2011年4月15日金曜日

浜岡原発をなぜ停止できないのか。

連日の余震はいっこうに衰える様子はない。どう考えても地震活動が収束に向っているとは考えられない。それどころか,浜岡原発の直下12㎞のところにあるフィリピン海峡プレートがいつ動くか,と地震学者は息をひそめている。もう,すでに,ここのエネルギーはたまりにたまっている,と予測されている。いつ,大地震が起きても不思議ではない,という。それどころか,統計的には,近日中に必ず大きな地震がくる,といわれている。
100年から150年に一度といわれる大地震がくるその周期を超えて,ことしは158年目に入っているという。ひょっとすると,1000年に一度の大地震に相当するかもしれない,という。
もし,そんなことにでもなったら,福島原発の二の舞になることはほぼ確実だという。
こういう事態を知れば知るほどに,不安をとおりこして「恐怖」に陥る。
しかも,こういう情報をメディアは極力,流そうとはしない。避けてとおろうとしているかにみえる。しかし,そうではないだろう。こういう情報を秘匿すればするほどに「不安」はいやまし,やがては「恐怖」を呼ぶ。
浜岡原発を停止させても中部電力の電力は足りている,という情報もある。ならば,なおのこと早めに停止させて,すくなくともしばらく様子をみるということをしないのか。
もし,浜岡原発が福島と同じような事態に陥ったとしたら,もはや,日本列島は「沈没」してしまうだろう(かつて『日本列島沈没論』が大きな話題になったことがあるように)。もし,そのようなことになってしまったら,もはや,世界に向けての信頼を完全に失ってしまうだろう。そこから立ち直るには,何世紀もの時間を必要とするだろう。
そのことを考えたら,「節電」などはいとも簡単にできることだ。これまでの「贅沢」を30%「自粛」すればいいだけの話だ。工場などの必要な電力は使えばいい。不要な電力を節約するだけで,充分可能だ。
いま,必要なのは,「節電」を推進する強力なリーダーシップだ。そのためには,まずは,浜岡原発を停止させることだ。そのことによって,事態の重大性を衆知させることができる。そして,まずは,安全を確保した上で,「節電」に向けての努力目標を定めていくこと。たった,これだけのことだ。しかし,それができないということは,いったい,どういうことなのか。なにはともあれ,まずは,ここからはじめるしかないのだ。衆知を集めるのはそれからだ。
地震列島(火山列島)に原発を54基も設置して,原発安全神話に身をゆだね,これまでなにも考えない,なにも行動を起こさなかったわが身が恥ずかしい。福島原発の成り行きをじっとみつめながら,原発の危険性に気づいてしまった以上,もはや,黙っているわけにはいかない。気づいたときがすべての「始まり」だ。
とにかく,できることから始めようではないか。
国内のメディアが極力忌避したがる「脱原発」の市民運動が,すでに,あちこちで始まっている。こちらは,ありがたいことにインターネットをとおして,情報はいくらでも流れている。先日の10日に,高円寺で行われた「脱原発」のデモには,若者たちが1万5000人も集まったという。この集会の伝達方法は,主として「ツイッター」だったという。マス・メディアがいかに情報をコントロールしようとしたとて,もはや,インターネット上を流れる情報を抑えることはできない。これから燎原の火のように,あっという間に,「脱原発」の運動は広がっていくだろう。
その前に,政府は手を打つべきではないか。
浜岡原発が火を吹く前に。
このことが日本列島の「浮沈」にかかわる重大な「決断」だということに,なぜ,気がつかないのか。こんな非常事態のときに,私利私欲にとらわれている政界,財界,学界の無能ぶりにあきれはてるばかりだ。いまは,戦国時代と認識すべし。無能な武将はつぎつぎに没落していく。私利私欲を投げ捨てて,日本の将来をどう展望するかという視力と決断力とリーダーシップをもった武将が台頭することは歴史が教えている。
いでよ,若き武将よ。
そのためにも,まずは,われわれ市民が意志表示の行動を起こすことが喫緊の課題だ。しかも,一刻を争うことだ。ひとりでも多くの人びとが声を掛け合って,浜岡原発を停止させる情況をつくりあげていくことだ。そして,われわれが政治を動かすことができる,という経験をみんなで共有することだ。その意味では,いまが,絶好のチャンスでもあるのだ。
まずは,浜岡原発を停止させること,そこから「3・11」以後の日本の未来は始まるのだ,と。

0 件のコメント: