2011年4月24日日曜日

岡本太郎とジョルジュ・バタイユとの出会いについて。その2.

昨日のブログのつづき。
岡本太郎がジョルジュ・バタイユとの出会いを語っている文献は『自分の中に毒を持て』あなたは”常識人間”を捨てられるか(青春文庫,2011年/青春出版社から新書判で1988年に刊行されたものを文庫化)である。
内容は,若者たちに向けて,生きるとはどういうことなのかをわかりやすく説いたエッセイ。簡単に言ってしまえば,いまある自己を否定して,新たな自己と向き合うこと,この繰り返しこそが自由をわがものとする道であり,生きるということの本質だ,と岡本太郎はいう。そして,このこととかれの説く芸術とは一体化していることになる。つまり,自分の作品もまた,つぎつぎに否定しつづけ,つぎつぎに新たな自己の表出である作品を産み出す。つねに新しい自己と向き合いつづけること,そして,その営みの一環として芸術が成立するのだ,という。かれの説く「アヴァンギャルド」とはそういうことだ。自己否定を放棄してしまったたところで,生きることも芸術も意味をなさなくなる,と岡本太郎は強調する。この自己否定の一瞬,一瞬のエネルギーこそが「爆発」だというわけである。
「芸術は爆発だ!」とテレビをとおして叫んだ岡本太郎の真意はここにある。

この「爆発」ということばの中に,じつは,ジョルジュ・バタイユの思想が凝縮している。つまり,バタイユの説く「消尽」の考え方である。バタイユは「太陽」をみろ,という。太陽はくる日もくる日も休むことなく爆発をつづけ,とてつもなく巨大なエネルギーをただひたすら「消尽」するのみである。この「消尽」こそが自然界の根源的な自然現象なのだ,というわけである。人間もまた,生まれて死ぬまでの間,動物としての(あるいは,生きものとしての)生命エネルギーをただひたすら「消尽」するのみである。ところが,人間は動物性の世界から離脱し,「横滑り」をして人間性の世界に移動してしまった。ここから人間としての「悩み」と「苦しみ」がはじまる。この人間性という呪縛に取り込まれてしまった人間は,その「悩み」「苦しみ」を克服するために,さまざまな文化装置を設定する。それが「祝祭」であり,「贈与」である(このテーマについては,すでに過去のブログの中で記述したとおりである)。ここで指摘しておきたいことは,この「祝祭」も「贈与」も,じつは「消尽」のための文化装置なのだ。つまり,「消尽」という自然界の大原則のもとに人間としての「悩み」「苦しみ」を還元することによって,つかのまの安寧を得ようとしたわけだ。

岡本太郎に言わせれば,「祝祭」も「贈与」も,みんな「爆発」である。つまり,「爆発」することをとおしてしか真の自己と向き合うことはできない,というわけだ。その世界は「知」とはかぎりなく遠い「非-知」の世界でもある。この「非-知」の世界とは,極論してしまえば,動物性の世界に限りなく近い。つまり,岡本太郎は「爆発」を繰り返しながら,「知」から遠ざかり,徐々に「非-知」の世界に接近していく。そこに人間性という呪縛から解き放たれた「自由」が待っている。すなわち,動物性の世界への接近である。

こうして考えていくと,岡本太郎がジョルジュ・バタイユの思想・哲学を忠実に伝承しているかが,よくわかる。

こうなってくると,いま,あちこちで岡本太郎企画が展開しているが,それらを見てまわる楽しみが一段と濃密なものとなってくる。

断わるまでもないことだが,わたしたち人間が産み出した文化装置のひとつである「遊び」も「スポーツ」も,じつは,岡本太郎のいう「爆発」であり,ジョルジュ・バタイユのいう「消尽」である。言ってしまえば,人間が「遊び」や「スポーツ」に熱中するのは,「横滑り」をして締め出されてしまった動物性の世界への回帰願望の表出なのだ。こういう視座に立つスポーツ文化論をこそ,これから大いに展開していきたいものだ,とわたしは考えている。

それは同時に,「3・11」以後のスポーツ文化論を展望するための不可欠の視座でもある。このことを強く銘記しておきたい。
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