2010年7月30日金曜日

「身体の叛乱」ということについてのメモ・その1.

 ここ数日来,ある必要があって「身体の叛乱」ということについて考えている。いろいろの様態があって,概念として整理する上で手を焼いている。
 とりわけ,薬物使用による「身体の叛乱」をどのように考えればよいのか,いまも決断がつかない。そう,スポーツでいえば「ドーピング」の問題である。しかし,ドーピングは,厳密にいえば,スポーツ選手が禁止薬物を使用することを意味する。それ以外の薬物を使用することはドーピングとは言わない。それなのに,世間一般では,ドーピングの概念はきわめてあいまいなまま,勝手に一人歩きをして用いられている。
 2003年に滞在したドイツ・スポーツ大学ケルンの学生寮(超高層ビル)の一階には「ドーピング」という名のカフェ兼飲み屋があった。ジョークにしてはやりすぎだとおもったが,ドイツ人的感覚ではそれほどでもないようだ。酒を飲むということが,日本ほど罪悪視されてはおらず,学生食堂ですらビールを売っていて,昼食をとりながらビールを飲んでいる光景はごく日常的なものであった。そして,そのあと,実技の授業にもでていくし,教室の授業にもでていく。もちろん,先生も飲んでいて,そのあと授業をやっている。つまり,かれらにとって夏のビールは水とほとんど同じなのである。喉の渇きを潤す清涼剤の一種という感覚である。
 それでも学生たちが屯するカフェ兼飲み屋に,しかも,キャンパスの中にあるにもかかわらず(ということは立派な公的施設の一部),その店に「ドーピング」という名前を冠して,それとなく楽しんでいる風でもある。やはり,いくらかアルコールを飲むことによって,身体の叛乱を期待しているところもなきにしもあらず・・・というところなのだろう。まあ,言ってみれば,ビールを飲むということとドーピングのイメージはどこかでつながっているのだろう。その点,われわれ日本人は,すぐに酔っぱらうから(ドイツ人は滅多に酔っぱらわない),アルコールとドーピングはほとんどイコールで結ばれる。ビールといえども立派なアルコール,すなわち,薬物なのだから。こうして,いつのまにか薬を飲むこと,イコール,ドーピングのような感覚が広がっている。
 さきほどからいささか躊躇しながら書いていることがある。それは,「叛乱」ということば遣い。つまり,身体の叛乱と言ったときに,どういう状態から身体の叛乱というか,ということ。理性のコントロールにたいして,言うことをきかなくなる身体の境界線をどこで引くか,ということ。アルコールでいえば,酒乱や泣き上戸や怒り上戸,笑い上戸などで,明らかに常軌を逸したときには身体の叛乱と呼べるとしても,その常軌を逸するのラインはどこか。
 ちょっと中途半端になってしまったが,今日はここまで。

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