2011年6月28日火曜日

岡本太郎を語る今福龍太さんが素晴らしい。

岡本太郎生誕100年にあたることしは,さまざまな「岡本太郎」企画で満載だ。しかも,どの企画もすべてヒットしているらしい。どうやら,岡本太郎を受け入れる「時代」がやっとやってきた,ということらしい。つまり,岡本太郎は時代をあまりに先取りして生きた(生きるしかなかった)ために,人びとは岡本太郎を奇人・変人扱いして,やり過ごしてきたのだ。

「芸術は爆発だ!」とテレビ・カメラに向かって,全体重をかけて吠えた,あの眼がらんらんと輝く岡本太郎の映像を記憶している人は少なくないだろう。そして,いまでは語り種となっている岡本太郎の,この「批評的な内実」に満ちた「芸術は爆発だ!」という名言の真意を,きちんと解説してくれた人がいなかった。多くの美術評論家と称する人たちが,一様に,この岡本太郎のことばをとりあげ,それらしき解説をしている文章は読んだことはある。しかし,そのどれもがわたしの納得のいくものではなかった。

ところが,である。とうとう,現れた。「芸術は爆発だ!」の真意を,こころの底から納得させてくれる解説が。それどころか,感動に打ち震え,二度,三度と読み返し,岡本太郎という人のこころの深奥に導かれ,ついには岡本太郎の内奥に「じか」に触れる体験までさせてもらった。ありがたいことである。(ここでいう「ありがたい」は単に感謝しているという意味ではない。「ありがたい」とは,文字どおり「ありえない」ということなのだ。その「ありえない」経験をさせていただいた,という意味である。)そんな体験をさせてくれる文章を書く人がいる。

今福龍太,である。いやいや,呼び捨てにしては失礼だ。今福龍太さん,である。
『世界美術への道』岡本太郎の宇宙・5(ちくま学芸文庫)の巻末に,「解説 孤独な呪術師の使命」今福龍太,が掲載されている。この本を,今福さんが直接,わたしに送ってくださった。これもまたほんとうに「ありがたい」(ありえない)ことだった。

ここに書かれていることを,かいつまんで紹介するほどの技量はわたしにはない。最初から最後まで全部,引用するほかはないからだ。
その冒頭の書き出しは以下のとおり。
「岡本太郎は絶対的な意味で『孤独』な存在だった。痛ましいまでの孤絶をみずからに課しつつ,それに悲観したり屈したりすることなく,存在論的な孤独をおのれの力に変えた稀有の表現者だった。社会のなかで生きる誰もが宿命として持つ『孤独』とこれほど直に向き合い,それを宥めたり否定したりせず,果敢にみずからの孤独の内奥を掘りつづけた者も他にいなかった。真実も美も,そうした単独の行為のなかでしか発見できないと信じ,豊かな孤独をひとり実践した。地位も,権威も,評価も彼の眼中にはなく,自閉しエネルギーを失った世界を呪力によって救済する無名のシャーマンの立場を,孤独に引き受けようとした。」

恥ずかしながら,この冒頭の文章を読んだだけで,わたしは滂沱の涙に濡れた。あとは,文字がみえない。だから,まずは,ここまでで本を閉じた。そして,つらつらと思いを馳せる。これは,ひょっとしたら,今福さん自身のことではないか,と閃く。自分自身のなかに「孤独」と向き合うもうひとりの自分を見極められる人でないかぎり,こんな文章はでてこない。いうなれば,岡本太郎と今福龍太が一心同体となっている。

そのことは,岡本太郎がマルセル・モースの授業にのめりこんでいく姿を描くときも,あるいは,ジョルジュ・バタイユの演説を聞いて震撼に打ち震えながら「この人だ」という確信をえ,バタイユの主宰する「社会学研究会」に身を投じていくときも,そして,そこで出会ったロジェ・カイヨワとの深い親交に結ばれるときも,今福さんは「わがこと」のように筆を運ぶ。

圧巻は,岡本太郎とメキシコとの出会いを描く今福龍太さんの思い入れとその情熱の傾け方である。岡本太郎とメキシコが,激しく交信・交流しながら「合体」をとげるあたりの描写は,神がかってさえいる。まさに,今福さんがメキシコを「発見」し,メキシコと交信・交流しつつ「合体」する経験なしには,描けない世界そのものだ。それを知った瞬間,わたしの全身に電撃が走る。今福さんは恐ろしい人だ,と。

でなければ,冒頭の「岡本太郎は絶対的な意味で『孤独』な存在だった」という文章は書けない。この短い,たった一行の文章のなかに岡本太郎のすべてが凝縮しているといっても過言ではない。そこまで見きわめることのできる今福さんは「恐ろしい」。人間理解のふところの深さと広がりをそこにみる思いがする。

この解説を読むかぎりでは,岡本太郎とジョルジュ・バタイユとは二卵性双生児ではないか,とさえ思いたくなる。そんな印象を今福さんの文章は与える。おそらく,岡本太郎の理解が深まれば,ジョルジュ・バタイユの理解もおのずから深まるに違いない。たとえば,岡本太郎がパリ大学哲学科の学生としてヘーゲルの「美学」について解説する講義をうけたことが,岡本太郎の立ち位置を確認する上で決定的だったのではないか,と思われる。それは,ちょうど,バタイユがコジェーヴの「ヘーゲル読解」の授業をうけることによって,みずからの思想的な位置を確信したように。つまり,ヘーゲルを通過することによって,それとはまったく対極にあるみずからの思想を確認することができた,ということだ。

こうした今福さんの解説に触れることによって,岡本太郎の「太陽の塔」が,まったく次元の異なる角度から立ち現れてくる。もう一度,万博公園にある「太陽の塔」の前に立ちたくなってきた。それと同時に,渋谷駅にある「明日の神話」をじっくりと確認する必要がでてくる。

そこに待っているのは「至福」の時だ。

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