2010年7月6日火曜日

「十牛図」の「牛」は「真の自己」だという。

 「十牛図」に描かれている「牛」は「真の自己」を意味するという。では,「真の自己」とはなにか。禅的世界を図解したものとして知られる「十牛図」について,これからしばらく考えてみたいとおもう。
 テクストは上田閑照・柳田聖山著『十牛図』(ちくま学芸文庫)。そのなかの前半部分「自己の現象学──禅の十牛図を手引として」(上田閑照)を取り上げる。「十牛図」そのものの禅学的解釈については,後半部分の柳田聖山が懇切丁寧に展開している。それに対して,上田閑照は「自己」とはいったいいかなるものなのかという根源的な問いを立て,それを「現象学」という方法で解きあかそうと試みる。そのときの手がかりとして禅の「十牛図」を用いる,という次第である。別の言い方をすれば,「十牛図」の現象学的解釈,ということになろう。
 この「十牛図」の上田閑照的解釈がまことに素晴らしく,他に類書をみないほどのできばえなのである。以前から禅に関するテクストには関心があったので,「十牛図」に関する解説本もかなり読んできたが,いずれも禅学(あるいは,禅思想史)という立場のものばかりであった。しかし,上田閑照のこのテクストは,ヨーロッパの哲学と禅の思想との間にブリッジを架け,その両方から光を当てながら「現象学」として読解してみようという,わたしにとってはまことにありがたい論の展開の仕方をしてくれている。しかも,とてもわかりやすい,というのがありがたい。そういうわけで,じつは,かなりむかしから繰り返しくりかえし読んできたわたしの愛読書の一つなのである。
 ついでに述べておけば,上田閑照は「十牛図」を,初心者から上級者へ,そして,ここが現段階でのぎりぎりの解釈であるというところまで,わかりやすく読解してみせてくれる。それを,全部で六つの章に分けて,少しずつレベルを上げていくという手法をとっている。これがとてもありがたいのである。途中でどうしても理解不能となったら,また,一つ前の章にもどって出直せばいいのである。そんなことをくりかえしながら,理解を少しずつ深めていくことのできる,素晴らしいテクストなのである。
 「十牛図」はよく知られているように,自己(わたし)が「真の自己」の存在に気づき,それを探し求め,発見し,確保し,飼い馴らしてわがものとしたら,ふたたび「真の自己」は姿を消してしまい,その存在すら忘れてしまい,ついには自己すら消えてしまう,そして,ついには他者のなかに自己を見出すという境地に達する,そのプロセスを図解したものである。このプロセスについて,これから一つずつ,わたしなりの読解を試みてみようとおもう。もちろん,スポーツ史的読解(あるいは,スポーツ学的読解)である。このことについても,おいおい明らかにしていきたいとおもう。
 で,とりあえずは,その導入として,わたしの読解のためのある仮説を提示しておきたいとおもう。それは,上田閑照をはじめどの解説者のものを読んでみても,「十牛図」に象徴的に描かれいる「牛」は「真の自己」を意味している,という。では,その「真の自己」とはどういうものなのか,ということになるとあまり定かではない。上田閑照もまた「真の自己」とは「自己ならざる自己」だ,というのみである。もう少しだけ補足しておけば,自己とは意識でとらえることのできる自分のことであって,真の自己とは意識を超越したところに立ち現れる,ある自覚にもどづく自己のことで,それは意識される自己に対して「自己ならざる自己」である,という。だから,自己と真の自己とが一体化することがまずは目標とされる。それが,一つの「悟り」の境地というわけである。しかも,それがゴールではなくて,そのさきに「無」の境地があり,さらには「無」であることすら忘れてしまう境地があり,ついには自己を他者のなかに見出すという境地に到達する。
 そのときの「真の自己」が,なぜ,「牛」で示されるのか,これがわたしの現段階での大きな疑問であり,「十牛図」を考える大きな仮説の一つとなっている。牛は,一般論でいえば,聖牛という考え方がかなり広く分布しており,日本にかぎったことではない。「牛に引かれて善光寺詣で」という言い方もよく知られているとおりである。あるいはまた「牛頭天王」という信仰形態もある。天神様と牛の関係もある。こうした「牛」にまつわるさまざまな伝承も,いまのわたしには大きな関心事である。でも,「十牛図」の原典は中国なので,古代の中国での「牛」にまつわる伝承がどのようなものであったのか,も確認しなければならない。
 わたし自身は,もう一つ,少し違ったアングルからの補助線を引いてみたいとおもっている。すなわち,「真の自己」=「牛」だとするイメージを,素直にそのまま受け止めて,ふだんの自己を意識的自己だとするなら,「真の自己」は無意識的自己と考えてみたらどうだろう,というものである。理性的自己に対して「真の自己」は動物的自己であってもいいのではないか。だとすれば,わたしたちは「人間」であると同時に「ヒト」でもある,その「ヒト」こそ「真の自己」と考えてはいけないのだろうか。「ヒト」は,内在性のなかに生きているという意味では,自他の区別をもたない。自他が一体化するところに最初の「悟り」の境地があるとすれば,人間がヒトにもどることと,それは同じではないのか。「十牛図」のすごさは,そこがゴールなのではなく,そのさきがあるということだ。ヒトと人間が一体化したときが一つのピークであることは間違いないのだが,そのあと,さらに,ヒトの存在を忘れ,人間であることも忘れ,ついには他者のなかに自己を見出していく,あるいは,他者のなかで自己を生きる,という境地に立つ。
 かんたんに言ってしまえば,「牛」=「ヒト」と考えてはいけないのか,ということ。「ヒト」であれば,まさに,動物としての人間,すなわち「牛」,これが「真の自己」である,という次第。もちろん,この仮説は,先学の教えからすれば相当の暴言に等しいが,わたしのなかではなんとも納まりがいいのである。つまり,スルリとバタイユ的世界につながっていくのである。すなわち,「非-知」の世界に通ずる道であり,エクスターズの世界へと開かれていく,とわたしは考えるのである。
 こんな問題意識を導きの糸としながら,これから上田閑照の「自己の現象学──禅の十牛図を手引として」を読んでいくことにしよう。

2 件のコメント:

大西祐司 さんのコメント...

稲垣先生

筑波大学の大西です。
先日、お会いする前に読ませて頂きました際は、「牛」という言葉が引っかかりなかなか読み進められなかったのですが、今一度読み直させて頂きまして次のように解釈できましたのでコメントさせて頂きました。

普段の自己を意識的自己だとした場合、「真の自己」は無意識的自己と考えることは大変共感できます。また、人間が「人間」と「ヒト」という二面性をもち、理性的自己と動物的自己(私の解釈では本能的、生理的な類のものも含まれると解釈しているのです)をもつが故に、「牛」=「ヒト」と捉えることにも私は抵抗はありません。むしろ、そちらの方が表記と内容が合致したように感じました。

ここで、私の理解が及びません内容がございましたのでお教え頂ければ幸いです。

「ヒト」は,内在性のなかに生きているという意味では,自他の区別をもたない。

この記述の「他」とは、先生が後に述べられています、「他者の中に自己を見出していく」の他者にあたるのでしょうか。私は、自己内の他と自己を高めた先にある他者の「他のレベル」が異なる気がして困惑致しております。

お時間ございます時に、レスポンス頂ければ幸いです。
他の項目を順々に読み進めさせて頂きます。

失礼致します。

Unknown さんのコメント...

大西祐司さんへ。

コメント,ありがとうございました。
わたしのブログを途中から読みはじめた方には,ときおり,意味不明の文章がでてくるかもしれません。ご指摘のところも同じで,このことはもう何回もくりかえし説明をしてきていますので,申し訳ありませんが,ブログをさかのぼって確認してみてください。
ちなみに,出典は,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(ちくま学芸文庫)です。