2010年12月10日金曜日

内在性への回帰願望とスポーツの関係について。

 わたしたちには,締め出されてしまった動物的世界への回帰願望が,どこかに秘められているのではないか,という仮説をわたしはもっている。そして,スポーツの中には動物性への回帰願望を充足するなにかがあるのではないか,と考えている。しかも,トップ・アスリートのなかには,内在性ともおぼしき追体験をしている人も,相当数いる,と聞く。
 スポーツ競技におけるフロー体験や,ゾーンに入るとか,陶酔や憑依(トランス)の体験などについては,これまでにも少なからず知られている。
 たとえば,ドイツの哲学者のハンス・レンクはその著『スポーツの哲学』の冒頭で,オリンピック・ローマ大会でボート(エイト)競技の決勝レースのゴール寸前で起きた「フロー体験」について,鮮烈な印象とともに語っている。それは,一瞬,時間が停止してしまったかとおもわれるような状態に入り,あらゆるものがスローモーションのように見えはじめ,肉体疲労の極限状態にあるにもかかわらずその疲労感すらどこかに消えてしまった,という。まるで異次元の世界,あるいは,夢の中の世界に入ったかのようにおもったという。にもかかわらず,堂々たる優勝を果たし,かれは金メダリストとなった。
 このような事例は挙げていけば際限なくある。が,いまは,そこに深入りすることは避けよう。
 ここでは,バタイユが,このことと共振・共鳴するような言説を残しているので,それとの関連につて考えてみることにしよう。
 たとえば,「動物的世界は,内在性と直接=無媒介=即時性の世界であると私は言うことができた」(P.30)とバタイユは述べている。そして,「それはどういうことかと言うと,この世界はわれわれにとっては閉じられているように思えるということ」とつづけている。ということは,わたしたち人間には与り知らぬ世界だ,ということを意味しよう。つまり,人間に固有の鮮明な意識の<外>にある世界,というように考えることができる。つまり,人間としての意識のコントロールの効かない世界である。
 にもかかわらず,わたしたち人間はそういう動物的世界への憧憬や親近感を,忘れてはいない。バタイユは,「動物は私の眼前に,私を魅惑して惹きつけるような,そして私にとって慣れ親しい深淵を開く。この深淵を,ある意味で私は知っている。それは私の深淵だからである」(P.28)と述べた上でつぎのようにも述べている。「なにかしら甘美なもの,秘められて痛々しいものに促されて,われわれの内部でいつも目覚めている内奥的な光明が,こうした動物的な暗闇の底を照らし出すまで伸びていくのである」(P.29)と。
 この感覚は多くの人が共有できるものだろう。そして,人間と動物が一体化する経験をもつ人も少なくないだろう。人間と動物とは,かなりの部分で通じ合えるものをお互いにもっていることは事実だ。にもかかわらず,わたしたちは,ある瞬間に,動物性の前で足踏みをしなければならなくなる,とバタイユは言う。「意識の判明に区切られた明晰さのために,私がこの知りようのない真実から遠ざけられてしまう瞬間,つまり私自身から世界へと,私の眼前に出現するや否や逃れ去るこの認識しようのない真実から,ついに最も遠ざけられてしまう瞬間があるのだけれども,そのような瞬間に逆向きに接近可能にするということだけなのである。」(P.30)
 バタイユは,はっきりと動物との親近感を受け止めつつ,ある瞬間に動物性の前で閉じられてしまう,と述べている。ここで述べられていることは,人間と動物との連続性と断絶性の問題である。言い方を変えれば,意識と無意識の間の連続性と断絶性,と考えることもできよう。だとすれば,一人の人間の中で起こることと同じこととなる。フロイトを引き合いに出すまでもなく,意識と無意識のはざまで揺れ動く人間としての困難を,わたしたちはみんな共有している。だから,人間は,人間性豊かな生を営むと同時に,ときには動物性に身をゆだねることもある。
 スポーツ文化は,こうした人間のかかえこんでしまった人間性と動物性のはざまで揺れる諸矛盾を,同時に解消するための一つの文化装置として生成・構築されてきたものではなかったか,とわたしは考えている。だから,動物性とはなにか,それを問い詰め,深く考えることが人間性とはなにかの答えを導き出すためには必須のことだ,とわたしは考える。
 動物性から抜け出して人間性へと移行していくときに失った内在性への回帰願望が,わたしたち人間の内奥の奥深くに秘められていることは,まず,間違いはないだろう。問題は,その受け皿の一つとして「スポーツ文化」をとらえることはできないものか,ということだ。この問題にどこまで接近することができるか,バタイユのテクスト=『宗教の理論』には,他の類書よりもはるかに深く応答してくれるものがある,とわたしは考えている。

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