2010年8月26日木曜日

「贈与」とピンダロスの「オリュンピア第七歌」の関係について。

 一昨日(24日)のブログに書いた引用文のなかに,もう一つ重要な注・10が付されていて,これを取り上げることを忘れていたので,追加しておきたい。
 テクストのP.17のなかほどのところに,つぎのような本文がある。
 「・・・交換し契約を交わす義務を相互に負うのは,個人ではなく集団である(注・9)。契約に立ち会うのは,クラン(氏族),部族,家族といった法的集団である。ある時は集団で同じ場所に向かい合い,ある時は両方の長を仲介に立て,またある時は同時にこれら二つのやり方で互いに衝突し対立する(注・10)。」
 注・9も,じつは重要な注(葬儀・葬送と贈与の関係について述べられている。ここでは「槍」が取り上げられているが,ホメーロスの『英雄叙事詩』のなかには「葬送・葬祭競技」がしばしば取り上げられている)なのであるが,これについては授業のなかで考えることにして,ここでは注・10について,考えてみることにしよう。
 注・10は,P.25にある。それは以下のとおり。「ピンダロスのような後期の詩人も『我が家において年若き娘婿のために乾杯する』と述べている(Pindare, Olympiques, Ⅷ[Ⅶの間違い:訳注])。この詩節全体は,われわれが後に述べようとしている法の状態を示している。贈与,冨,婚姻,名誉,恩恵,縁組,献酬の主題や,婚姻によってもたらされる嫉妬の主題すべてが,表情豊かな,注釈が必要な言葉によって示される。」
 この注の話は,スポーツ史研究の分野でもよく知られた,ピンダロスの『オリュンピア祝勝歌集』のなかにある「オリュンピア第七歌」ロドスのディアゴラスのために──ボクシング優勝,のことである。幸いにも手元に,ピンダロス『祝勝歌集/断片選』(内田次信訳,京都大学学術出版会刊,西洋古典叢書,2001)があるので,その場所を確認してみよう。その冒頭に,以下のようなコメントが付してある。まずは,そこから確認しておこう。
 「前464年の優勝を祝う。ディアゴラスはロドスの名家の人。その一門はかつてはイアリュソス市の王族であった。ディアゴラスとその一族は数々の競技栄光によって全ギリシア的に著名で,ロドスの政治史においても重要な役割を果たした。彼らの像がオリュンピアに立てられ,その基台が近代の発掘で発見された。ディアゴラスの像は,近代,ギリシアの切手の図案にもなった。
 梗概 詩人が優勝者に捧げる歌を,豊かな男が花婿に贈るぶどう酒の金杯に譬える。トレポレモスが故郷ティリュンスを去り,ロドスへやってきた話を叙述。時間を遡り,太陽神の子たちヘリアダイがうっかりして供犠の火を忘れたが,ゼウスとアテナに恩寵を受けた話をし,さらに遡って,太陽神への分け前を神々が失念したが,その後ロドス島が神に与えられた話を語る。ヘリアダイとその子孫のこと。トレポレモスがロドス人から受ける栄誉に触れ,ディアゴラスとその一族の名声を讃える。」
   以上は訳者の前振り。ギリシア神話によほど通暁していないかぎり,この前振りは理解困難。ギリシア神話事典でも引きながら,一人ひとりの登場人物(あるいは,神々)を確認しておいてください。さて,この前振りにつづいて,本文である詩文が登場する。

 〔ストロペ 一〕
 あたかも内側がぶどうの露で泡立つ盃を人が取り上げ,
 裕(ゆた)かな手から若い婿へ,
 一つの家から他の家へと,
 祝杯のために贈ろうとする──それは全て黄金製で,彼の最も貴い財であり,
 賀宴を盛り上げつつ新たな縁故を尊んで彼がそうすると,
 居並ぶ宴客の間で若者は,心を和した臥所(ふしど)のゆえに羨望を受ける,

 〔アンティストロベ 一〕
 そのようにわたしもムーサイの贈り物,流れるネクタルを,
 賞を得た男たちにわが心の甘美な果実として送り届け,
 オリュンピアとピュトの勝者たちに,
 崇敬を表す。名声に恵まれる者は幸せである。
 そして生に花咲かせるカリスは,ある時はある者に,またある時は別の者に,目を掛けつつ,
 しばしば甘い歌声の竪琴と万(よろず)の音色の笛とによって祝福をなす。

 このようにして,勝者を讃える歌が,このあとにつづけて13片ある。長くなるので割愛するが,この「婚姻」によって展開する「贈与」がつぎつぎになされていく様子がつぶさにわかる。いうなれば,祝福の贈与である。この慣習は,いまでも,どの地域でも行われているといってよいだろう。こうした贈与のなかに歌舞音曲はもとより,競技もふくまれていた(に違いない),という事実を確認できれば,大きな問題が一つクリアできたことになる。これは宿題ということにしておこう。受講予定の学生さんたちは,各自でいろいろの方法を用いて調べてみてほしい。
 たとえば,マルセル・モースは,この祝勝歌の冒頭の一節にある「黄金の盃」を贈与として指摘しているのだが,なにゆえに,マルセル・モースはこの「黄金の盃」に注目したのか,ということを分析すること。あるいは,この祝勝歌(第七歌)のここかしこに「贈与」とみられる行為が描写されているので,それらを整理してプレゼンをしてくれるとありがたいのだが・・・・。
 あるいは,この本(ピンダロス著『祝勝歌集/断片選』)全体をとりあげて分析する方法もある。この本には,「オリュンピア祝勝歌集」「ビュティア祝勝歌集」「ネメア祝勝歌集」「イストミア祝勝歌集」といった,いわゆる古代ギリシアの四大祭典競技の「祝勝歌」が収められている。これらを,一つひとつ,精緻に読み解いていくと,そこには「贈与」とおぼしき行為がいたるところに散りばめられていることがわかる。つまり,古代ギリシアの祭典競技の全体像は「贈与」的世界の因習を色濃く残している,と考えることができるからだ。

 未完・・・・あとで補完の予定。とりあえず,ここまで。


 

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