2011年6月14日火曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その6.「5.個体,不安,供犠」について

バタイユは,「内奥性を表現するのに,言説(ディスクール)に依拠したやり方で行うことは不可能である」と断り,その理由をいくつもあげて説明した上で,なおかつ,つぎのように言う。
「それにもかかわらず私は分節化という行為に頼ることになろう。」
つまり,内奥性をことばで説明することは不可能であるが,それでもことばで説明するしか方法はない,というのである。ということは,内奥性を議論することには限界がある,ということだ。それを承知で,それを前提として,これからさきの議論をしようとバタイユは提案する。

このことの隠喩をまず読み解いておこう。バタイユがいうところの事物によって支えられている現実秩序とは,換言すれば,ヨーロッパ近代の法秩序ということだ。この法秩序はことばで表現できる範囲での秩序体系のことであり,ことばに絡め張られた秩序体系のことである。しかしながら,この秩序体系のなかにあっては,内奥性がふくみもつ激烈な暴力や破壊はすべて「禁止」されている。つまり,生きものとしての存在である人間のうち,動物性は極端に抑圧され,排除されていて,これらを人間性(ヘーゲル的にいえば理性)によってコントロールすることが義務づけられる。これが,事物化してしまった人間の生き方というわけだ。

当然といえばあまりに当然なことなので,議論する前にこのことをとりたてて断ったりは,ふつうわたしたちはしない。しかし,バタイユはあえてこの問題を取り上げ,重視する。なぜなら,ことばで説明できないことを説明するという矛盾のうちに「内奥性」の問題が潜んでいるからだ。つまり,内奥性について,ことばでどこまで語ったとしても「本質的なもの」は抜け落ちてしまうからだ。

このことはスポーツについて語るときも同じだ。スポーツの「本質的なもの」はほとんどなにも語ることはできない。たとえば,わたしの仮説にもとづいていえば,「スポーツは内在性(動物性)への回帰願望の表出である」と言ったところで,なにが,どこまで理解してもらえるのかはまったくの未知数である。そして,これをさらに踏み込んで説明しようとすれば,そのこと自体は可能であっても,質的にどこまで可能であるかと問えば,それは限界があるということだ。つまり,わたしの考えるような「内在性への回帰願望」としてのスポーツの本質を語ることは,最終的には不可能なのだ。

こうした前提に立った上で,バタイユは「個体,不安,供犠」の関係について語る。
バタイユがここでいうところの「個体」とは,内在性から切り離され,ばらばらにされてしまった事物としての人間のことである。そして,この個体を現実秩序のもとで「持続」させなくてはならないという宿命に気づいたとき,人間は「不安」にかられることになる。つまり,事物として生きることの不安,すなわち,事物としての持続を不可能にする死に対する不安である。しかも,事物である以上,内奥性を完全に封じ込めた上で現実秩序のもとで生きていかなくてはならない。(内奥性・内在性のもとにあっては死はなにも恐れるべきものではない,ということは前の節で検討したとおりである)

こうして,バタイユは,つぎのような文章を置いてこの節を閉じる。あまりの名文なので,そのまま引用させていただく。
「人間は,事物たちの秩序と両立せず,和合しない内奥次元を怖れるのである。そうでなかったとしたら,供犠は存在しなかったであろう。そしてまた人間性もありえなかったであろう。内奥次元が,個体の破壊のうちに,そしてその聖なる不安のうちに啓示されることもないであろう。内奥性は事物と隔たりのない同一平面にあるのではなく,むしろ事物がその本性において(つまりそれを構成する諸々の企図において)脅かされる状態を通じてこそ,戦慄する個体のうちで,神聖な,聖なるものであり,不安という光背を帯びているのである。」

「宗教的なるもの」の出現する現場を,このような言説で解き明かした文章を,わたしは知らない。そして,同時に,これぞ「スポーツ的なるもの」の成立する根拠ではないか,とわたしは直観する。まさに,内奥性・内在性から引き離されてしまった個体,すなわち,動物性から<横滑り>してしまった人間性,つまり,事物と化してしまった人間が,その不安のうちにあって,内奥性・内在性への回帰願望が立ち上がるのはごく自然ななりゆきといってよいからだ。

では,それはどのようにして可能なのか。次節の「6.祝祭」にその鍵が秘められている。

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