2010年10月8日金曜日

「小沢強制起訴」に踏み切った検察審は大丈夫か。

 10月5日の朝刊はどこも1面トップで「小沢強制起訴」をかかげて,検察審査会が起訴に踏み切る審査の流れを詳細に伝えた。そして,朝日は「法廷決着 市民が選択」と小見出しをつけて,編集委員が実名で「解説」をしている。
 現行制度になんの疑問も呈することなく,さも当たり前のごとく検察審査会の結論を受け止め,こんごの展開に議論が滑っていく。わたしは,まったく別の次元で,とても不安で仕方がない。はたして,検察審査会のくだした結論はこれでよかったのが,いったい,どのような基準で委員の人たちは判断をくだしたのか,まことに居心地が悪いのである。なぜなら,もし,わたしがこの委員に任命されていたとしたら,どうしただろうか・・・・と。
 それは裁判員制度についても同じだ。この制度については,恥ずかしながら,ことしの5月に開催された日本記号学会のシンポジウムで,その実際の手順というものをかなり詳細に知ることができた。不勉強を恥じるのみだが・・・。しかし,じつは,この詳細を知る前から,裁判員制度なるものを日本に持ち込んできて,大丈夫なのか,という基本的な疑念があった。いやいや,正直に告白しておこう。裁判員制度は日本には不要である,とわたしは考えていた。
 なぜなら,アメリカで有効だから日本でも有効であるはずだ,というこの断定の仕方がそもそも間違っている,と考えるからだ。アメリカと日本とでは,なによりもその歴史が違う。したがって,その文化も違う。もちろん,宗教も違う。ことばも違う。ということは,人生観も世界観も,アメリカと日本とではまったく違う。なのに,アメリカにとってとてもいい制度だから日本もおやりなさい,と言われて「はい,そうですか」と言って,そのままそれを移入・受容した日本政府(自民党政権時代の政府)は,いったい,なにを考えている/いたのか,とわたしはかねてから疑問に思っていた。そんな制度はいらない,と。
 もう少し踏み込んでおこう。アメリカという国がどういう歴史過程をへてこんにちに至ったかを,ほんの少し考えるだけで答えはでてくる。だれでも知っているとおり,1776年に独立宣言をして,国家として承認されたのは1783年である。以後,短期間のうちに世界のあちこちから「移民」が流れ込み,その人たちが「国民」となった。この人たちが集まって,智慧を出し合い,まったく新しいルールをつくったのである。それには初手から,みんなで相談をし,合議を重ね,ようやくにして合意に達する,という方法しかなかったのだ。たとえば,移民した人たちの子弟のための学校をつくるにしても,みんなでお金を出し合い,土地を購入し,教育の方針や教育内容まで話し合い,それを引き受けてくれる先生を雇い入れる,というところからはじまった国である。だから,争いごとが起きたときも,それをどのようにして裁くかは,互選で選ばれた(あるいは,抽選で選ばれた)住民代表にゆだねることからはじまった。すなわち,裁判員のはじまりである。裁判所の制度が整うのは,そのあとのこと。だから,裁判所ができ,専門家の裁判官が養成されたのちも,住民代表の裁判員という制度は残ったのである。
 このような裁判員制度を,なぜ,日本に導入しなければならなかったのか,その必然性はまったくなかった。にもかかわらず,その制度が「政治」の独走で,あれよあれよと思う間に決まってしまった。それを見過ごしたわれわれの責任でもあるのだが・・・・。
 そして,こんどは検察審査会である。あの「検察」が立件不可能と判断した(それも2回にわたって)小沢問題を,まったくの素人集団(平均年齢30数歳)である審査員により,11人中8人以上の委員の賛成があって強制起訴が議決されたという。
 大阪地検特捜部の大失態は論外だが,こちらの検察審査会の「判定」もまた,まったく逆の「権力」が出現したかのように,わたしの目には映る。これはこれでまた新しい「暴力」装置の誕生ではないか,と。
 この問題については,西谷修さんも即座に反応され,10月5日のブログで書いていらっしゃるので,ぜひ,読んでいただきたい。わたしのような浅知恵と違って,もっと本質的な問題の指摘をなさっている。題して「セーラムの魔女狩り」? 小沢強制起訴について。
 わたしは,小沢一郎という政治家に対してけしていい印象をもっているわけではないが,この決定によってひとりの政治家の命運が決せられることは間違いない。もし,万が一,郵政問題のように,裁判の結果,小沢一郎さんが「無実」となったとしたら,ムラキさんのような復職は不可能だろう。もう,すでに,朝日新聞は社説で「自ら議員辞職の決断を」と書き立てている。まるで犯罪者扱いである。こうして,犯罪者はつくられてしまう時代なのだ。
 検察審査会の判定も,たぶんに,メディアの影響を強く受けた結果ではないかとすら勘繰りたくなってくる。いまや,メディアほど恐ろしい「暴力」装置はない,とわたしは恐れている。
 いやはや,くわばら,くわばら。

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