2011年6月13日月曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その4.「3.死と供犠の通常行われる連合」について.

この節では,バタイユの真骨頂をみることができる。それは,「死」についての思考の地平を限りなく広げてくれるからだ。そして,きわめて通俗的な言い方をすれば,バタイユ個人はおそらくみずからの死を恐れてはいなかっただろう,ということだ。だからこそ,バタイユは「無神学」(大全)を構想することができたのだ,と。さらに,もう一歩踏み込んでおけば,内在性を生きるということは神を生きることであって,他者としての「神」は不在だということになろう。「神なきエクスターズ」を語ったかれの『内的体験』は,そのなによりの証左である。

この節でバタイユが述べていることを,わかりやすく整理しておくと,動物性の世界での「死」と人間性の世界での「死」とは,まったく別物だということだ。動物性(内在性)の世界にあっては,「死」はたんなる「消尽」であって,ほとんどなんの意味ももたない。しかし,人間性(事物・有用性)の世界にあっては,「死」は事物(有用性)の「持続」の不可能(断絶)を意味するので,一大事となる。

したがって,供犠と死とがセットになるのは,人間性の世界からの見方・考え方であって,内在性を生きる動物性の世界にあってはなんの意味もない,というわけだ。表題の「死と供犠の通常行われる連合」とは,このあたりのことを論じたいがためのものである。だから,この節の冒頭でバタイユはつぎのように語りはじめる。

「供犠には実に子供っぽい無意識状態があるので,生贄を死へと至らしめることがその動物に加えられていた侮辱を,つまり惨めにも一個の事物の状態まで還元されていた動物の被っていた侮辱をはらしてやる一つの様式として現れるほどである。しかし実のところを言うと,殺害することが文字通りに必要だというわけではないのである。それでも死という現実秩序の最大の否定が,神話的秩序の出現を促すうえで最も好都合なのだ。また他方では,供犠における殺害は生と死の苦悩に充ちた二律背反をある一つの転倒によって解消するのである。実際内在性においては,死はなにものでもない。が,しかし死がなにものでもないということから,ある一つの存在はけっして真には死から分離していないのである。死が意味を持たないということ,死と生の間に差異がないということ,死に対する怖れもなくそれに対抗する防御もないということ,こうした事実からして死はなんらの抵抗をひき起こすことなく全てに侵入しているのである。持続が価値を持つことはない。」

この導入部分がクリアできれば,あとは,バタイユ特有のごてごてとした不可解な議論がつづくものの,なんとかその意味するところを追っていくことはできるだろう。その主題は,現実秩序を維持していく上で(つまり,事物の世界を持続させていく上で),内奥性の世界が露呈することはきわめて危険なので,なんとしてもそれを封じ込めなくてはならない,それが人間性の世界の論理だ,という点を強調することにある。すなわち,「呪われた部分」を隠蔽・排除する世界,それが人間性の世界だというわけだ。

しかし,そこに根源的な矛盾を抱え込んでしまったがために,人間性の世界にはこの「呪われた部分」が,まるで「亡霊」のように(デリダ),忘れたころに突如として出現することになる。この葛藤はいまもつづいている。ここに「宗教」が成立する根拠がある。

もうひとこと触れておけば,この「呪われた部分」を解消するための文化装置の一つとして「祝祭」がある。その祝祭のなかから「スポーツ的なるもの」も出現することになる。それも「有用性」に絡め捕られるかたちで。この点については,のちの節で,踏み込んで考えてみることにしよう。供犠とスポーツがセットになる,ということも。あるいは,スポーツは供犠である,と。




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