2010年12月17日金曜日

9.労働する人間と道具。

 この節では,ノートに書き写しておきたいような名言が,あちこちに登場する。そうしたバタイユの名言を手がかりにして思考のトレーニングをしてみることにしよう。
 まずは,冒頭の書き出しから。
 「一般的に言って事物たちの世界は,ある失墜状態と感じられる。なぜならその世界は,それを創り出した人間の疎外をもたらすようになるからである。」(P.52.)
 「一般的に言って事物たちの世界は・・・」と言われると,なんだか他人事のように聞こえてしまうが,「事物たちの世界」とは,言うまでもなく「人間たちがつくった世俗の世界」であり,なにを隠そう,わたしたちが生きているこの現実の世界は,その成れの果てなのである。その世界が「ある失墜状態」だと感じられる,とバタイユは言うのだ。その理由は,「事物たちの世界」を創り出した人間そのものの疎外をもたらすようになるからだ,という。わたしたちがこんにち生きている社会は,かつて話題となったパッペンハイムの「人間疎外論」をもち出すまでもなく,長い人類史にあってもっとも過酷な人間疎外をもたらしている時代なのだ。つまり,自分たちが創り出した事物そのものによって自分自身が傷ついているのである。現代科学文明による人間疎外がいかなるものかは,ここであえて述べる必要もないであろう。このことを,バタイユは,事物を産み出した原初の人間に向けて,はっきりと断言しているのである。つまり,人間になるということが,そのまま人間疎外をもたらすことになる,と断じているのである。だから,それは「失墜状態」だとおもわれる,と。
 ここにこそ,「ヒトが人間になる」という事態の背景に隠された根源的な謎を解くための最大の鍵がある,とわたしは考えている。動物性から離脱して人間性へと移行するときに,いったい,なにが起きていたのか,と問うわたしの問題意識はここにある。そして,21世紀のスポーツ文化論を考えるための出発点を,限りなく原点にまで遡らせること,そして,そこから議論を構築すること,そうしないことには,時代精神を超克する新しいスポーツ文化の創造は不可能だ,と考えている。こんにちのスポーツ情況を超克するための,残された唯一の方法がこれだ,というのが長年にわたって模索してきたわたしの結論である。
 つぎなるバタイユの名言に移ろう。
 「従属させるということはただ単にその従属させた要素を変えるということだけではないのであって,そうする者自身が変えられるということなのである。」(P.53.)
 と述べた上で,これは「一つの根本原則とみなしてよい」とバタイユは断言している。こういう文章に出くわすと,バタイユの得意とするアフォリズム的箴言が脳裏をかすめていく。ニーチェのアフォリズムの精神をしっかりと継承し,『内的体験』で示したバタイユのアフォリズムは,ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』に匹敵する名著である。「従属させる」という行為は,まるでブーメランのように投げた者のところに舞い戻ってくる。一方通行ではないのである。このことを深く胸に刻んでおくべきだろう。
 さらに,バタイユの名調子にしばらく耳を傾けることにしよう。
 「道具は同時に自然と人間を変える。つまり道具はそれを創り出し,使用する人間に自然を服従させるけれども,また同時に道具はその服従した自然に人間を縛りつけるのである。自然は人間の所有物となるが,それによって自然は人間にとって内在的であることを止めるのである。人間にとってそれが閉ざされているという条件において,自然は人間のものなのである。人間は自分自身が世界であることを忘却していくが,まさにちょうどその度合に応じて世界を自分の手中に握るようになるのである。人間は世界を否定するけれども,否定されるのは彼自身である。」
 バタイユはきちんと論理を立てて,ひとことずつ,極めつけのことばを刻みつけている。しかし,これらの文章は一つずつ独立させて並記しても,それだけで十分な意味をもっていいて,立派な箴言となっている。しかも,説明不要の簡明さである。世界の極限にまでまなざしが行き届いている人の文章は,どんなにむつかしいことを述べていても,つねに,簡潔で,明快である。このあたりのバタイユの論考は,余裕綽々で,ゆとりさえ感じられる。「人間の疎外をもたらすようになる」その理由が懇切丁寧に説明されていて,コメントをさしはさむ隙間すらない。
 「・・・私が自分にとって同類であるものを,もはやそれ自身の目的=究極のために存在するのではなくて,それにとってはまったく疎遠な目的=究極のために存在するようにと還元してしまったということなのである。」
 このように述べた上で,小麦と子牛を事例として取り上げ,農耕者と牧畜者を対比させながら,それらがいかに「本来の目的=究極」から遠ざかっているか(疎遠な目的=究極に奉仕することになっているか)を説く。つまり,小麦も子牛も農耕者も牧畜者も,みんな「事物」と化してしまって,「本来の目的=究極」からは完全に遠ざかってしまっていると強調する。
 たとえば,小麦の「本来の目的=究極」は,地面に落ちて根を張り芽を伸ばし,生育して種を実らせて,その種を地面に落し,本体は枯れて朽ち果てること,ただそれだけである。つまり,小麦としての「生」をまっとうすることにある。しかし,小麦の殻粒が農業生産の単位となり,農耕者の手にかかると,完全なる事物と化す。そこでは小麦の「本来の目的=究極」からは切り離されてしまって,小麦はもっぱらパンに製造加工されて,人間に食べられることのためにのみ,農耕者によって栽培されることになる。小麦を栽培する農耕者もまた,小麦の種をまくという労働は,かれにとっての「本来の目的=究極」ではない。かれが種を播くという労働そのものは,だれかがパンにして食べるための小麦の栽培に従属しているのであって,かれがいま行っている労働(種まき)の「本来の目的=究極」ではない。
 「農耕者は一人の人間ではない。それはパンを食べる人の犂(すき)である。極限的にはパンを食べる人自身の行為がすでに田畑の労働であって,食べる行為はその労働にエネルギーを供給しているのである。」
 このことと,まったく同じことが,子牛の飼育にも当てはまる。
 こうして人間は,小麦や子牛を事物と化すことによって,みずからもまた事物となってしまうのである。これを「失墜状態」と言わずしてなんと言うべきか,とバタイユはわたしたちに重い問いを投げかけてくる。
 最後にひとこと。「道具は自然と人間を変える」というテーゼをスポーツ文化論的に解釈すると,どういうことが言えるのだろうか。これは宿題。
 ということで,この節はここまで。

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