2010年7月12日月曜日

「自己ならざる自己」が立ち現れる「絶対無」という「場所」

 さきを急がないと,マルチン・ブーバーを語ることなく,17日の研究会がきてしまう。それまでに,できるだけのことはしておこう,という次第で,今日2つ目のブログに挑戦。
 「自己」でもなく,「真の自己」でもなく,「自己ならざる自己」とはどういうことなのか。そして,それが立ち現れる「絶対無」の場所とはいかなる「場所」なのか。もう少し踏み込んで考えてみることにしよう。もちろん,上田閑照の読解に寄り添いながら。
 「・・・・絶対無は,聖俗なみならず,本来非本来という実存哲学的な,主客という認識論的な,有無という存在論的な,善悪美醜という価値論的な,あらゆる形態と意味における二元(両頭)とそれに基づく区別対立が空ぜられるところである。したがってまた一元論ではない。「一」は「二」と二をなしている故に。絶対無は,「一」に非ず「二」に非ず,空空たるところ,ここが根源的な「自己なし」の場である。単に「自己の無」というのではない。端的に絶対無。ここで真に「自己の無」。」
 さて,一直線に核心部分に飛び込んでみたが,いかがだろうか。
 ここをうまく通過できるとあとが楽になる。
 絶対無とは,実存哲学的な区別対立(本来非本来)も,認識論的な主客や,存在論的な有無や,価値論的な善悪美醜や,ありとあらゆる形態と意味における二元論的な区別対立を,ゼロにしてしまうところである。それは一元論でもない。なんにもなくなってしまう「空空たるところ」だという。だから,こここそが「自己なし」が成立する場である,ということだ。それは単なる「自己の無」というのではなくて,「絶対無」を通過することによって照らしだされてくる,真の「自己の無」だ,と。
 ここで想起してほしいことは,以前のブログで話題にした「百尺竿頭一歩出」である。百尺の竿のてっぺんに立って,そこから一歩を踏み出せ,というのだ。その一歩を踏み出した瞬間に,わたしたちのからだは宙に舞う。この重力の法則に身をゆだねたさきに広がる「落下」の世界。なすすべもなく「空」(=絶対無)に身をゆだねるのみである。ここには,すでに「自己は無い」。禅でいうところの「大死」である。この「大死」をも表現したものが第八図「空円相」である。
 さきの文章につづけて,上田閑照はつぎのように説く。
 「自己の経歴としての十牛図におけるこの第八空円相はある種の絶対性をあらわしている。しかし,自己がここで絶対になるという意味では決してない。自己が自己として絶対というのでは決してない。ここが最肝要のところである。真に「自己の無」ということが絶対的なのであり,そしてそれは自己による自己の自己否定では決してあり得ず,端的に絶対無ということである。絶対=無。」
 「絶対=無」。「無」は「絶対」である,と。だから,「自己の無」は「絶対」である,と。そこには,「否定」も「肯定」もありえない。ましてや「自己否定」はありえない。自己が「無」なのだから。この「絶対」である「自己の無」=「大死」を通過すること,ここがポイント。
 さらに,上田閑照はつぎのように説く。
 「仏教の場合もともと,実体的思惟を解体する智慧の働きが空観であり,そこに実相が現れる。絶対無は,非実体的に「無の無」と転ずる。大乗仏教一般の古典的な言い方では,空とは「空もまた空」ということであり,したがって「色即是空,空即是色」ということである。そしてこの「空もまた空」「無の無」と転ずるところに「命根(みょうこん)断ずるところ絶後に再び甦(よみがえ)る」,「自己ならざる自己」に甦るということが現起する。」
 さて,ここで問題の「自己ならざる自己」が登場する。この「自己ならざる自己」が「絶対無」という「場所」において甦るというのだ。これがなにを意味しているのか。そこからさきを上田閑照は語ろうとはしない。これでこと足れりとしている。欲張りなわたしには不満である。あるいは,無知なわたしには理解不能である。そこで,なにがなんでもわたしなりに納得できる論理を求めたくなる。それは以下のとおり。
 「色即是空,空即是色」という『般若心経』の中核をなす考え方と,「空もまた空」や「無の無」という考え方とは若干のズレがある,とわたしは考える。「色即是空,空即是色」は,かたちのあるものはかたちのないものであり,かたちのないものはかたちのあるものである,その両者の間には違いはない,みんな同じだ,とわたしは読み解く。このことと「空もまた空」や「無の無」とは違う。こちらは,同語反復(トートロジー)である。「自己ならざる自己」は,「空もまた空」や「無の無」と同列には並ばない。では,「自己ならざる自己」とは,どういうことなのか。
 絶対無を通過して自己が無となる。そのとき,自己は絶対無の「場所」に開かれていく。それまで維持されていたいかなる自己も無となり,絶対無のなかに溶け込んでしまう。その絶対無のなかに溶け込んでしまう自己とは,わたしのイメージでは,内在性のなかに溶け込む自己と同じにみえる。すなわち,「水のなかに水があるように存在」する「自己」である。その「自己」は,すでに,以前の自己ではない。水のなかに溶け込んだ水のような「自己」である。ということは,水のすべてが「自己」と同一化するということだ。「自他」の区別がなくなるということは,こういうことだ。だとすれば,他者の中に「自己」をみることも可能となる。もっと言ってしまえば,あらゆるもののなかに「自己」を見出すことになる。すなわち,「自己ならざる自己」の出現である。
 それを可能とする「場所」が「絶対無」の「場所」であり,わたしの好きなことばに置き換えれば「内在性」の「世界」である。竹内敏晴さんが,じっと眼をこらして見据えていたのは,この地平ではなかったか。そして,この地平こそ,竹内敏晴さんがワークショップをとおして試し,確認し,みずからの理論と実践の根拠としようとしていたのではなかったか。「火になる」ワークショップなどは,「自己ならざる自己」のもっとも典型的な事例と言ってよいのではないか。「じか」に触れるワークショップは,その原点を指し示すものではなかったか。
 ここにマルチン・ブーバーという補助線を引いて,17日に議論できれば,幸いである。
 もちろん,その前に,まだまだ考えておかなくてはならない問題は山ほどある。
 わたしの思考がそれまでに整理できていればいいのだが・・・・。

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