2011年2月16日水曜日

大相撲とは何か,という根源的な議論を。その3.

 大手のメディアを筆頭とする大相撲バッシングが後を絶たない。「八百長」は悪である,と。しかし,賭博に関係のない内輪の八百長は犯罪ではない。だから,警察は一切ノー・タッチである。わたしのように,大相撲は「勝敗原理を取り込んだ伝統芸能である」と,長い間,信じてきた人間からすれば,観客にバレない八百長は立派な「芸」であり,金を払うに値する。しかし,観客にバレてしまうような下手な八百長をしたら「金を返せ」と,土俵に向って吠えるだろう。ただ,それだけの話。なのに,なにゆえにメディアはかくも大相撲を目の敵にしなくてはならないのか。
 大相撲は,土俵の上で力士が繰り広げる相撲の「芸」と,その「芸」にお金を払って観るお客の満足度との関係の上に成り立つ,日本の「伝統芸能」である。だから,素晴らしい相撲の「芸」が展開されれば,お客が殺到し,連日の「満員御礼」の垂れ幕が下がるし,相撲の「芸」がやせ細ってくれば(たとえば,下手な八百長をして),金を払うお客がいなくなるだけの話である。ただ,それだけの話だとわたしは考えている。だから,八百長をやりたければやればいい。お客がつくかつかないか,それだけの話。
 もう一度,くり返す。なのに,なにゆえにメディアはかくも大相撲を目の敵にしなくてはならないのか。わたしには,このことこそが異様であり,異常にみえる。狂気にみえるときもある。日本のジャーナリズムは狂ってしまったのではないか,と。
 その最大の根拠は,大相撲とは何か,というもっとも基本的な認識が不確かなまま,じつに勝手な論陣を張っていることにある。もっと言ってしまえば,大相撲についての信頼のおける歴史認識をもたないまま(あるいは,確認もしないまま),曲解された通説にあぐらをかいて,恥ずかしげもなく署名記事まで書いている始末だ。
 いま,必要なのは,大相撲に関して議論するための事実確認(前提条件)ではないか。
 たとえば,以下のように。
 大相撲は「国技」なのか。なにを根拠に「国技」といえるのか。
 大相撲は「神事」なのか。なにを根拠に「神事」といえるのか。
 大相撲は「スポーツ」なのか。なにを根拠に「スポーツ」といえるのか。
 ここでいう「スポーツ」とはなにか。「スポーツ」の概念をどのようにお考えなのか。
 大相撲でいう「八百長」とはなにか。なにをもって「八百長」というのか。
 「阿吽の呼吸」「待った」のもつ文化性をどのように考えるのか。
 「相撲道」とはなにを意味するのか。
 「横綱の品格」とはそもそもなんなのか。
 このあたりで止めておこう。少なくとも,こうした大問題について確たる根拠もあいまいなまま,論陣を張るジャーナリズムとはなんなのか。

 とりあえず,今日はここまで。つづく(予定)。

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