2010年7月21日水曜日

『アマゾン』民族・征服・環境の歴史,の紹介。

 ジョン・ヘミング著,国本伊代+国本和孝訳『アマゾン』民族・征服・環境の歴史,東洋書林,2010年5月刊。
 新聞広告をみた瞬間から食指が動いた。でも,いま,この本に手を出すわけにはいかない。それまでに片づけなくてはならない仕事が山ほどある。それらの仕事に一区切りついたら,この本を買おうと決めた。そうしたら,なんと,この本がプレゼントとしてとどいたのである。念ずれば通ず,というが驚いた。しかし,まだ,読むだけの余裕はない。それでも気になって仕方がないので,パラパラめくってみる。これがいけなかった。いつのまにか読みはじめてしまっているのである。気持ちが向かっているときというのはそういうものなのだ。とにかく面白そうなところから,あちこちとぱしながら,拾い読みをする。
 まず,書名のつけ方がうまい。原著は「Tree of Rivers, The Story of The Amazon」。直訳すれば『川たちの樹,アマゾン川の話』となる。なんのことだろうか,とおもう。しかし,訳者と編集者の智恵は,これを『アマゾン』民族・征服・環境の歴史,という書名にいたりつく。この書名だったから,わたしは新聞広告をみて素早く反応したのだとおもう。もし,直訳のような書名だったら,「この本はなんだろうなぁ」と想像するだけで通過してしまっただろう。翻訳とはこういうことなのだろう,と以前から考えていたので,まさに諾うべしである。
 アマゾン・・・世界一の川にして,その周囲はジャングル。そのほとんどは原始の状態のまま,人びとはその大自然と折り合いをつけながら生を営んでいる。最近では,この大自然に「開発」という名の暴力が襲いかかり,密林がつぎつぎに消えていく,という。この程度の知識しか,残念ながら持ち合わせてはいない。しかし,不思議なことに,最近になって,わたし自身の問題意識が大きく変化しはじめてきて,そのことと連動して「アマゾン」ということばに敏感に反応するようになった。それは,「ヒトが人間になる」ということはどういうことだったのか。そのとき,なにが起こったのか。ヒトは大自然の内在性のなかに生きていたのに,なぜ,その内在性に生きる道を捨てて,その<外>にでてきてしまったのか。このときから,ヒトの大脳新皮質には大きな革命が起きた。つまり,ヒトから人間になるとは,自分の頭脳で「考える」ということをはじめたことを意味する。
 そのきっかけとなったのは「有用性」だとバタイユはいう。その「有用性」は,はじめは,人間としての「生きもの」の要請に応えることが中核にあったはずである。しかしながら,人間は徐々にその「有用性」にさまざまな「過剰な」「価値」を賦与しはじめる。そのきっかけはなにであったのか。狩猟・採集から,しだいに動物の飼育や,植物の栽培へと,「生きもの」としての要請は拡大していく。それとともに,狩猟・採集時代の「祝祭」とは異なる飼育・栽培時代の「祝祭」へと変化・変容していく。このとき,「スポーツ的なるもの」が,どのようにして発生してくるのか。かんたんに言ってしまえば,こんなことを考えはじめている。
 だから,「アマゾン」のひとことで,わたしの眼は一気に惹きつけられてしまったのだ。おまけに,「民族・征服・環境の歴史」というサブ・タイトルが,さらに追い打ちをかける。ちょうど来年の秋には「グローバリゼーションと伝統スポーツ」という国際シンポジウム(第二回日本・バスク国際セミナー)が控えている。そこでの基調講演も依頼されている。全部で三日間にわたる議論を,どのように仕掛けて,少しでも実り多いものにするにはどうしたらいいか,徐々に切実な問題になりつつある。すでに,何回もこの準備のための組織委員会も開催されている。
 とりわけ,「グローバリゼーション」ということばが,勝手に一人歩きをしていて,どうも「空中戦」に流れてしまい,その実態がみえにくくなっている。とくに,「グローバリゼーションとスポーツ」といったときの具体的なイメージが湧いてこない。もちろん,すでに,多くの議論があることは承知している。しかし,どこか空々しいのである。そうではなくて,もっと地に足のついた,実際に生きている人間にとって「グローバリゼーションとスポーツ」の問題がどのようにかかわっているのか,ということを考えたいのである。そのためのアンテナを張っていたところに,この本の広告が眼に入った。だから,その瞬間に「これだ」とおもった。
 その直感は間違ってはいなかった。この本を手にとり,まず,帯を読む。そこにはこうある。
 この川は私たちの未来なのだ! 自然の魅力と脆弱性,そして人間の先取の精神と飽くなき欲望・・・世界最大の熱帯雨林地帯は,すべてを呑み込みながら今日も息吹き,「地球の肺」として営為を続けている。先住民史研究の第一人者たる著者が,大航海時代に「発見」された先住民とヨーロッパ人との酷薄なかかわりから,近代化と産業化が自然に与え続けている影響までを語り,21世紀の世界の行く先を明示する。
 これで,わたしの予感は一気にふくらむ。すぐに,目次にいく。
 いきなり「第6章 ゴム・ブーム」と「第7章 ゴムの暗黒面」が眼に飛び込んでくる。すぐに,ここから読みはじめてしまう。だが,いまはそれをしているときではない,ともう一人のわたしが止めに入る。そんなことを何日かにわたってくりかえしているうちに,この二つの章は読んでしまう。断るまでもなく,ゴムは近代スポーツの展開にとっては不可欠の存在である。ゴムを製造・加工する技術と近代スポーツの進展とはパラレルである。このゴムの原材料を収集するために,先住民がどれほど過酷な労働を強いられ(それはまさに奴隷そのものであった),一日のノルマを果たせなかった人びとは「死の鞭打ち」刑に処せられた,という。近代スポーツのグローバリゼーションの負の側面がこうして浮き彫りになってくる。この話を書きはじめたら止まらなくなってしまう。あとは,それぞれの興味・関心に合わせて読んでいただくとしよう。
 つぎに,わたしの眼を惹きつけたのは「第10章 飛行機,チェーンソー,そしてブルドーザー」である。ここには,ヨーロッパ人がこの地に踏み込んでからこんにちにいたる500年の間に,なにが起こったのか,恐るべき事実が浮き彫りにされている。たとえば,最初の450年の間に起きたことは,ヨーロッパ人が先住民を徹底的に搾取したこと,そして,ヨーロッパ人の強欲が無制限に「暴力化」し先住民の人口を激減させたこと,だという。そして,この間はアマゾンの自然破壊はほとんどなかった,という。残りの,わずか50年の間に,技術革新とも相まって,恐るべきスピードで熱帯雨林が破壊されつづけているのだ,という。
 このことと,わたしたちの日々の生活は無縁ではない。この地で伐採された木材が日本に大量に輸入されていることは,もはや知らぬ人はいまい。しかし,日本人移住者がブラジルに持ち込んだ大豆の栽培が,密林を広大な畑地に変えてしまった,という事実や,カラジャス鉄鉱山の開発に日本もその一旦をになっていること,そして,その実態がいかなるものであるのかを知ることの衝撃は,いかんともしがたいものがある。わたしたちは,なにもしていないつもりでいる(日々の日常生活はそのように進行している)が,立派に地球の環境破壊に貢献していることを肝に銘ずるべしである。
 というような次第で,この話もエンドレスになってしまう。あとは,どうぞ,みなさん読んでみての感想などお聞かせください。大脳の新皮質の皮が一皮剥ける覚悟で読んでみてください。ひとまず,ここまで。

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