2010年7月19日月曜日

日本の教育現場は「我とそれ」(ICH UND ES)に占拠されてしまったのだろうか。

 今朝の朝日新聞に「いま,先生は」という特集記事の第一回目「孤立,命絶った教師」が掲載されている。読んでいて情けなくなってしまった。涙が止まらない。
 2004年9月,静岡県磐田市の市立小学校に採用されて半年後,24歳の女性教師は絶望の果てにみずからの命を絶った,という。わずか半年である。
 この女性教師はこどものころから先生が大好きで,教師になることを夢見ていたという。いい教師になるためにといって,学生時代からボランティア活動に取り組み,東南アジアのストリートチルドレンの支援にかかわったこともある,という。新任教師になってからの半年間の記録は,担任としての実践記録や友人に送ったメールや親との会話で,ほぼ,全体像が把握できている。
 その主なものを転載してみると以下のとおり。
 4月1日 とても緊張した。責任の重さを感じると同時に,子どもたちを愛していこう,全力を尽くそうと心に誓った。
 5月7日 いじわるをされ仕返しがこわくて何も言えない子や,円形脱毛症になりかけている子がいると,家庭訪問した親の話をきいて初めて知った。
 5月31日 授業が下手だから・・・教室内の重い空気になんともいえない息苦しさを感じる。子どもを愛すること,できているのかな。
 7月17日 「悪いのは子どもじゃない,おまえだ。おまえの授業が悪いから荒れる──と言われ,生きる気力がなくなりそうに感じました。苦しくて。苦しくて。苦しくて。」(友人へのメール)
 9月28日 同じ教室にいてなんで止められないんだ,問題ばっかり起こしやがって,って言われた。何回も学年会で助けてほしいと言っているけど,言ったときに来るだけで後がないんだよ。(母親への訴え。死の前日)
 わたしはこの記事を読みながら,かつての奈良教育大学時代の教え子のH君の話をありありと思い出していた。熱血漢のかれは中学の体育教師として,大阪府の中学校に着任した。そして,陸上競技の部活に力をそそぐ。ちょうど梅雨どきだったように記憶する。深夜に,わたしのところにやってきて,相談がある,という。顔をみたら別人である。顔全体が腫れ上がって,眼のまわりは青痣だらけである。唇も切れていて,何カ所か絆創膏で止めてある。わたしの方がギョッとした。なにがあったのだろうか,と。
 H君の話を聞いたら,こういうことだった。学校では生徒たちとも楽しく授業ができているし,先生たちとも仲良くしている(かれの学生時代の人気ぶりからみても,そうだろうとわたしは確信する)。ある雨上がりの日の放課後,中学の卒業生がひとりオートバイに乗ってやってきて,運動場を走り回り,グランドをぐちゃぐちゃにしめじめた。あわてて飛び出していって,「こんなことをしてはいけない」と諭して,オートバイごと校門の外に追い出した。
 翌日の放課後,昨日の1人とその仲間の5人が徒党を組んで職員室になだれこんできて,H君を取り囲んだ。H君は,校長先生から,どんなことがあっても学校内で手を出してはいけない,と固く言い含められていた。なぜなら,H君は空手の有段者で,しかも関西地区で優勝した経験もあるからだ。校長先生の言うとおり,手を出さないで口で応答していたら,こんな風になった,という。職員室にはほぼ全員の先生方がいたという。しかし,だれ一人として助けてもくれなかったし,見て見ぬふりをしていた,という。校長さんは「よく我慢した」と褒めてくれた,という。H君は「冗談じゃない」と校長さんに食ってかかったという。こんどは,まわりの同僚の先生たちが止めに入った,と。そのあと,すぐに病院に行って手当てをしてもらい,家に帰っていろいろと相談をした。友人にも電話をして意見を聞いてみたという。みんな「手を出したらいけない」と言ったという。
 まず,なによりショックだったのは同僚の先生たちのとった態度だった,という。ふだんのあの親しげな同僚の先生たちが,あんな態度をとるとは信じられない,と。
 で,わたしへの相談とは,こうだった。あの卒業生たちは,雨が降ったら必ずオートバイでやってくる。そして,これみよがしにグランドを荒らすに違いない。もし,来たら,こんどは一人残らずなぐり倒してやる。そうすることがそんなに悪いことか,どうか,先生の意見を聞きたい,と。
 わたしは即座に答えた。やりなさい。ぼこぼこにやりなさい。でも,向こうが抵抗しなくなったら,黙って追い出しなさい,と。当然,そういうことが起これば大きな事件になるだろう。そして,裁判になるようなことがあったら,わたしも法廷に立とう。命懸けで応援してやる。それで君が首になるようなことがあったら,わたしも大学を辞する。そういう覚悟を決めたから,やりなさい。
 H君は涙を流しながら,わたしの手を握って,黙って頭を一つ下げて帰っていった。
 それから数日後,新聞の三面記事のトップにでかでかと大きな活字が躍っていた。「暴力体育教師,卒業生をめった打ち」。わたしは覚悟していたから,「やはり」と納得しながら冷静に記事を読んだ。そして,すぐに親に連絡をとった。必ず先生のところに相談に行くことになるとおもうので,よろしくお願いします,とのこと。
 それから,毎日のようにこの「事件」が報道された。しかし,活字がだんだん小さくなっていく。しかも,事実関係が明らかになるにしたがって,報道の表現が変化しだした。そして,いつのまにか,警察も新聞も味方につけてしまい,教育委員会だけが煮え切らない態度をとりつづけた。しばらくの間,H君は自宅謹慎だったが,生徒や親からの嘆願書,そして,かれの大学時代の同期の仲間たちからの嘆願書などが認められて,やがて,職場復帰した。生徒たちからは圧倒的な支持を受け,陸上競技部の生徒が100人を超えたという。しかも,陸上競技の練習は早朝練習のみ,放課後は勉強せよ,という指導方針。それでいて,やがて大阪府で総合優勝し,ついには全国大会でも総合優勝する陸上の名門校になった。
 いま,H君の本は本屋さんに平積みになって置かれている。H君の講演はどこもかしこも大入り満員。迫力のある話芸も相当なものだ。それは,みんな血の出る経験から磨きあげられた,H君の努力の賜物である。いまも,時折,H君とは会って話をすることがある。礼儀正しい,さわやかな青年の顔をしている。もう,いいおじさんのはずなのに・・・。
 ついに,残念なことに,わたしの出番は一度もなかった。それもまた,H君のこころにくいほどの神経のゆきとどいた配慮があったからだ。
 この「できごと」は,すでに30年ほど前の話である。
 いまは,もっと陰湿というべきか,個々ばらばらというべきか,自己中心主義の浸透というべきか,自己保存のためには手段を選ばずというべきか,周囲には人間はいなくて,いや,人間がいるのだが,それらはすべて「事物」と化してしまったというべきか。
 マルチン・ブーバーの言う「我と汝」(ICH UND DU)の関係が,ごくわずかしか残っておらず(それが,かろうじて教育現場を支えている),その大半は「我とそれ」(ICH UND ES)に占拠されてしまった,というべきか。
 このことは,なにも教育現場だけの話ではない。日本の社会全体がそういう隘路にはまり込んでしまっている,ということだ。教育現場はそのひとつの縮図にすぎない。企業も官僚も,そして,大学も,みんな同じだ。この問題をうまくクリアしている企業は優良企業としての実績を残しているし,官庁も,大学も同じ。いま一番熱心にこの問題に取り組んでいるのは,わたしが耳にするかぎりでは,優良私学である。経営者も教員も職員も一丸となって,この問題に取り組んでいる。そういう私学はすぐに世間が評価する。公立から私学へと,財力のある親は子どもたちの進学先を変えている。公立学校にいま,いろいろの改革の試みがなされているのは,こういう背景があるからだろう。
 わたしたちは,単なる学校現場というように限定したり,特定して考えるのではなく,自分自身の「我と汝」(ICH UND DU)問題に真剣に取り組むべきところに立たされている,と自覚すべきであろう。まずは,「生きもの」としての要請に答えうる「理性」を,いかにして獲得するか,ここで,ふたたび『理性の探求』(西谷修)の主張が甦ってくる。
 竹内レッスンもまた,こういう視座に立って,なんとかして思い悩んでいる人びとに手をさしのべ,「応答」の方法を探索し,その努力の「粋」が,たとえば「呼びかけのレッスン」であり,「じかに触れる」レッスンだったのだ,と痛いほど伝わってくる。
 わたしたちは,ようやく,その端緒についたばかりなのだ。

1 件のコメント:

925 さんのコメント...

わたしも冒頭の朝日新聞の記事を読み、しばらく動けなくなってしまいました。新任の先生の日記にある「子どもたちに尽くそう、子どもたちを愛していこう」という気持ちが、このような形で失われることに言葉を失います。
 わたしも小学生の子どもをもつ保護者でもあるのですが、自己中心的になっている教育現場は日々実感します。PTAの会合にでても、身勝手と思える保護者からの要望などを聞くと、どのような場でも「消費者」としての個を(市場経済が浸透するこの社会で、学校も等価で交換するサービス業と考えているのか)学校にまで持ち込む社会の縮図をみる思いがします。