2011年1月25日火曜日

大相撲は世界化できるか。否。

 22日の「山焼きの会」(1月奈良例会)での合評会の中で,わたしへの問いに,「大相撲は世界化できるのか」というものがありました。わたしの結論は「否」。なぜか。そのときにお話したその理由について書いておこうと思います。
 まず,「大相撲」と「相撲」ということばの概念をきちんとしておきましょう。「大相撲」とは,こんにちわたしたちがテレビでおなじみの日本相撲協会が組織している興行相撲のことを意味します。それ以外の相撲は大相撲とはいいません。他方,「相撲」は,大相撲も学生相撲もちびっこ相撲もふくめた普通名詞として,一定の形式をもった(主として,ルールと制度が確立している)ものを意味します。その他にも,わたしは「すもう」ということばを用います。つまり,大相撲でもない,相撲でもない,その他の相撲のようなものをひとくくりにして「すもう」と呼びます。
 以上がわたしの相撲を論ずるときの前提です。そして,以下が本論。
 まずは,結論から。「相撲」の世界化は可能。しかし,「大相撲」の世界化は不可能。
 その理由は以下のとおりです。
 「相撲」の世界化はすでに進展していて,「世界相撲選手権大会」も開催されています(1992年以後)。「ヨーロッパ相撲選手権大会」や,国別の選手権大会も,それ以前から開催されています。ルールも日本発のアマチュア相撲のルールに準拠して行われています。ただし,若干の文化変容が起きていることは事実です。たとえば,土俵ではなくマットが主流。ということは,土俵という概念が基本的なところで違います。つまり,体育館の中でも,野外でも,相撲用のマットをセットすればどこでも土俵ができる簡易式の土俵と,土を盛り上げて,その上に砂を撒いた土俵とでは,相撲の基本的な身体技法(たとえば,摺り足)までもが違ってきます。のみならず,大相撲のように土俵祭りをとおして神の降臨を待つというような祭祀儀礼をとおして聖域化される土俵とは,まったく別物と言わざるを得ません。つまり,日本の伝統的なアニミスティックな神信仰(神道)は,きれいに抜け落ちています。ここが,相撲のグローバリゼーション(世界化・国際化)にともなう,もっとも深いところでの変化・変容ということになる,とわたしは考えています。
 で,この土俵に典型的に現れていますように,日本の大相撲を世界化することは不可能,というわけです。土俵の他にも,たとえば「髷」を結うことは力士の必須の条件になっています。また,場所に入るときの服装も,力士の番付上の地位によって決まっています。つまり,和装です。あるいは,行司さんの装束もたいへんです。このように一つひとつ数えていけば,まだまだあります。こうした日本の伝統的な様式美をどのようにして輸出していけばいいのか,と考えたときどうしても大きな壁に突き当たってしまいます。
 というようなわけで,大相撲が日本から外にでていって,そのまま伝統的な様式美を保持したまま世界化することは不可能だ,というのが現段階でのわたしの考えです。がしかし,日本の国内で開催される大相撲を支える力士たちが「国際化」することは可能です。現に,その進展ぶりを,わたしたちは目の当たりにしています。ですから,このことは説明するまでもないと思います。もうすでに,大相撲の番付表のほぼ半分は外国出身の力士です。三役以上の力士でいえば,圧倒的に外国人力士が多数を占めています。一部には,日本の大相撲が外国人力士たちによって乗っ取られてしまうと危惧する人もいます。ですから,日本相撲協会は,一部屋に一人以上の外国出身力士の登録を認めていません。このように,大相撲の力士の数だけで考えれば,もうとっくのむかしに大相撲は国際化している,ということになります。
 また,外国人力士の代表格である横綱白鵬などは,日本人以上に日本人になろうとしています。日本の国籍をとって,日本人の女性と結婚し,日本の相撲の歴史を熱心に勉強しています。とくに,双葉山を理想の力士として尊敬し,その伝記なども読んで,その理想像に近づこうと努力しています。こういう白鵬のように,日本人になるための努力をまじめにしている力士は比較的多いと聞いています。つまり,そこのところをうまく通過しないことには,外国人力士は大相撲の社会では生きてはいけないからです。逆に,日本人力士の方が,日本の伝統社会の礼儀・作法などをないがしろにする挙動が多いとも聞いています。つまり,いまの若者たちは日本人としての躾けとは縁遠い存在だという次第です。ひょっとすると,この部分でも日本人力士と外国人力士との間に逆転現象が起きてくるかもしれません。
 というような次第で,大相撲がそのままの様式美を保持したまま世界に普及していくとは考えられません。が,相撲の方の国際化は可能であろう,と思います。しかし,それでもなお,その相撲はわたしたちが考える阿吽の呼吸を合わせて立ち上がるというものとはほど遠いものになっている,と聞いています。つまり,阿吽の呼吸を理解するのはとても困難なので,「1,2の3」で立つ,というように教えているそうです。もっと言ってしまえば,きわめて機械的な立ち会いになってしまっている,というのです。当然のことながら,相撲道というような考え方はどこかに消え失せてしまい,完全なる「近代スポーツ」に変化・変容した相撲になってしまいます。これは,伝統スポーツが近代化して「近代スポーツ」となるときの,ひとつの必然というべきでしょう。
 この道は柔道や剣道も同じです。
 日本の伝統的な柔道は国際化すると「JUDO」となり,わたしなどが考えるには,もはや,似て非なるもの,まったく別種の近代スポーツが誕生したという印象です。このことは剣道でも同じことが起きています。また,中国の太極拳でも同じことが起きています。つまり,近代化すること,あるいは,国際化することの背景には必ずそういう問題が隠されています。
 ある特定の地域や社会で伝承されてきたバナキュラーな(土着文化的な)スポーツは,近代化と同時に,そのバナキュラー性を放棄することになります。つまり,土着的な宗教性をすっぽりとそぎ落とすことが,普遍性を求める「近代化」の前提条件となるからです。近代スポーツは,すべて,その道を通過することによって成立した近代に固有のスポーツ文化です。ですから,一見したところ,無色透明なものにみえます。
 ですから,大相撲を無色透明なものにしてしまえば,それはもうまったく別のスポーツ文化になってしまう,とわたしは考えています。ですから,相撲はこれからも世界に向けて広く普及していくと考えられますが,それらは日本で培われてきた「相撲」からはどんどん離れていって,それぞれの地域の文化と融合することによって,さまざまに文化変容していくことは間違いありません。
 というような次第で,相撲の国際化は可能,しかし,大相撲の国際化は不可能である,これがわたしの現段階での考えです。
 みなさんのご意見をお聞かせください。

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