2010年6月29日火曜日

仏教でも「偶然」はありえない。

 昨日は勢いで,つぎは「縁起」について考えてみよう,などと書いてしまったが,じつは後悔している。なぜなら,仏教の中心思想をなす「縁起」について,ブログで書くなどということはとんでもないことだから。つまり,テーマが大きすぎるということ。
 とはいえ,逃げるわけにもいかないので,ブログで書ける程度のことでお許し願うことにしたい。
 「縁起」などということばは,最近の日常会話ではあまり耳にしなくなってしまったので,すでに死語になってしまっているのかもしれない。それでも,「縁起が悪い」とか,「「縁起をかつぐ」などといえば,ああ,あれか,とわかってくれる人も少なくないだろう。ならば,「因縁」と置き換えてみよう。こちらは「因縁対決」とか,「因縁をつける」とか,「ご因縁」といったことばで多少は耳慣れているはず。でも,これらは慣用句として用いられているものであって,「縁起」とか,「因縁」という仏教本来の意味とはいささかずれている。
 では,「縁起」とはなにか。間違えるといけないので,『岩波・仏教辞典』から引用する。
 「仏教の中心思想で,一切のもの(精神的な働きも含む)は種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じるという考えを表す。因縁,因果というのも同趣旨である。」
 このあと,時代とともに「縁起」の考え方が次第に変化していく,その経緯が詳しく説明されている。これはこれで追っていくとおもしろいことが多々あるのだが,いまはそのときではないので,ここまでとする。ここで確認しておきたいことは,要するに「縁起」とは,自然界も人間界もひっくるめて「一切のもの」は,すべて「原因」があって,その原因になんらかのかたちでつながる「ご縁」(関係性)があって,「結果」が生じるのだ,という考え方のことを意味するということ。「これあるがゆえにかれあり。これなきがゆえにかれなし」とか,「これ生ずるがゆえにかれ生ず。これ滅するがゆえにかれ滅す」というのが仏教の根幹をなす考え方である。
 わたしなどは,田舎の小さな禅寺で育ったので,子どものころから「縁起」だの「因縁」だの「因果」だのということばは耳にタコができるほど聞かされてきた。いや,お説教されてきた。とりわけ,祖母が厳しい人で,どこかで転んでひざから血を流して帰ってくると,こっぴどく叱られた。苦し紛れに「たまたま転んだだけだ」といいわけをすると,さらに厳しく「それは違う。すべてはご因縁だ。仏さまがお前に罰を与えたのだ。お前がどこかで悪さをしたに違いない。因果応報というものだ」という調子であった。だから,「偶然」などというものは「ありえない」と子どものときから叩き込まれてきた。まあ,わたしの場合は特別だったかもしれないが,近所の大人たちのいうことも,基本的にはおなじだったように記憶する。ということは,わたしとおなじ世代の人たちは,「偶然」ということにたいしてあまり「信」をおいていない,と考えていいかもしれない。
 では,「偶然」ということはありえないのか,というとそうではない。
 ここで「どんでん返し」をするつもりはないが,わたしは以下のように考えている。
 キリスト教にしろ,仏教にしろ,その宗教上の教義は,前近代の社会を生きる人間にとっては,近代社会の「法律」に代わるひとつの「規律」を示していたのだろう,と。つまり,法律のない時代にあっては,悪いことをする人間の「歯止め」として,宗教がその役割をはたしていたのだろう,と。だから,「たまたまそうなったのだ」という「偶然」を装ういいわけを許すことはできなかったに違いない,と。だから,ひとつの考え方として,宗教的には「偶然」というものは存在しない,と教え諭したのだろう,と。
 で,ここからがじつは重要なところ。人間は,自分の理性で考えて納得のできないことは「神さま」のせいにしたり,「縁起」のせいにしたりして,一応の納得(気持ちの整理)をしてきたのではないか。つまり,自分の力の及ばざるところの問題は,すべて「まったき他者」(神,縁起,超越,など)にゆだねて,それなりの「折り合い」のつけ方をしてきたのではないか。別の言い方をすれば,「苦しいときの神頼み」ということになろう。この「他者」に身(自己)をゆだねる,というところにカイヨワのいう「偶然」(アレア)を考える重要な鍵がある,とわたしは考えている。
 たとえば,ルーレット。1から36までの数字に0を加えて,全部で37枠(アメリカでは,00が加わるので38枠)。つまり,確率論でいえば,37分の1の確率で当たることになる(ただし,0は親のアドバンデージ)。で,ルーレットの方法論(戦術など)については省略することにして,いろいろに考えた上で,いずれかの数字に賭けることになる。作戦を考えるところまでは,自己の問題である。しかし,賭けが決まってチップを乗せたあとは,もはや,自己の出番はない。どうするか。運を天にまかすしかない。つまりは「神頼み」。自己を放棄して他者にすがるのみ。この自己の枠組みの<外>に自己を投げ出すこと。
 この構造は,信仰の世界に踏み込むこととそっくりではないか。つまり,「偶然」という賭け事に身をゆだねるということは,「神さま・仏さま」に身を投げ出すのとおなじだということ。もっと言ってしまえば,神さまも仏さまも「偶然」の賭け事を認めて(許して)はくれないということはわかっているのだから,「偶然」に身をゆだねるということは,もっともっと孤独な,虚無の世界に身をゆだねるにも等しい経験となる。
 禅的にいえば,百尺竿頭一歩を出,という経験にも等しい。そこは,バタイユ的にいえば,「非-知」の世界であり,「エクスターズ」の世界とほとんど違わない,とわたしは考えている(厳密にいうと,違うらしい)。カイヨワの思考はこのあたりまで伸びていて,その上で,「偶然」(アレア)の問題を遊びの4つのカテゴリーの1つとして位置づけている,とわたしは考える。
 できることなら,このつづきを書いてみたい。とりあえず,今夜はここまで。
 

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