2010年8月6日金曜日

正剛さん,参りました。あなたの「劇薬」が効きすぎました。

 本は本屋さんに立ち寄るたびに何冊かは買って帰る。これはもう長年の習性のようなものである。だから,何冊もの未読の本が山となっている。
 締め切りのすぎた原稿が残っている間は,読書をして楽しむ気にはなれない。気が弱いのである。なんとなく申し訳ないという気持ちがどこかで牽制している。その気がかりになっていた原稿がようやく終わってほっとしたので,そのご褒美に・・・・と手を伸ばしたさきに正剛さんの本が待っていた。そう,正剛さんとは,あの松岡正剛さんのことである。これまでにも何冊か楽しませもらっているので,しっかりと味をしめている。目の前にあった本は,連塾・方法日本・Ⅰ『神仏たちの秘密』日本の面影の源流を解く(春秋社,2008年12月)と連塾・方法日本・Ⅱ『侘び・数寄・余白』アートにひそむ負の想像力(春秋社,2009年12月)の2冊。あと1冊,でる予定。全3冊。
 このシリーズは,松岡正剛さんが,何人かの人に頼まれてはじめた「連塾」で行った,全部で8回にわたる講義を3分冊にまとめたものである。その第一冊目の本の帯には「この講義は劇薬です」と大書してある。そして,「つまらないニッポンに喝を入れる一途でパンクなセイゴオ流・高速シリーズ,第一弾」というコピーがついている。「劇薬です」とはっきり書いてあったので,最初からそのつもりで読みはじめる。にもかかわらず,あっという間に「劇薬」が全身にまわって,しびれたまま本のとりこになってしまった。つまり,途中で一休みして,別の仕事にとりかかる,などということを許してくれない困った本なのである。だから,最後まで読み切るしかない。
 冒頭からカウンター・ブローをボディに深く叩き込まれてしまったのは,以下のひとことであった。それは,日本の文化はむかしから「絶対矛盾」の「自己同一」(西田幾多郎)でやってきたのだ,これが「本来」の日本文化の姿であり,そのことをよく承知した上で「将来」のことを考えろ,というセイゴーさんはおっしゃる。そして,その事例をつぎからつぎへと繰り出す。しかも,そのジャンルはとどまるところを知らない。博覧強記どころではない。むしろ,セイゴウさんがみずから位置づけているように,「方法」として「日本」を考えるために必要な情報を洗いざらい提供する,という姿勢がすごい。そして,徹底している。
 たとえば,「日本には和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)というものがあります」というところからはじまって,つぎのように展開していく。
 「和魂は事態や気分を和(なご)ませ,和(やわ)らげる。荒魂はその逆にやや荒っぽく方法を行使することです。いま,和風が見なおされ,『和』がブームになっていますが,私は今日の日本にはむひろ『荒』のほうが大事だと考えています」
 「というのも,『荒』は『荒れる』と綴るけれど,これはスサビとも読みます。スサビというのは,風が吹きすさぶとか,口ずさむとか,屋根や庭が荒れている,というときに使う言葉ですね。スサノオノミコトの『スサ』も同じ語源です。いずれくわしい話をしますが,事態や光景や好みが長じていくことがスサビです。スサノオという名もそこから来ているわけで,荒魂を代表する荒神(こうじん)でした。歌舞伎にも荒事(あらごと)と和事(わごと)がありますね。
 ただし,ただ荒れるだけ荒れればよいというものではない。それは『乱』です。日本の荒魂はつねに毅然としたものがあり,どこかで和魂と結びあっているところがあった。それが すさぶ ということなんです。しかも,この『スサビ』は『荒』であって,かつ『遊』とも綴った。だから,遊びと綴ってスサビと読むのです。そこがたいへんおもしろい。」
 という具合です。「遊び」が「スサビ」と読めるとは,まさに,目からうろこです。ここからはじまって,建築の「てりむくり」,歌合などの「アワセ・ソロイ・キソイ」,和漢折衷,和洋折衷・・・・など,など。これらの具体的な内容については,どうぞ,この本を読んで確認してみてください。もっともっと,いろいろの事例が,これでもかこれでもか,ととびだしてきます。それはそれは驚くべき分野にまで広がっていきます。
 そういう話を展開させながら,日本の文化は「多様さを一途に追い求める」ところに大きな特徴がある,とセイゴオさんは力説します。そして,その「多様さ」と「一途」を矛盾することなく調和させてしまう,と。だから,「絶対矛盾」の「自己同一」である,と。おまけに,西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と一息で読め,と言ったという注釈までつけてくれます。「一にして多」「多にして一」という禅仏教のことばとして知られているこれも「絶対矛盾的自己同一」である,と西田幾多郎が言っていること,鈴木大拙もまた同じように言っていること,しかし,この「一にして多」「多にして一」という考え方のもとをたどっていくと「華厳」にゆきつく,という。しかも,鈴木大拙の晩年は,もっぱら「華厳」の世界に没頭していた,と。日本の禅は「華厳」にもそのルーツをもっている,という具合にもうとどまるところを知らぬ,驚くべき話の展開に唖然としてしまいます。
 こういう話の間には,桑田佳祐の歌からJ-POPの「長2度」の話や,声明との関連,などまでも取り込みながら,「絶対矛盾」の「自己同一」の実態を明らかにしていきます。
 セイゴオさんの本を読んで,大いなる安心もいただきました。わたしも,これまで,かなりいい加減な雑学ばかりをやってきたように思っていますが,最近になって,なんだか,それらの雑学がみんな一点に集まってきて,みんなつながっている知の連鎖であることに気づきはじめていたからです。これでいいんだ,と。いま,わたしの頭のなかを駆けめぐっている諸矛盾もいずれは一点に集まってきて,それとなく「自己同一」するときがくるのだろう,と。つまり,お互いに牽制し合いながらも,それとなく調和するときが。
 さて,こうなったら,連塾・方法日本・Ⅱ『侘び・数寄・余白』アートにひそむ負の想像力,に手を伸ばすしか方法はあるまい。早く読み終えて,頭の整理をしておいた方が,それ以後の仕事にもよい影響を及ぼすことになろう。などといいわけをしつつ,いささか気が引けながら(じつは,まだ一つだけ,締め切りの切れた原稿が残っている),今夜もこの本を楽しむことにしよう。
 セイゴオさんの「劇薬」に感謝。

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