに自己なる水を混ぜてしまうと,みんな同じ水となって,自他の区別がつかなくなる,「自己なし」の状態になる。その「自己なし」の水が蒸発してしまえば,なにも無くなる。そこが絶対無の「場」ではないか(この「場」については,また,いつか詳しく説明することとする),と。
 したがって,禅の修行とは自己を無と化すこと,つまり,「自己ならざる自己」(=「自己なし」)となり,その「自己なし」をも無と化す,すなわち,絶対無に至るための道であるとすれば,それはバタイユのいう「内在性」に回帰することと同じではないか,とわたしは考えていた。もっと言ってしまえば,バタイユの「エクスターズ」や「非-知」の位相は,禅のいう「無」とほとんど同じではないか,と。だから,「十牛図」のいう「空円相」はバタイユのいう「内在性」と同じではないか,と。極論してしまえば,禅の修行とは,「内在性」回帰の道ではないか,ということになる。
 しかし,今回,もう一度,この『十牛図』を丁寧に読み返してみたら,それは違うということがわかってきた。さて,それをどのように説明したらいいのか,この段階ではやや手詰まり状態にある。なぜなら,第九図の返本還源(へんぽんげんげん)の読解によって明らかになってくるからだ。したがって,ここは一旦終わりにして,明日,この第九図「返本還源」を取り上げながら,その「違い」に挑戦してみたいとおもう。
 ついでに付記しておけば,なにゆえに,こんなややこしい議論を取り上げ,考えようとしているのかということだ。もう,勘の鋭い人にはおわかりいただけるとおもうが,ヨーロッパ起源のスポーツと日本の武術の起源との決定的な違いがこのあたりにあるのではないかという仮説が一つと,もう一つの仮説は,人間の存在不安の感じ方,および,それに対する対処の仕方の違いもこのあたりにあるのではないか,というものである。したがって,わたしにとっては,なにがなんでもここを通過する必要がある。ここをうまく説明できるようになると,また,一つ違う新たな知の地平が開けてくるのではないか,とわたしは期待している次第。したがって,こんごもこの種のモチーフの論考が何回もでてくることは必定。その際には,ああ,こういう問題意識が根底にあったな,と理解していただければ幸いである。
 どうか,みなさんも一緒にお考えいただき,いいアイディアがありましたらご教示くださるとありがたいと思います。よろしくお願いします。

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