2010年8月30日月曜日

「贈与」は「気前よさ」の表出なのであろうか。

 『贈与論』を読んでいて,いつも気になっていることを,問題提起としてここに提示してみたいとおもう。それは「気前よさ」という表現で「贈与」が説明されることである。
 たとえば,以下のような文章である(P.40)。
 「シベリア北東部のすべての社会,アラスカ西部のエスキモー,ベーリング海峡のアジア沿岸部のエスキモーなどにおいては,ポトラッチは,気前のよさを競う人々,そこに運ばれる物あるいは消費される物,そこに参加,関与して人々に名前を与えている死者の魂に対してだけでなく,自然に対しても,ある種の効果を与えている。精霊と同じ名前を持つ者同士の贈り物の交換は,「同じ名前であるために」死者の霊に加えて神,物,動物および自然の霊を刺激し「人々に対して気前よくなる」ように仕向ける。」
 この文章全体の意味をどのように読み解くかという問題はひとまず措くとして,「気前のよさ」「気前よくなる」という表現に焦点をあててみることにしよう。序論のP.18で確認したように,ポトラッチのもともとの意味は「食物を与える」「消費する」ということにある。このことが,ただちに「気前よさ」とつながるのかどうか,というのがここでのわたしの疑問であり,問題提起である。「食物を与える」ということは「気前よさ」なのか。「消費する」ということがどうして「気前よさ」になるのか。少し考えてみたいのである。そこには,ヨーロッパ近代のものの見方・考え方にもとづく「物差し」が,無意識のうちに紛れ込み,それを優先していないか,という疑問である。
 たとえば,「エスキモー」という表記は,1925年のヨーロッパにあっては,ごく当たり前のことであった。しかし,いまではこの表記はされない。エスキモーということばの代わりに「イヌイット」と表記される。理由は明白である。「エスキモー」というのは「生肉を食べる人」という意味で,それはヨーロッパ文明国の視線から名づけられた呼称である。それに対して,われわれは「イヌイット=人間」であるからして,「イヌイット」と呼んでくれ,という主張がなされた。その結果,こんにちでは,かつて「エスキモー」と呼んでいた人びとのことを「イヌイット」と呼ぶようになった。
 これと同じことが「気前よさ」というまなざしに紛れ込んではいないか,とわたしは危惧する。はたして,「食物を与える」ことや「消費する」ことをイヌイットの人びとが「気前よさ」と考えているかどうか。1925年以前のイヌイットの人びとにとって「食物を与える」ということがどのような意味をもっていたのか,とくと考えてみる必要があるのではないか。これがわたしの懸念である。そのことは同時に,ポトラッチの「始原」に立ち返って考えることを要請する。わたしたちは無意識のうちに自分のなれ親しんだ文化のもつ価値判断に身をゆだね,それが唯一絶対であると勘違いすることが多い。とりわけ,文化人類学的な比較研究においてはもっとも注意を要するところである。
 イヌイットの人びとにとって「食物を与える」とは,その実態は「生肉を与える」ということになろう。では「生肉を与える」とは,どういうことなのか。このことは,アイヌの人びとの食文化に対する考え方と共通すると類推するのであるが,アイヌの人びとは,たとえば,自分たちが生きていく上で必要最小限の魚(鱒)しか捕獲をしない。越冬することのできる必要最小限だけを捕獲し,保存する。余分には捕獲しない。そして,余分には保存しない。その上で「食物を与える」とは,どういうことを意味するのか,と考えてみる。アイヌの人びともまた,食物がなくなって困った人がいると知れば,間違いなく「食物を与える」だろう。これがポトラッチの原型ではないか。アイヌの人びとにとっては,食べ物にかぎらず,人間がわがものとするものは,すべて神々からの恵みもの(神々からの贈与)である。有名な「熊送り」の祭祀は,まさに,神々からの贈与である「熊」の「命」(からだのすべて)をいただいて,その「霊」を神々に送り返す儀礼である。「おみやげ」の語源である「おみあげ」は,こうしたアイヌの文化から生まれたことばである,という。つまり,「おみやげ」は古くは人身供犠にその淵源をもとめることができる,というわけである。
 イヌイットの人びとにとっての「生肉」もまた,神々からの「贈与」と考えられていたのではないか。だから,かれらもまた生活に必要な最小限の「生肉」だけを確保し,それ以上の余分な「生肉」を確保し,保存するということはしなかったはずである。だから,もし,なにかのはずみで必要以上の「生肉」が手に入ったとき(たとえば,「贈与」によって受け取らなくてはならなかったとき),これを自分の手元に置くことを忌避したに違いない。だから,急いで,別のだれかに「贈与」する,ということになる。なぜなら,必要以上のものを確保するということは,神々に対する冒涜であるから。場合によっては,焼き捨ててしまったり,破壊したり,海に投げ捨てたりしてしまう。つまり,「消費する」のである。これがポトラッチという制度をささえる始原の姿だったのではないか。
 バタイユの仮説によれば,もともと,自然存在であったもの(神の所有であったもの)を人間の都合で(有用性に依拠して),人間の所有物にしてしまうという,神に対する罪の意識が,原初の人間にはつねにはたらいていたはずである。たとえば,植物を栽培したり,動物を飼育したりして,もともと神の領域にあったものを人間の領域に持ち込んで,人間が占有する時空間を拡大してきた。その贖罪の一環として,栽培植物の麦を神々に捧げて焼き捨てたり,牛を神々に捧げて殺したりして,それぞれの「霊魂」を神々の世界に送り返すということが行われた,という。これが「供犠」のはじまりだ,と。
 だとすると,「供犠」は,神々から与えられた贈与を,もう一度,神々に送り返すための贈与である,ということになる。つまり,人間から神々への贈与,それが「供犠」である,と。
 この「供犠」が変化・変容していくと,人間から人間への「供犠」がはじまる。そして,その「供犠」がさまざまに変容して,「贈与」という形式が誕生する。それがさらに多様化していって,「ポトラッチ」というシステムが生まれた,と考えることができる。
 そこから「食物を与える」「消費する」というポトラッチの本来の意味が付与されることになる。だから,「消費する」には「供犠」の原イメージが残存している。その延長線上に「食物を与える」という儀礼が成立する,という次第である。
 だいぶ,途中の細かいロジックを飛ばしてしまったが,おおよそのところは理解してもらえようかとおもう。このように考えてくると,「食物を与える」や「消費する」が,たんなる「気前よさ」の表出ではなくて,むしろ,身を切る思いの「供犠」にも等しい行為である,と考えるべきではないか。わたしは,こんなことを,いま,大まじめに考えている。
 もちろん,こんにちの物質文明に浸りきっている現代社会にあっては,人を招待して饗応するということは,別のいろいろの意味もふくめて,ひとことでいえば「気前よさ」と表現することは,十分に可能である。しかし,神々からの贈与を,必要最小限のレベルで「いただく」ことによって,みずからの生命を維持していくと考えていた人びとにとって,ポトラッチはたんなる「気前よさ」の表出ではない,というのがここでのわたしの結論である。
 わたしたちは,いまでも,食事の前には「いただきます」という。この意味は,他者の命を「いただく」ということなのだ。他者の命を「いただく」ことによってわたしたちの命を維持することができる。そのことに対する,ある種の「贖罪」の意識がそこには流れている。
 戦前の教育の話をすると笑われるかもしれないが,わたしが「国民学校」(当時は,小学校のことをこう呼んだ)に入学して,最初におぼえた「唱えことば」は以下のものである。よくもわるくも熟読玩味していただきたい。
 「箸とらば,天地御代(あめつちみよ)の御恵(おんめぐみ),祖先や親の恩を忘れず。兵隊さん,ありがとう。いただきます。」


未完。

1 件のコメント:

925 さんのコメント...

ブログの主旨とすこしずれてしまいますが、「エスキモー/イヌイット」の民族呼称の問題は複雑だと思います。コメントの字数が限られているため詳しくは書けませんが、現在、アラスカは「エスキモー」、カナダ(しばしばグリーンランドも)は「イヌイット」と呼ぶとわたしは理解しています(カナダ先住民は自分たちが「エスキモー」と呼ばれることを拒否しているが、アラスカ・エスキモーは「イヌイット」ではないため)。また、「エスキモー」の語源も、現在「かんじきの網を編む」という意味であるとする研究者が多いかもしれません。その語が「生肉を食べる」という意味に誤解され(誤解された当時は差別意識は少なかったが)それが広がるにつれ、「生肉を食べる」ことを民族呼称とすることは差別であるとの「良識」が生まれマスコミなどが一斉に排除した語のようです。この民族呼称に関する議論は複雑なところで差別問題と絡んでいるのではないかと感じます。