2011年2月19日土曜日

大相撲とはなにか,という根源的な議論を。その6.八百長とはなにか。

 通称「八百長」と呼ばれていた八百屋の長兵衛さんが,ご近所の相撲部屋の親方と仲良しになり,気慰めに囲碁を打って楽しんでいた。長兵衛さんは親方にいつもお世話になっているので(野菜を部屋で大量に買ってくれる),囲碁の勝負ではいつも「一勝一敗」になるように帳尻合わせをしていた,という。
 ところが,あるとき,囲碁のプロがやってきたので,ご近所の囲碁好きの仲間と一緒に指導を受けることになった。このときばかりは,長兵衛さん,本気を出してプロの胸を借りた。そうしてとうとう,長兵衛さんがプロも舌をまくほどの実力者であることがバレてしまった。
 しかし,親方は自分の不明を恥じて,以後は,長兵衛さんを師匠と呼んで,教えを請うたという。これが「八百長」の語源だといわれている(異説あり)。
 ここで注目しておきたいことは,八百長とは,いまでいうところの「片八百長」がはじまりだ,という点だ。しかも,きちんと「一勝一敗」になるように貸借関係も「ゼロ」になるように帳尻合わせまでしていたという点だ。これはある意味では人間が生きていく上での立派な智慧というべきだろう。この種の「片八百長」は,日本の社会にはむかしから深く浸透している一種の文化ですらある。そして,現代社会においても,この種の「片八百長」は臨機応変に,さまざまな職域や組織や共同体のなかで機能している,とわたしは思っている。
 かく申すわたしも,学生時代の合宿などで,先輩たちと囲碁を打つことは多々あった。しかし,絶対に勝ってはいけない,という不文律のようなものがあって,だれいうこともなく,それはきちんと守っられていた。頑張ったとしても「一勝一敗」,つまり,勝率は五分にしておくこと。間違っても勝ち越してはいけない。これはある特定集団や特定社会にあっては,必要不可欠の潤滑油のようなものではないか。この考えはいまも変わってはいない。
 だから,相手の実力がどの程度なのかは,不明なままである。それでも,手の内を読んだり,詰めのきびしさや甘さをうかがったりしながら,阿吽の呼吸までふくめて,ある程度までは相手の実力を推し量ることはできる。だから,そのあたりのところは,所詮,遊びの囲碁ということに徹して,あまりきびしく詮索しない方がいい。ましてや,囲碁での「ガチンコ」勝負など,挑むべくもない。なかにはそういう人がいて,困ったこともある。だから,そういう人とは友だちにはなれなかった。類は友を呼ぶ。「ガチンコ」の好きな人はそういう人で集まっている。それでいいのだと思う。「遊び」なのだから。
 人生も社会もけしてフェアではない。アンフェアな方が多い。だから,人間はないものねだりをする。それを理想としてかかげる。近代の競技スポーツはその代弁者の代表のようなものである。だから,近代スポーツは徹底して八百長を排除するルールをつくった。近代合理主義の名のもとに。それでも,八百長を根絶することはできなかった。だから,いまも,ときおり,亡霊のように噴出する。そのたびに大騒ぎになる。プロ野球でも,サッカーでも同じだ。定期的に八百長問題が持ち上がる。みんな日常生活では八百長をしているのに,スポーツでは許さない。なぜか。個人(俗人)では実現不可能な理想だから。
 話をもとにもどそう。さて,八百長には,こうした「片八百長」からはじまって,だんだんと手のこんだ八百長へと進化していく側面がある。それは政治や経済はもとより,ありとあらゆる分野にまで,いわゆる八百長文化は浸透していき,それぞれに固有の形態をとる,と言っていいだろう。驚くべきことに教育の現場にも八百長は存在するのである。これを暴き出したら,日本の教育現場は崩壊してしまうだろう。なかには「褒め殺し」などという八百長もある。
 いま,問題になっている大相撲の八百長に限定しても,その内実はじつに複雑で,厳密な意味でその実態を把握することは不可能であろう,とわたしは思っている。なぜなら,たとえば,片八百長などは,当事者にもわからないらしい。講談のネタにもなっている谷風の片八百長の話は有名である。母親が病気でお金がなくて困っている親孝行の力士に,谷風が勝ちを一方的に譲った,という話である。これは「美談」として長く語り伝えられ,こんにちでも引き継がれている。
 しかし,いま,メディアをとおして八百長を批判している多くのジャーナリストたちは,「美談」どころか,スポーツマンにあるまじき行為として一蹴するだろう。それはあまりにも大人げない,とわたしは思う。プロ野球の選手たちにしろ,Jリーガーたちにしろ,もちろん大相撲の力士たちにしろ,よほどの例外でないかぎり,みんな,とても仲良しなのである。だから,長い間,ケガを最小限に防ぎつつ選手/力士生活ができるのである。それを,全部,「ガチンコ」勝負でなければならない,と主張するある種の原理主義者的なジャーナリストが,ここにきて急増している。こういうジャーナリストたちによってスポーツ文化はどんどんやせ細っていってしまう。
 スポーツ文化には,近代化しなければならない部分と,近代化してはいけない部分とがある。別の言い方をすれば,「透明化」しなければならない部分と,「透明化」してはならない部分とがある,ということだ。この矛盾する両者の微妙なバランスのとり方を間違えると,スポーツ文化に未来はない。21世紀はそういう時代を迎えている,とわたしは考えている。
 たとえばの話である。千秋楽に「七勝七敗」の力士と対戦する力士は,もし,こちらに勝ち越しという余裕がある場合には,そして,深い友情がある場合には,わたしなら迷わず片八百長をするだろうと思う。少なくとも「ガチンコ」では闘えない。それが人間だと思う。しかし,同じ相手が初日とか,前半戦の取り組みだったら,それは間違いなく「ガチンコ」でいくだろう。それが友情の証というものだ。だから,大相撲を観戦する場合には,場所の前半と後半では,わたしのみる眼はまるで違う。後半戦の方が,いろいろの力学が複雑にはたらいていてはるかに面白い。もちろん,そこには片八百長もある。だから,絶対にバレないように,力士たちは熱戦を繰り広げる・・・・。なぜなら,興行だから。なによりも,お客さんに満足していただくことが最優先されるから。
 大相撲の八百長には,こうした片八百長から,「拝み」「注射」「星の貸借」「金銭の授受」「賭博」など,わたしが知っているだけでも,さまざまな種類があって複雑怪奇である。おそらく,これ以外にもさまざまな八百長の方法はあって,つぎつぎに新手が生まれていることだろうと思う。
 いま,話題になっている八百長は,少なくとも「賭博」とはなんの関係もないものだ。つまり,大相撲の世界の中での,当事者間でのやりとりであって,自己完結しているものばかりである。だから,犯罪ではない。ただし,倫理的・道義的に許されない。そういう範囲の内側のものである。ここには警察は関与しない。しかし,世論というものが許さない(と,ジャーナリストは言う)。ここが問題だ。はたしてそうだろうか,という疑問がわたしにはある。わたしにとっては許容範囲だから。むしろ,これから土俵をみる大相撲ファンの眼がもっと厳しく,鋭くなってくるだろう,と思うから。そうなると,力士の技量はますますレベルアップすることになる。そういう相乗作用が期待できる。大相撲はもっともっと面白くなる,と確信する。
 そこで,日本相撲協会は自主的に「調査特別委員会」を設けて,八百長の根絶に全力を傾けている,というのが現状だ。しかし,ここで問題になっている「八百長」の定義が,いまひとつ明確になっていない。たぶん,金銭の授受をともなう八百長に限定されてのものだろう,とわたしは推定しているのだが・・・・。ひょっとしたら,片八百長まで,調査の対象にしているのだろうか。

 書きはじめたら止まらない。まだまだ,論じなくてはならないことがある。
 それらはすべて宿題ということにして,今回は〔未完〕のまま,一区切りとする。
 お許しください。

3 件のコメント:

Schneewittchen さんのコメント...

初めまして。
先日来、ニュース サイト内に設けた自分のブログにて、がらにもなく、今般の相撲界の騒ぎについて、いくつかエントリーを あげてきております、その関連の調べもの最中、こちらさまのブログを覗かせていただいた しだいです。
かなり長いもので、こちらへコメント投稿することは不可能と思われましたので、
不躾とは存じますが、こちらさまのブログを、私のブログにリンクさせていただき、そのうえで、いろいろと疑問などを一括した記事としてエントリーさせていただいております。
もしも、このことで ふつごうなど ございますようでしたら、恐縮ながら、ご一報いただけませんでしょうか。
とくには御返事ないならば、ご海容いただけたものと解釈させていただいて よろしいでしょうか。

http://schneewittchen.iza.ne.jp/blog/

Schneewittchen さんのコメント...

さきほどの者です。
引用させていただいた当該記事のりんくは、これです。
http://schneewittchen.iza.ne.jp/blog/entry/2163317/

大仏 さんのコメント...

大相撲とは何か・・・シリーズ。
大変興味深く拝見してしています。
次を楽しみにしています。