2010年10月22日金曜日

「観察」と「観照」の違いについて(マルチン・ブーバー)。

 マルチン・ブーバーの『我と汝・対話』のなかに,「観察,観照,会得」という見出しの短文が登場する(P.184)。このなかにはっとさせられる指摘が少なからずある。
 まずは,ブーバーのいうところを引いてみよう。
 「観察者は,観察すべき人間をよく記憶し,記述するために緊張している。彼は相手をしらべ,記述する。彼はできる限り多くの特徴を記述しようと骨折る。彼はその特徴を何一つ見逃すまいと様子をうかがう。対象はさまざまの特徴から成り立ち,諸特徴から対象の背後に存在しているものを知る。人間の表現体系の知識は,たえず新たに現れる個々の変化をたちどころに包括し役立つものとする。顔は表情にほかならず,行動は表現身振りにほかならない。」
 このように「観察者」について,厳密に定義を与えた上で,ブーバーはつぎのように話を展開していく。
 「これに反して,観照者は概してこのような緊張をおこすことはしない。彼は自由に対象を見れる態度をとり,自分に示されるものを,虚心に待ちうける。ただ始めのうちは,彼の思慮がはたらくけれど,その後になるとすべて恣意的なものは消滅する。彼は,記述することはひたすらおこなわず,生起するものをそのまま生起させ,忘れることすらおそれない。(忘れることはよいことである)とすら彼はいう。彼は記憶に課題を与えたりはしない。彼は残るに値いするもののみを残し,記憶の有機的働きに委せきっている。彼は観察者のように草を緑の飼料として運びこむことはしない。彼は干し草を投げて裏返し,太陽の光を当てやる。彼は特徴に注意をはらわない。(特徴は誤りにおちいらせると彼はいう。)重要なことは,対象の<特質>や<表示>ではない。(興味をひくことは重要ではないと彼はいう。)すべてすぐれた芸術家は観照者である。」
 これらの文章を読みながら,わたしはなにを考えているのか。そう,参与観察による記述(ディスクリプション)の問題である。それともう一つは「ヴィジョナリー・スポーツ」の問題である。
 ことばの厳密な意味では,参与観察は,たんなる観察者よりは一歩踏み込んでいることになる。が,このときの「参与」とははたしてどのようなレベルのことを意味しているのか,ある意味で曖昧である。つまり,観察者と参与者は間違いなく別だ。しかし,参与観察者とは,どのようなポジションをとることを意味しているのか。そこから生まれる「記述」(ディスクリプション)とはなにか。やはり,最終的には「外見の記述」に終始することになるのではないか。
 それに引き換え,観照者の立場は,まったく別である。「記憶の有機的働きに委せきっている」とブーバーがいうように,対象の外見的な特徴も特質も不要だという。しかも,すぐれた芸術家たちは,ここの地平から多くのすぐれた作品を生み出し,見る人を感動させる。ヴィジョナリー・スポーツの可能性は,この地平にひろがっているとわたしは考えている。これ以上のことはここでは言わないことにする。
 ブーバーはさらに,つぎのように追い打ちをかける。
 「観察者と観照者は,われわれの眼の前に生きている人間を知覚しようとする意図をもっているという立場から,共通している。この双方にとって当の人間は,観察し観照する彼ら自身からも個人的生活からも,分離した対象であるがゆえにまさに<正しく>知覚されるのである。したがって,彼らが経験するものは,観察者の場合には特徴の総和であり,観照者の場合には,実存である。しかしこれによって彼らは行為を要求されたり,運命を背負うこともなく,すべては,切り離された知覚の領域でおこる事柄なのである。」
 「特徴の総和」と「実存」の違い・・・・。このあまりの違いはなにを意味しているのか。
 「ディスクリプション」と「インスクリプション」の違いについては,『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福龍太,西谷修,稲垣正浩著,平凡社)のなかでも,今福さんが持論を展開されている。「<外>に書く」(ディスクリプション」と「<内>に書く」(インスクリプション)との違いは,ブーバーのことばを借りれば,「特徴の総和」と「実存」ということになろうか。そして,ヨーロッパ近代のアカデミズムにもとづく文化人類学は「特徴の総和」に向った。そのために,「実存」の問題はないがしろにされてきたのではなかったか。そのギャップをいかにして埋めていくか,ここに今福さんが主張される立場の一つがある,とわたしは考える。
 そして,話をブーバーにもどせば,「われとなんじ」の<間>の対話(呼びかけ)は,間違いなく「実存」の時空間にしか成立しない。竹内敏晴さんもまた,この観照者の立場に立ち,実存の時空間を目指したのではないか,とわたしは推測する。
 この問題は,ブーバーの思考のなかでさらに深化していって,「会得」という段階に踏み込んでいく。この問題については,長くなってしまうので,残念ながら割愛する。テクストのP.186~188.を参照していただきたい。ただ,つぎの一文だけは紹介しておこう。
 「語りかけられるという働きは,観察や観照の働きとは,全く異なっている。」
 

0 件のコメント: