2011年6月20日月曜日

バタイユの内奥性に接近する,触れる経験とスポーツ的なるもの。その1.

18日(土)の午後に行われた西谷修さんのトーク(4時間超)をボイス・レコーダーをとおして,くり返し聴きながら,わたし自身の課題である「スポーツとはなにか」という問いについて考えている。昨日は,さすがに緊張から解かれほっと一息入れる。そして,終日,ごろごろしながらボイス・レコーダーに耳を傾けて一日を過ごした。至福のときである。

そのなかのいくつかの点については,これから少しずつではあるが,このブログのなかで書いていってみたいと思う。今日はその最初ということで,バタイユのいう「内奥性」について,西谷さんの解説をとおして,わたしが考えたことがらについて書いておこう。

結論的なことをさきに提示しておけば,人間の意識(あるいは理性)と内奥性との折り合いのつけ方が宗教(あるいは,宗教的なるもの)出現の源泉だ,ということである。そして,このこととスポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)の出現はパラレルである,ということである。つまり,人間が内奥性に限りなく接近する,そして,ついには触れるという経験のうちに,宗教もスポーツもその源泉を求めることができる,ということである。

このことを,ごく大づかみに噛み砕いてみると以下のようになろうか。
内奥とは,国語辞典には「内側の奥深いところ」としか書いてない。つまり,ことばで表現のしようのないものだ。それをあえてバタイユの思考の世界に分け入って考えてみると,つぎのようになるだろうとわたしは考える。
人間はもともとは動物性の世界のなかに埋没して生きていた。つまり,一個の動物として生きていた。しかし,そのうちに,ある意識にめざめた人間が登場し,オブジェ(物・客体)の存在に気づき,自他の区分にめざめ,自己意識をわがものとし,ついには道具・ことばを獲得するようになる。そこから思考ということがはじまる。すなわち,動物性の世界から人間性の世界への<横滑り>のはじまりである。こうして,しばらくの間,当初の人間は,動物性と人間性の両方の世界を往来しながら生きていたと思われる。しかし,いつのまにか人間は,動物性の世界から完全に離脱してしまい,人間性の世界に移行してしまう。すると,もはや,動物性の世界は遠い過去の闇の世界へと消え去ってしまう。しかしながら,人間の身体には,よく発達した脳の活動(理性)と同時に,動物性(遺伝子情報,本能)を生きたころの生命活動とが共存している。つまり,人間は「二つの身体」を同時に生きることを余儀なくされたといってよい。言ってしまえば,理性的人間と,動物的人間の二つが一つの身体を共有しているということだ。だから,この両者の間には絶えず葛藤がくり返される。これが人間が生きるということの現実だ。
別の言い方をすれば,人間は理性だけでは生きられない。同時に,人間は本能だけでも生きられない。この両者の「折り合い」のつけ方が求められる。ここでいう本能のさらに「奥深いところに存在する」と考えられているもの,それがここでいう「内奥」であり,「内奥性」と呼ばれているもののことだ。だから,これは人間の側から想定された非現実の世界である。それは,一種の幻想(イリュージョン)であり,架空の存在である。しかも,そこに「聖なるもの」や「至高性」が存在する,とバタイユは考える(このことについては,相当に長い導入が必要。バタイユ自身はかれ特有の「エクスターズ」体験をとおして実感してもいる)。この内奥性に「聖なるもの」や「至高性」を求めることによって,人間は一定の安寧をえるのである。なぜなら,ときおりわき上がる本能とも異なる得体のしれない強度をともなった衝動を前にして,理性はなんらかの説明を求められることになるからだ。それに名前を与えた結果が「内奥」という意味不明のことばだ。しかも,このことばは理性の完成されたもの,最終ゴールでもある「絶対知」(ヘーゲル)をも飲み込んでしまい,暗黒の奈落の底までつき落してしまう,という。バタイユの思考の原点にある「非-知」(non savoir)の概念はここに通底している,とわたしは理解する。
西谷さんの説明を借りれば,内奥性は,理性や意識を一つずつ取り外していって,人間を成立させている条件を全部取っ払ったときに,突如として「せり上がってくる」(立ち現れる)もののことだ,ということになる。それこそ剥き出しの動物性と呼べばいいだろうか。そこには,もはや,人間は存在しない。しかし,そこには無限に広がる強度をともなった時空間がある,とバタイユはいう。かれは,神秘体験として「恍惚」(エクスターズ)をしばしば経験する。しかも,宗教的なプログラムにしたがった神秘体験ではなく,突然,なんの前触れもなくやってくる,きわめて個人的な「神なき恍惚」であるという。その意味で,そのみずからの神秘体験を『内的体験』と名づけ,同名の書物を著している(ニーチェの『ツァラツストラはこう言った』を,バタイユは強く意識しつつも,それをかるがると凌駕していくバタイユ独特の世界を描き出している)。その世界は,底無しの恐怖と至福とがないまぜになった「恍惚」(エクスターズ)の世界だとバタイユはいう。

長くなっているので,ここで一旦,終わりにしておく。
このバタイユのエクスターズの経験と,スポーツのごく限られたトップ・アスリートたちが時折経験するという「神がかり」的なパフォーマンスとは,どこかで通底している,とわたしは考えている。それを,あえてことばに置き換えるとすれば,それは「内奥性に接近する,触れる経験」ではないか,とわたしは考えている。この世界は,仏教でいうところの「本覚」(本覚思想)とも近いものであるとわたしは考える。さらには,西田幾多郎の「純粋経験」や「行為的直観」なども,きわめて近接した世界ではないか,と。そして,竹内敏晴が探求した「じか」に触れるというワークショップもここにつながる,と。こうして,例を挙げていけば際限がない。という具合に,いわゆる「実在」(ハイデガー)というものを求める姿勢は,期せずしてみんな同じベクトルに向かっているように,わたしにはみえる。そして,スポーツの「本質」もまた,ここに到達するに違いない,と。その理路を明らかにしてみたい。それが,わたしの考える「スポーツとはなにか」のゴールだ。後日,このつづきを書いてみたいと思う。とりあえず,今日のところはここまで。

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