2010年6月27日日曜日

カイヨワの「偶然」(アレア)という概念をどのように考えるか。

 内々に進めているWebマガジンの創刊号の編集長さんから「遊びを遊ぶ」という特集を組むので,カイヨワの設定した四つのカテゴリーのなかの一つ「偶然」(アレア)について,最近,考えていることを書いてくれという依頼があった。
 今月末が締め切りだったことを思い出して,あわてて,まずはカイヨワの復習にとりかかった。いまは,まことに便利な時代で,インターネットを使えばかなりのことは泥縄式とはいえ,情報が集まる。もちろん,そこに展開されている情報は玉石混淆なので,よほどきびしい眼でチェックを入れないと,ガサネタをつかまされることになる。それを覚悟で,まずは,「カイヨワ」で検索をかけてみる。なるほど,お粗末な,みるも恥ずかしい,それでいてもっともらしいカイヨワ解説がいくつも登場する。そんななかにピカリと光る情報がみつかる。
 よし,これだ,とばかりに読みはじめる。松岡正剛の『千夜千冊』で,カイヨワの『斜線』がとりあげられている。そこからはじまって,例によって松岡さんの蘊蓄が展開されていく。終わりまで読むと,ひととおり,カイヨワの書いた著書がほとんど全部,紹介されている。しかも,松岡流の読解が,もののみごとに展開している。ありがたき幸せである。
 これを読みながら,そのむかしホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を岸野雄三先生のゼミで読んだことを思い出す。まだ,田舎からでてきたばかりの純粋無垢の若者は,人間の遊びについての,こんな知の世界があることにびっくり仰天したものだ。そして,岸野先生の一言一句に,真剣に耳を傾けるようになる。ここで,わたしの本の読み方の基本が身についたようにおもう。
 それからしばらくしたころ,カイヨワの『遊びと人間』が話題となり,スポーツ社会学の人たちが盛んにこの本を引用しながら,もっともらしい遊戯論を展開した時代があった。しかし,それはまことにうすっぺらい議論に終始していた。なぜなら,カイヨワの思想の根っこにあるものが理解できていなかったからである。その傾向はいまも残っていて,時折,カイヨワを振りかざして「遊び」論を展開するスポーツ学関連の人を見かける。
 こんにちでは,カイヨワの主な著作はほとんど日本語で読むことができる。これらを全部読破してから,もう一度,カイヨワの「遊戯論」を点検することが,これからの研究者には要求される。しかし,それに挑むスポーツ学関係者は皆無に等しい。情けないかぎりではある。かく申すわたしも,その集団のひとりなのだから,あまり偉そうなことは言えない。わたしにも責任がある。
 そういう反省に立ちながら,少しだけ言い訳をさせてもらうことにしよう。
 カイヨワとバタイユの親近性については,わたしはこれまでのバタイユ読解や関連の解説書をとおして,いくらかは理解しているつもりである。たとえば,シュール・レアリスム運動との距離のとり方は,同調しつつ批判するという点で,この両者はほぼ足並みをそろえている。そして,その後,「社会学研究会」を結成して,二人が中心的な役割をはたしていたことも知っている。その一つの成果が,カイヨワの『聖なるものの社会学』である。バタイユでいえば,『呪われた部分 有用性の限界』であり,『宗教の理論』であり,『エロチシズム』であり・・・・という具合にほぼ全面展開していく。カイヨワの「聖なるもの」の根っこにはマルセル・モースがある。学生時代のカイヨワは,マルセル・モースの講義に熱中したという。そして,モースを手がかりにして,それまでの社会学の「有用性」の枠組みの<外>に飛び出す思考を手にいれることができた,といわれている。
 つまり,「聖なるもの」を思考の原点におくという点では,カイヨワとバタイユは重なるものを多くもっている,といってよいだろう。それは,繰り返すまでもなく,マルセル・モースが『贈与論』のなかで展開したポトラッチであり,供犠の問題であり,有用性とはまるで無縁の人と人との関係性の問題である。とりわけ,バタイユはアステカの「人身供犠」の含みもつ「聖なるもの」に注目する。その原点をさらにさぐっていくと,ヒトが人間になる,そのプロセスで起こった「存在不安」にゆきつく。わたしは,いま,ここに「スポーツ的なるもの」の発生基盤を求めつつある。
 話は一足飛びに現実にもどるが,さて,カイヨワのいう「偶然」(アレア)とはなにか。カイヨワやバタイユのいう「聖なるもの」の地平から「偶然」の問題を考えるとどうなるのか。内在性のなかに生きていたヒトにとって「偶然」とはなにか。別の言い方をすれば,野生に生きる動物たちにとって「偶然」とはなにか。「存在不安」に苛まれることのない「内在性」のなかに生きている動物たちにとって「偶然」はもはやなんの意味ももたないことになろう。
 だとすれば,「偶然」などという概念が誕生し,成立するのは,いつからなのか。古代に生きた人間にとっては「偶然」は,神々の意志による「必然」だったのではなかったか。ギリシア神話の世界に「偶然」という概念をみとどけることはほとんど困難である。むしろ,それは,すべて神々の意志の表出であり,「必然」であると人びとは受け止めていた,と考えた方がわかりやすい。つまり,「聖なるもの」が人間の世界を支配していた,と言っていいだろう。日本の古代世界も同じだ。古代人のコスモロジーは世界共通だ。
 では,いつから「偶然」という概念が成立することになるのか。「神は死んだ」(ニーチェ)あとのことか。ヨーロッパ近代の合理主義の産物なのか。科学で説明のできないことはすべて,ひとまず「偶然」という入れ物のなかに収めて,自己中心の近代人として,あるいは,理性的人間として,みずからを納得させているにすぎないのか。
 いやいやとんでもないところまできてしまった。少し,頭を冷やして,この問題を考えてみることにしよう。そうしないと,依頼された原稿が書けなくなってしまう。あるいは,これをこのまま提出しようか。迷いに迷う思考の現場をそのままさらけ出して・・・・。それも一興か。
 ならば,このつづきを,もう少し考えなくてはなるまい。自分で自分の宿題をつくってしまっている。お笑いものだ。でも,現実はこんなものなのである。 

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