2010年10月28日木曜日

innewerden ということについて。その3.サッカーのピッチに神の降臨をみる。

 ちょっとしつこいと言われるかもしれないが,innewerden ということについて,少し違ったアングルからのわたしの考えを述べておきたい。
 これは,わたし自身の反省点でもあるのだが,innewerden について書いたブログに対して,「おもしろい」にクリックしてくれた読者があまりにも少ないので,じつは驚いている。わたしとしては,かなり悦に入って,新たな知の地平がマルチン・ブーバーをとおして開かれてきたと喜び勇んで書いたものである。にもかかわらず,多くの読者に「パス」されてしまった。もともと,わたし自身の研究ノートのようなつもりで書いているブログなので,「おもしろい」の数などは無視してよいのだ,と自分には言い聞かせていた。しかし,あまりの少なさは,やはり,気になって仕方がない。
 そこで,どうして?と考える。
 やはり,書き方が悪い,という結論に達する。ドイツ語がある程度わかる人にしか,この話は通用しない書き方をしている,と。
 そこで,今日はもう少し,具体的な事例に結びつけて考えてみることにする。もちろん,具体的な事例とは,スポーツである。それなら興味を示してもらえるのでは・・・,と。
 innewerden を,スポーツの事例に惹きつけて考えるとすれば,わたしの訳語は「共感する」「共振する」ということになるだろう。では,なぜ,そうなるのか。
 マルチン・ブーバーは,ことばがなくても「対話」は成立する,という事例として「ベンチに坐る二人の男性」の話を書いている。この二人は,なぜか,共に「共感し」「共振し」ている。だから,ことばは不要なのだ。こういうことは,スポーツのトップ・アスリートたちは,しばしば経験しているはずである。
 たとえば,サッカー。MFのA選手がボールをもらった瞬間に,このつぎのプレイをどのように展開しようかとイメージしたことが,他のポジションにいる仲間の選手のだれかに「共感」「共振」されたとしよう。その選手はそのイメージどおりに全力で走りだす。お互いのイメージが完全に共有されているので,ピン・ポイントでボールの受け渡しが可能となる。こういうパスやセンターリングがうまくつながったとき,スーパープレイが生まれる。
 これが,たとえば,一つのinnewerden である。
 この概念の前段として,マルチン・ブーバーが「観察」と「観照」という概念を提示していたことを思い出そう。これもまた,スポーツの具体的な事例に当てはめて考えてみよう。
 たとえば,ひとくちにサッカーファンといっても,いろいろの位相がある。それを,マルチン・ブーバーの概念に当てはめてみると,「観察」のレベルから「観照」のレベルへ,そして,さらには「共感・共振」のレベルへと並べて考えることもできよう。
 「観察」は,選手たちの外見に強い関心をもって,ことこまかに観察することを楽しんでいるレベルとしてみよう。選手たちのからだの特徴(背が高いとか,がっちりした体躯だとか,ハンサムだとか)や,足の速さ,ボールさばき,チーム・プレイへの機能の仕方,とうとうに眼が向っているレベル。ファンの最初の段階は,みんなここから始まるのだろう。
 しかし,「観照」となると,少し違ってくる。たんなる観察をとおしてみえてくるもの以外のもの,つまり,ふつうの人の眼には見えないけれども,サッカーに通暁してくると,まるで見えているかのように見えはじめるもの,マルチン・ブーバーのことばを借りれば「実存」。辞典的に説明すれば,「対象を主観を交えずに冷静に見つめること」となる。あるいは,仏教用語でいえば「智慧をもって事物の実相をとらえること」。芸術分野では「美的対象の受容における直観的認識」。これらを全部ひとまとめにして,サッカーに当てはめてみると,一番近い感覚は,見ていて「美しい」と感動する場面に出会うことだろうか。「潜在的なるものが突如として顕在化する」瞬間に立ち会うこと,とでもいえばいいだろうか。
 そして,innewerden =「共感・共振」である。ファンの立場からみれば,選手とファンが「共感・共振」すること。スタンドから見ているはずのファンが,いつのまにか選手と一体化している。まるで,プレイをしているかのように,ピッチを駆け回っている。そういう瞬間というものがある。こういうことを一度でも体験したことのあるファンは,もう,病みつきになること請け合いである。熱烈なサポーターといわれる人たちには,こういう人が多いはずだ。「オレが応援に行かないと,負けてしまう」という使命感のようなものが漲っている。
 とまあ,こんな具合なのだ。ただし,断っておくが,あくまでもスポーツの場面に,マルチン・ブーバーが提示した「対話」における三つの概念をかなり強引に当てはめてみただけのことである。むしろ,これをヒントにして,さまざまな文化を,ブーバーのいう「対話」の概念を用いて考えてみること,これが大事である。もっと卑近な例を引けば,日常的な人間関係,コミュニケーションの問題からはじまって,動物や植物,あるいは,鉱物といった自然存在との「対話」について考えることが重要なのである。
 つまり,21世紀を生きるわたしたちにとって「対話」(ブーバーの意味で)とはなにか,そして,いかにあるべきか,を問い直すこと。スポーツ文化論の立場から,ブーバーの「対話」の概念を,どのように受け止めていくか。教育の現場ではどうか,などなど。
 こういう意図があって,2回の「innewerdenということについて」というブログで,わたしなりの論考を試みてみたという次第。ご理解いただければ幸いである。

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