2010年7月3日土曜日

ル・クレジオの『悪魔祓い』について。

 ル・クレジオの『悪魔祓い』が文庫本となって復活した(岩波文庫,6月16日第一刷)。早速,手にとって読んでみる。涙があふれてきて止まらない。どうにも止まらない。なにかが,わたしのからだの中心を突き抜けていく。
 1975年に新潮社からでた初訳本は,とうのむかしに絶版となっていて,わたしは苦労して古書を手に入れた。そのときの感動も鮮烈だった。が,今回のものは別だ。なにかが違う。もちろん,文庫化にあたって,訳者の高山鉄男さんは全面的に改訳をした,とおっしゃる。初訳本とくらべてみると,なるほど,固い表現がやわらかくなっていて,インディオのハートを映し出すことばに進化している。だから,流れるようにわたしのからだの中を駆け抜けていく。そして,不思議な残響に酔いしれる。そのたびに本を閉じる。しばらく,呆然として時間をやりすごす。いや,時間を忘れて呆然としている。なにも考えようともしない。かすかに残る余韻に浸っている,とでもいえばいいのか。
 たとえば,冒頭の書き出しからして,一撃をくらう。
 どうしてそんなことがあり得たのかよくわからないのだが,とにかくそういう具合なのだ。つまりわたしはインディオなのである。メキシコやパナマでインディオたちに出会うまで,わたしがインディオであるとは知らなかった。
 訳者の高山さんの解説によれば,1970年にインディオに出会って,そこにしばらく滞在し,翌71年にこの『悪魔祓い』が刊行されたという。しかも,それから74年まで,一年の半分以上をインディオと生活をともにした,という。「わたしはインディオなのである」と気づいたものの,それでもとうとう「インディオ」にはなれなかった,とル・クレジオは別のところで述懐している。つまり,「わたしはインディオなのだ」と気づいた位相のまなざしから,この『悪魔祓い』は書かれている。
 今福さんがおっしゃるように,ル・クレジオの文章はディスクリプションではなくて,インスクリプションなのである。西谷さんに言わせれば「そうなると入れ墨ができてしまう」(『近代スポーツのミッションは終わったか』)ことになる。まさに,インディオたちがボディ・ペインティングするように,ル・クレジオもまた,みずからのからだにインスクリプションするように,インディオたちの「すへでを見る目」(タフ・サ)と「歌の祭り」(ベカ)と「悪魔を祓われた肉体」(カクワハイ)について,全身全霊をこめてインスクリプトする。
 「20年ほど前のこと,1970年から1974年まで,ぼくはパナマのダリエン地方に住むアメリカ先住民の人々,エンベラ族およびその親族にあたるワウナナ族と,生活をともにする機会を得た。この経験は,ぼくの人生をすっかり変えた。世界および芸術についての考え方,他の人々との付き合い方,歩き方,食べ方,愛し方,眠り方,さらには夢にいたるまで,すべてを変えた」(ル・クレジオ『歌の祭り』管啓次郎訳)
 当時,ル・クレジオはまだ30歳の前半である。ちょうど,この時代に,今福さんはル・クレジオに出会っている(詳しくは『荒野のロマネスク』参照のこと)。しかも,深く深く共感していらっしゃる。今福さんもまた「わたしはインディオなのである」と同じ位相で,ル・クレジオと交信・交遊されたのではなかったか。もっとも,今福さんは,ブラジルに行けばブラジルの人と,奄美大島に行けば奄美の人と,「水のなかに水があるように存在」できる人だから,だれとも分け隔てなく,あるがまま,ふわりとそこに存在できる特異能力をもった人だ,とわたしは勝手におもっているので,ル・クレジオだから特別だったということでもなかったのだろう。気がついてみれば,のちに(2008年)ノーベル文学賞を授与される人だった,というだけの話かもしれない。
 こんなことを書きはじめると際限がなくなってしまう。
 わたしの涙が止まらなくなってしまう理由なども,ここでもっともらしく書く必要もさらさらない。
 最後に,ル・クレジオが,インディオについて語りながら,なにをメッセージとしてわれわれに発しようとしているのか,高山さんの引用をそのまま借用してこのブログを終わりにしよう。
 「現代世界をおびやかすあらたな大洪水に抗して,一人の作家になにができるのだろうか。(中略)おそらく森のワウナナ族と同じように,ひたすら踊り,音楽を奏でること,つまりは丸木舟のまわりに集まったこれらの男たち,これらの女たちの祈りを一つのものにするために,語り,書き,行動することができるのだろう。(中略)あらたな大洪水に抗して書こう。踊ろう」
 「踊る」ことを忘れてしまった現代文明人。ここでの「踊り」は,現代の様式化したダンスや芸術としての舞踊ではない。気がついたらみんなが,思いおもいに踊っている,だれに強制されるわけでもなく,からだが勝手に動きはじめるような,そういう「踊り」である。いうなれば,「踊り」の原点。
 たぶん,それはヒトが人間になる,その中間(はざま)点で,時間が止まったまま生き長らえてきた人びとの「踊り」なのだろう,とわたしは考える。ヒトの時代への畏敬の念と,人間になりきることへの不安(あるいは,拒絶)とが入り交じった,「生」の根源から沸き上がってくる情感のみをエネルギーとする「踊り」,それがインディオたちの「踊り」なのだろう。
 だから,ル・クレジオは,ただひとこと「踊ろう」と書く。
 流れる涙の理由は,ここにあるのかもしれない。
 

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