2010年12月29日水曜日

『快楽の動詞』を読む。

 山田詠美の『快楽の動詞』(文春文庫,2007年第7刷)という,いささか特異な短編小説集がある。表紙カバーは,つい最近,ガンで亡くなってしまった佐野洋子の絵。そして,巻末には奥泉光の解説がある。
 この解説が秀逸である。きわめて短いものではあるが,山田詠美という作家の特質をみごとにとらえている。その解説によると,山田詠美の小説の中核を形成している特質は「批評性」にある,と奥泉はいう。このところ「批評性」ということばが気になっていて,機会があるたびにこの問題を考えている。なぜなら,アカデミズムの世界でも,ある先端的な議論の場では,この「批評性」が問われているからだ。わたしの分野でいえば,「批評性」の欠落したスポーツ史研究やスポーツ文化論があまりにも氾濫しすぎている。それでいて,そのことの重大性にほとんどの研究者たちが気づいていない。だから,「批評性」の欠落した論文やエッセイは,もはや,なんの意味もないということを(いや,むしろ,大罪であるとすらわたしは考えている),声を大にして言いたい。
 では,どうすれば「批評性」をわがものとすることができるのか,ということをこのところずっと考えてきた。だから,小説の作品に「批評性」があるとはどういうことを意味しているのか,というところにわたしの関心はおのずから吸い込まれていく。
 いうまでもなく,「批評」ということばと共に,すぐに想起されるのは今福さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス』(月曜社)である。そのサブ・タイトルは「サッカー批評原論」である。しかも,目次の序章のタイトルのサブタイトルにも「サッカー批評は世界批評である」と高らかに宣言されている。こちらの本については,「ISC・21」が主宰する月例研究会でも何回も合評会をもち,最後の合評会には今福さんにもお出でいただき,徹底した議論を行ったこともあり,深く記憶に残っている。それ以前にも,「批評」と「評論」の違いについて,今福さんの力説をうかがったことがある。「批評」は文字どおり「クリティック」であり,当然のことながらその人の思想・哲学が問われることになる。一方,「評論」は単なる「コメント」にすぎない,という説明がわたしにはすんなりと腑に落ちた。
 さらには,蓮実重彦さんの『スポーツ批評宣言』などという奇書も,頭の隅で連想しながら,山田詠美の短編小説のもつ「批評性」というものを考えている。蓮実さんは「潜在的なるものが顕在化する瞬間を擁護すること」,これがわたしのスポーツ批評の原点だ,と断言なさる。たとえば,サッカーなどのスーパープレイはゲームの流れの中に潜在化していて,なかなか顕在化はしない。が,あるとき突然,顕在化する。そのとき,人びとは「サッカーの神さまがピッチの上に降臨した」という。こういうプレイを「擁護すること」,これがわたしのサッカー批評の原点である,と蓮実さんは主張される。見えないものを見えるようにすること,人間わざとはとても考えられない神わざを導き出すこと,聖なるもの,すなわち「神」をこの俗界に呼び出すこと,あるいは,聖なるものへの回帰願望を達成させること,もっと言ってしまえば「動物性」への回帰願望を達成させること,という具合にその世界は広がり,かつ,深まっていく。蓮実さんはここまでは言ってはいないが,わたしの勝手な推測を,あるいは,蓮実さんの主張のさきに透けてみえてくることがらを,書き加えてみると,という話である。が,じつは,わたしの「スポーツ批評」の原点は,いま列挙したようなことがらを「擁護すること」にある,と考えている。とはいえ,さきに述べたことはかなり抽象的なものの言い方をしているので,具体的なイメージについては,もう少し,噛み砕く必要があろう。
 それらは,また,別の機会に述べるとして,山田詠美の小説世界に見られる「批評性」とはなにか。山田詠美の小説の,どこに,その「批評性」をみとどけることができるのか。そこを確認することがこのブログのポイントだ。いささか前置きが脱線してしまって,長くなってしまったが,要点だけを述べておけは,以下のとおりである。
 『快楽の動詞』とはよく言ったもので,なんのことはない,その「動詞」はなまなかには口に出すことは憚られるが,だれもが,いざというときには口にする,もっともポピュラーな動詞である。すなわち「いく」。
 この動詞を,詠美ちゃんは高校生のときにはじめて知って,クラスメイトたちに教えてやろうとおもったら,もう,みんな知っていてがっかりした,という話からはじまる。「快楽の動詞」。そこから,詠美ちゃんの恐るべき作家魂が炸裂して,「いく」とはなにごとか,なぜ「いく」などと口走るのか,どこに「いく」のか,などに関して深い洞察を展開。緻密にして繊細な思考をとおして,肉体の快楽に小説はどこまで迫ることができるのか,と問いかける。そして,日本語と日本文学の現状の貧困さを,徹底して笑いのめす。たったひとつの動詞「いく」しか,「快楽の動詞」はないのか,と。
 その上で,詠美ちゃんはおそるべき蘊蓄を傾けて「快楽の動詞」の探索をはじめる。このあとは,どうぞ,テクストに直接あたってほしい。でないと,詠美ちゃんの文章をそのまま書き写すだけで終わってしまいそうだから。ひとつだけ,お断りしておこう。詠美ちゃんの小説は単なるエロ本ではないということを。エロ本であることを否定はしないが,そこには深い思想・哲学によって裏打ちがなされていることを,よも忘れてはなるまい。そこまで読み取れたときに,はじめて詠美ちゃんの本の奥深さをしることができるのだから。だからこそ,山田詠美の小説の根底には「批評性」がある,と解説の奥泉光をして言わしめるのだ。

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