2010年7月22日木曜日

マルチン・ブーバーの「対話」について

 これまで何回もとりあげてきたテクスト『我と汝・対話』(植田重雄訳,岩波文庫)の後半部分に収められている「対話」について,少しだけ触れておきたい。
 有名な「夢」の話からはじまる。ブーバーはみずからの体験として,自分のみる夢,それもくりかえしみるおなじみの夢のなかで,なにか遠いところから聞こえてくる人間の声でもない,動物が吠えているような,得体のしれないものの発する「音」を聞く。その不思議な「音」に対して,夢のなかでははっきりと意識して「応答」している自分がいる。その「応答」も,なんだかわけのわからない「叫び」だという。しかも,全力をあげて大きく長く「叫ぶ」のだという。すると,また,どこか遠いところから,意味不明な「音」が聞こえてくる。それを何回もくり返す。ここでは明らかに「対話」が成立している,と。
 ブーバーはこれを「原初的記憶」と名づけて,なぜ,こんなことが起こるのかとみずからに問う。しかし,あるときから二度と,この「野獣の夢」をみなくなる。最後にこの夢をみたときには,「わたしの叫びの声が消え,再び心臓が静かに止まった。しかしそのあとに静寂のままで,応答の叫びはおこらなかった」と書いている。このことがきっかけとなって,ブーバーは,それまで聴覚にたよって外部の情報をえることしか考えていなかったが,それ以後,からだ全体をつかって,つまり,あらゆる感覚器官を総動員することを覚えたという。そのとき以来,わたしのからだは「開かれた」状態になった,と。すると,こんどは「遠くからではなく,わたしの身近なまわりの大気から,声とはならない応答がやってくるようになった」と。
 このあたりが,どうやら,ブーバーのいう「われとなんじ」(Ich und Du)の原風景なのかなぁ,と想像している。つまり,日常のなかでごくふつうに起こる「ぼくときみ」ではない,大文字の「Ich」と「Du」の関係が成立する原点を指し示しているのだろう,と。夢のなかでなにかに「呼びかけ」られ,それに「応答」する「わたし」は,明らかに日常の「わたし」とはまったくの別人である。つまり,意識が立ち上がる以前に,なにものかから「呼びかけ」があって,それに対して,自分でもわけのわからない「叫び」(応答)を発する,これはある意味では,自他の区別もあいまいなままの状態での「対話」の始原としか言いようがないだろう。だから,ブーバーは「原初的記憶」という言い方をしているのだろう。
 そこを通過すると,つぎには(これはあくまでブーバーの個人的体験に限定されるが),身近なまわりの大気から,夢のなかでよりはやや明確な「呼びかけ」があり,それに対して「応答」しているわたしがいる。このわたしは,わたしであってわたしではない。つまり,わたしではないわたしの出現である。すなわち,大文字の「Ich」=「われ」である。言ってしまえば,自然の声を聞き,それに応答するわたしは,日常のわたしではない。同時に,「呼びかけ」をしてくる自然もまた,たんなる自然ではない。こうして他者のなかでも他者にあらざる他者が誕生する。ここが「なんじ」=「Du」の「場」となる。
 こういう「われとなんじ」が成立する「場」があって,はじめて「対話」が成立することになるのだろう。この夢の話のつぎに登場してくるテーマが「沈黙が伝えるもの」である。ここでは,たまたま出会った二人の男性が,ベンチに並んで座り,ひとこともことばを交わさないでいる。ひたすら,お互いに沈黙を守ったままでいる。にもかかわらず,一人の男のなかで,突然,自分を拘束していた呪縛が解消してしまうということが起きる。「それがどこから生起したかは問わない。とにかく突如として起こった。しかし彼は今や彼自身だけが支配する力をもっていく一つの隔意を自ら止めてしまうのである。すると彼から隔意なく伝達が流れ出,沈黙がこの伝達を隣りにいる男にもたらすのである。この伝達はこの男に向けられたのであり,すべての真の運命の出合いにたいしてこの男がいつもするように,この伝達を隔意なく受け取るのである。」
 愛し合う恋人同士でもない,信仰を共有する二人の宗教者でもない,たまたまゆきずりの男二人が沈黙の時間をすごす。そうして,このような「伝達が流れ出」て,その伝達を「隔意なく受け取る」ということが起こる。ブーバーは「対話」にことばも身振りも,なにもいらない,という。必要なのは,自分をがんじがらめにしている呪縛を解き放つことだ,と。つまり,精神的にも身体的にも,まったくの自由を確保すること,そうすれば「隔意」がなくなる,あとはなるがままに・・・,という具合である。
 このようにして,ブーバーは「宗教の対話」を語り,つぎのような「問題提起」を行っている。引用しておくので,熟読玩味のほどを。
 対話的なものは,人間相互の交わりに制限されない。すでにそれはわれわれに例示されたごとく,相互に人間が向かい合う態度である。ただ人間の交わりにおいて,じつにこれがよく表わされているにすぎない。
 したがって,会話や伝達がおこなわれなくとも,対話的なものの成り立つ最低条件には,内面的行為の相互性が,意味上分離しがたい要素となっているようである。対話によって結ばれている二人の人間は,明らかに相互に相手の方に向かい合っていることでなければならぬ,それゆえ,──どの程度,活動的であったか,どの程度活動性の意識があったかということはとにかくとして──向かい合い心がそこに立ち帰るということでなくてはならない。
 このブーバーの主張をどのように読むかは自由である。わたしは不遜にも,この引用文を読みながら,じつは,スポーツの成立要件のことを考えている。スポーツは「対話」ではないか,と。そこでの「対話」はいかなる特徴(特質)をもっているのか,と。本気である。

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