2010年7月8日木曜日

「坐禅という身体」について

 『十牛図』の「一」のP.40以下に「坐禅という身体」について,上田閑照が面白い議論をしている。それは「自己とはなにか」という問いと答えそのものである,という。
 まず,上田の言うところに耳を傾けてみよう。
 「たとえば行の基本である坐禅ということで言えば,坐禅という身体(身心全体をひっくるめての具体という意味での身体)のあり方は,いっぽう,自己全身で「自己とは何か」と事実具体的に問うていくあり方であり,しかもどこまでも「自己とは何か」の追究において行きつまり,自己と世界の一切がこの自己自身の身体として一つの問の塊(かたまり),手も足も出ぬ問の塊となったということである。」
 「十牛図」の第一尋牛(じんぎゅう)が投げかけている問題は「見失われた心牛を尋ね求めて行くという初発の境位を示す」といわれている。つまり,「真の自己を求めるというまさにそのあり方が真の自己のはじまりなのである」と。この「心牛」=「真の自己」を求める「行」が坐禅であり,その「坐禅という身体」のあり方は,一つには「自己とは何か」と問うていくあり方だ,という。しかも,「手も足も出ぬ問の塊」となることが,「坐禅という身体」だ,と説く。「面壁三年」というダルマの有名なことばがある。手も足もでない問の塊となって,ダルマは三年間,壁に向かって坐禅をつづけたというのである。問の塊とは,このようなことを言うのであろう。さらに,上田はつぎのように説く。
 「他方,そのような問への答がその坐禅においてまさにその同じ坐禅として具体化してきているのである。答がどこか外から与えられてくるのではない。坐禅という身体のあり方(坐禅儀その他に示されている)が,何ものにも対立せず自己を無限の開けの中に見出すような本来の自己の具体化である。坐禅というあり方として答が身体のうちに現前してきているのである。そして,身体が問になり切っている故に答をその身体で受け取り得るのである。坐禅が答であるという面だけで言えば,打坐即仏法であり,坐禅をして悟るということではなく,坐禅をしているその事が端的に本来の自己の現(げん)である。」
 問の塊は同時に答の塊でもある,というのである。答は外からやってくるものではなく,みずからの身体そのものの内側から立ち現れてくる,というのである。身体が問の塊になり切っているからこそ,その答を身体で受け取ることができる,と。すなわち,「打坐即仏法」である,と。つまり,坐禅がそのまま仏法なのだ,と。道元はこのことを「修証一等」と表現した。「修」は「修行」,「証」は「悟り」,すなわち,修行と悟りとは一つのことで対等のことなのだ,と。つまり,「修行」というものは「悟り」のレベルでしか行えないものである,と。だから,無理をして難行苦行をしてみたところで,なんの意味もないのだ,と。「修証一如」という言い方もする。
 さらに,上田はつづける。
 「しかし問との関わりのうちで,坐禅という身体のあり方に現前してくる本来の自己が答として真に身体化されるためには,行の持続がなければならない。その面からは,坐禅は本来の自己の具体的な先取りと言うべきであろう。先取りされたものが行の持続のうちで充たされてくるのである。道元禅師が「坐禅すれば自然(じねん)によくなるなり」と言うのは,行の持続のことである。そして,そのように行を持続せしめるものは,どこまでも具体的に問い続ける己事究明にほかならない。」
 このようにして,わたしのことばに置き換えれば,「坐禅する身体」は本来の自己の先取りだから,持続することが重要だ,となる。「先取りされたものが行の持続のうちで充たされてくる」という表現はみごとである。そして,坐禅という行の持続こそが「己事究明」なのだ,と。ここで問題にされている「自己」とは,ヨーロッパ近代の哲学や思想が到達した「自己」とはまったく次元が異なるようにおもう。もっと言っておけば(あとで,しっかりと論じたいとおもうので),我(Ich)と禅仏教でいう自己とは,その根源のところで異なっている。しかしながら,問い詰めていくと限りなく近いところまで接近してくる。それでも,最後の一線を超えて一致することはありえない。この問題については,もう少しさきのところで(マルチン・ブーバーの「我と汝」問題を考えるところで)考えてみたいとおもう。
 上田は,この問題にかんして,最後につぎのように述べている。
 「行とはしかしいわゆる坐禅だけの事ではない。いつでも,何をしていても問題になるのが自己というあり方であり,行は「全自己」(西田幾多郎)の問題だからである。行住坐臥すべてが行によって統一されなければならない。古人も,「せぬときの坐禅」,すなわち坐禅をしていないときの坐禅,「動中の工夫」を強調している。見牛──得牛──牧牛という行の相続においてこの問題は特に大切である。」
 さて,この一文を読んで,みなさんはなにを考えるのだろうか。

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