2011年5月24日火曜日

高槻市の上宮天満宮,今城塚古墳を見学。

今日(23日)の午後に,高槻市の如是公民館から依頼されていた講演を済ませて,さきほど,もどってきました。演題は「相撲ってなに?古代相撲から現代相撲まで」というもの。この演題は,如是公民館の富田英子さんに決めてもらいました。というのも,富田さんがわたしのブログを読んで,野見宿禰に関する記述をみつけたのが講演依頼のきっかけだった,と聞いたからです。

この講演に先立って,午前中に,富田さんが上宮天満宮と今城塚古墳を案内してくださいました。
上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)では,代表役員という肩書の森嘉和さんが応対してくださり,いろいろと貴重な勉強をすることができました。事前に,富田さんが『てんじんさん風土記』という冊子をおくってくださっていたので,ある程度の予習はできていました。
そこで,まずは,ここの境内にある野身神社。この「野身」という文字が気になりました。で,さっそく,あちこち文献をあたってしらべてみましたら,いろいろの表記があるということがわかりました。たとえば,以下のようです。
野見,能見,能美,弩美(のみ),祈祷(のみ),乃禰(のみ),濃美,濃味・・・・という具合です。
要するに,野見一族が,あちこちに分散して,それぞれに好みの当て字を用いて名乗っていたことの名残だろうと,いまのところは推測しています。
それはちょうど,安曇野に拠点をおいた「あずみ」族と同じだなぁ,とかんがえています。安曇,安住,渥美,安積,などのヴァリエーションがあるのと同じだ,と。

上宮天満宮に野身神社があることは,なんの不思議もありません。天満宮は菅原道真を祀った神社ですから,その祖先である野見宿禰を祀るのは当たり前のことでもあります。もちろん,北天満宮にも野見宿禰神社があります。
が,驚いたのは,上宮天満宮は,北天満宮よりも2年前に建立された,という事実です。しかも,この上宮天満宮のある高槻市一帯は,野見一族の拠点になっていた,という事実です。この二つの事実を知って,わたしの頭のなかはフル回転をはじめました。奈良県には「出雲」と呼ばれる土地があって,野見宿禰はそこに住んでいたといわれています。そして,この「出雲」と出雲大社のある出雲とを混同して,野見宿禰は出雲の人,と考えられているからです。わたしも長い間,野見宿禰は出雲の人だと思っていました。が,この事実を知って仰天です。

高槻市には,野見,菅原,という地名がいまも残っていて,その近くには「野見郷」(のみのさと)と呼ばれている土地もあります。それは,上宮天満宮からまっすぐ南にくだってきた地域につらなるようにしてあります。ということは,上宮天満宮ができてからのちも,野見宿禰の子孫たちが,そこに居住していたとかんがえていいだろう,ということです。

さらに驚いたことは以下のことがらです。
富田さんの案内で,今城塚古墳を前にしたときです。発掘したときにでてきた埴輪が,ほぼ,その位置に並べてあるのだそうですが,それがとてつもない数の多さでした。雨が降っていたのと,時間が足りなくなっていた(講演前でしたので)のとで,ゆっくりと見学するわけにはいきませんでしたが,ここは,もう一度きて,じっくりと巨大な今城塚古墳の全体を歩いてまわりながら,感じ,考えてみたいと思いました。そこに並んでいた埴輪の一部に,力士埴輪があって,それらは相撲の所作と考えられるポーズをとっています。そのなかの一体は,神官や巫女さんの集団の先頭に立って,なにやら相撲の所作をしています。その近くには,祭祀が執り行われたであろう二階建ての建物を表した埴輪がいくつも置いてありました。この力士埴輪を眺めているかぎりでは,力士は「すまい」(=素舞い)をしているであって,相撲をとっているわけではありません。「素舞い」とは,祈りの所作が大きくなったもの,つまり,「舞い」=「祈り」=「祈祷」(のみ)そのものである,ということです。

このことと同時に,この今城塚古墳から,これほどの大量の埴輪がでてくることの意味を考えてみると,もっと驚くべきことが明らかになってきます。埴輪を焼くようになったのは,『古事記』によれば,野見宿禰が天皇に上申したのがはじまりだった,ということになっています。以後,埴輪が多く制作されるようになった,というのが一般的な理解です。そして,この埴輪は土師氏という職能集団が焼いたものであります。その長ともいうべき人物が野見宿禰だったわけです。そして,ここにおびただしい数の埴輪が出土するということの意味もおのずから明らかになってきます。

となると,野見宿禰は,出雲の人ではなくて,ここ高槻の人ということになってきます。
だからこそ,菅原道真が太宰府に流されたとき,京都を出発して,最初に宿泊したところが先祖の拠点であったここ高槻ではなかったか,とわたしは考えます。そして,太宰府に到着した菅原道真は2年後には失意のうちに没してしまいます。

それからまもなく京の都ではたいへんなことが起こります。天皇の子どもたちが立て続けに病気になって死に,右大臣であった菅原道真に冤罪をかぶせた左大臣一族がつぎつぎに奇病にかかって死んでいきます。さらに,雷が鳴りつづけ,疫病が大流行します。この現象を京の都の人たちは菅原道真の怨霊による祟りだと受け止めます。そして,菅原道真の御霊を鎮めるために北天満宮を建立します。
が,その前に,菅原道真の死後,ただちに,高槻に住む野見郷(のみのさと)の人びとは天満宮の造営にとりかかったのではないか,とわたしは考えます。その結果,北天満宮に先立つ天満宮という意味で「上宮天満宮」と名づけられたのではないか,とこれもまたわたしの推測です。

というようなわけで,今回の高槻市如是公民館での講演がご縁となって,とんでもない大発見が(少なくともわたしにとっては)ありました。それもこれも,みんな,富田英子さんのお蔭です。富田さんが,もし,わたしのブログを読むことがなかったら,この講演は成立しなかったわけですから。富田さん,お世話になりました。ありがとうございました。
いつか,チャンスをつくって,必ず,もう一度,時間をかけてあちこちの古墳めぐりをしたいと考えています。そのときは,ぜひ,お付き合いくださいますよう,お願いいたします。
取り急ぎ,富田さんへのお礼を兼ねて,このブログを捧げます。ありがとうございました。

2 件のコメント:

yosimiki さんのコメント...

 興味深く読ませていただきました。

 高槻と野見宿禰の関係、そして相撲に関するシンポジウム、で私が一番に思い出したのは、高槻城跡公園の隣にある野見神社でした。
 ここへは立ち寄られませんでしたか?名前からして多分ここも宿禰さんゆかりの神社と思います。

 ところで上宮天満宮に、能見神社があるのは気がつきませんでした。

Unknown さんのコメント...

yosimikiさん,コメント,ありがとうございました。「野見神社」も行ってきました。すぐ近くに高槻市歴史博物館があって,その帰りに見つけました。間違いなく,野見一族がこの辺りにも住んでいて,その氏神さまであったことの名残でしょう。古い地図でもそのことは確認できました。古代史は謎だらけで面白いですね。