2011年6月15日水曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その8.「7.祝祭の限界づけ,祝祭が有用なものであるとする解釈および集団の定置」について

この前のブログでも少しだけ触れたように,祝祭は混沌をめざしているにもかかわらず,いつのまにか一定の整序のもとに絡め捕られることになる。この矛盾しつつ一定の調和に到達するところが,いかにも人間性の面目躍如たるところである,とバタイユは説いているように思う。その謎を解く鍵は有用性と共同性にあるようだ①。あるいは,明晰な意識と内奥性の意識とのせめぎ合いにあるようだ②。あるいはまた,動物性から抜け出してしまった結果として到達した人間性は,いくら頑張っても動物性の内奥にもどることはできない,というところにあるようだ③。

一応,①から③まで,三つの視点を提示したが,じつは,これらは個々に独立してある現象(つまり,祝祭)を引き起こすのではなくて,これらの三つの要素が渾然一体となって祝祭の整序ということが起こる。が,便宜上,それぞれの視点から,祝祭が整序に向うプロセスを考えてみることにしよう。

思考のプロセスとしては,③から逆に考えていった方がわかりやすいように思うので,それに従うことにしよう。人間性を身につけてしまった人間は,もはや,動物性へはもどることはできない。限りなく動物性に接近することはできても,内在性をとりもどし,内奥の世界に身をゆだねることはできない。なぜなら,人間性として獲得した「明晰な意識」がそれを拒むからだ。あるいは,内奥の世界を把握することができないからだ。これが②の問題である。内奥性の意識(このような言い方が適切であるかどうかは問題なしとはしないが,バタイユもテクストのなかでこの表現を用いているので,それに倣うことにする)とは,逆説的な言い方をすれば,意識の遠くおよばない晦冥の世界の意識ということだ。だとすれば,内奥の意識とは,曖昧模糊としてとらえどころのない,これといった実体のない意識のことだ。だから,人間性がわがものとした明晰な意識は,この内奥の意識の前で足踏みをするしかない。

この内奥性や内在性への希求を,人間性はどこまで行っても実現することはできない。この矛盾のうちに身をゆだねていくしか方法がない,そして,その疑似体験をする,その受け皿が祝祭ということだ。だから,祝祭とは,幾重にも錯綜した矛盾だらけの世界だということになる。したがって,その矛盾をなんとか合理化する必要に迫られるのが「明晰なる意識」を獲得した人間性の世界を生きる人間である。となると,そこに,なんらかの「操作」の手が伸びていく。バタイユはつぎのように述べている。

「だからついには祝祭それ自身が操作であるとみなされ,その効能は疑いの余地のないものとなる。生産する可能性,田畑を実らせ,家畜を繁殖させる可能性が祭礼に与えられるのである。そしてそうした祭礼の操作的形態のうち最も隷従的ではないものは,神的世界の怖るべき激烈さ=暴力性に対し一歩譲って,その火が燃える部分を分け前として与えてやり,それを防火地帯として他の部分を保全しようとする目的を持っている。」

こうして,祭礼は「有用性」と「共同性」への道を開いていく。もう少しだけ,バタイユの言説に耳を傾けてみよう。
「いずれにせよ積極的には豊穣を希求することにおいて,消極的には贖罪を願うことにおいて,まず事物として──つまり決定的な個体化と,持続を目ざした共同の作業という意味で,事物として──共同性が祝祭のうちに出現する。」
かくして,バタイユは決定的なつぎのような言説を投げつける。

「祝祭は内在性への真の回帰ではなくて,諸々の両立不能な必要性の間の和解,友情に溢れた,しかし不安に充ちた和解なのである。」

「宗教とは,その本質は失われた内奥性を再探求することにあるのだ。」



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