2011年6月17日金曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その11.「10.人身供犠」について

人身供犠と聞いて,わたしの脳裏にまっさきに思い浮かぶのは古代ギリシアの悲劇の主人公「イフィゲネイア」(Iphigeneia)である。トロイア戦争のために船出をしようとした父王アガメムノンはアルテミスの怒りを解き船出に必要な風をえるために娘イフィゲネイアを生贄に捧げたという話(このつづきはもっともっとあって,恐ろしい悲劇がつぎつぎに起こるのだが・・・)。

映画化された『イフィゲネイア』は,「娘イフィゲネイアを生贄に捧げるべし」という神判がくだると,イフィゲネイアは半狂乱になり,悩み,苦しみ,さまざまな葛藤を経てのち,ついに決断し,自分の意志でひとりで祭壇に登っていくという感動的なシーンで終わる。イフィゲネイアの置かれた位置は,いわゆる二律背反,アポケーである。みずから死を選べばギリシア軍の船出が可能となる。しかし,死を拒否すればギリシア軍は崩壊してしまう。父王アガメムノンも妃クリュタイムネストラも,その一族全員が「判断不能」の状態に陥る。そこから,このギリシア悲劇ははじまる。

しかし,このアポケーでの二者択一にしか「正義」は成立しない。それ以外の「選択」は,かならずなんらかの利害・打算が加わる。すなわち「有用性」という「はかり」(基準)によって。つまり,「正義」は神の領域のものであって,「有用性」という理性的判断が最優先する人間性の世界にあっては「正義」は存在しない。もし,あるとすれば「ガラガラポン」の抽選だけだ(コイン投げの裏表,サイコロ,などもここにふくむ)。

ところで,スポーツに「正義」はあるのか,と問うてみる。
スポーツの本質規定の一つは,「やってみなければ結果はわからない」というものがある。その意味では,スポーツは賭けである。
この賭けと人身供犠とをつないでみると,スポーツの起源の一つである「決闘」が思い浮かぶ。日本の相撲の起源も,古代ギリシアのレスリングも,およそ,格闘技の起源は「決闘」である。決闘は生きるか死ぬか,確率二分の一だ。つまり,相手が供犠となるか,自分が供犠となるか,ということだ。古代ローマの剣闘士の戦いは,負けは人身供犠であり,勝ちは無罪放免(神の意志の表出という意味での「正義」=「神判」)。しかし,ここに徐々に「有用性」の考え方が浸入してくる。その結果が,こんにちの近代スポーツ競技としてのレスリング,ボクシング,相撲,柔道,剣道,フェンシング,等々である。ここには,もはや,人身供犠の考え方もないし,神判の考え方もない。あるのは,アスリートとしての自助努力のみだ。

しかし,よくよく考えてみると,広義の「贈与」の性格を垣間見ることができそうだ。たとえば,こうだ。勝利至上主義の軛から解き放たれたアスリートたちがよく口にするセリフ「勝ち負けはいい,全力をつくして人びとが感動してくれればそれでいい」のなかに「贈与」の精神が流れているように思う。あるいはまた,「勝ち負けではない,銭のとれる相撲をとれ」ともいう。つまり,「全力を出し切る」ことに人びとは感動する。この感動の源泉は「贈与」だ。かつて「贈与」のなかに「人身供犠」も含まれていたことを考えれば,「全力を出し切る」こともまた姿・形を変えた「人身供犠」といえなくもない。

スポーツにはいくつもの「顔」がある。その「顔」のよって立つ基盤も複雑怪奇である。だから,ことはそんなに単純ではない。いろいろな要素が渾然一体となって,こんにちのスポーツ文化は成立している。そこにメスを入れるとすれば,事物化に向う力なのか,それとも供犠に向う力(事物化からの解放の力)なのか,を慎重に腑分けしていくことなのだろう。

しかし,このような視点からの作業はまだだれも手をつけてはいないのだ。だから,現段階ではまったくの未知数としかいいようがない。しかし,新たな可能性,すなわち,21世紀のスポーツ文化を模索していくとすれば,そして,とりわけ,3・11以後の人間の在り方への問いかけと直にリンクするスポーツ文化を模索していくとすれば,バタイユ的視点の導入こそが求められているのではないか,とわたしは考えている。その意味では,こんにちもなお「人身供犠」の考え方は生きているのではないか,と。



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