2011年6月11日土曜日

ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)読解。その1.

18日(土)を一週間前にして,そのための助走を兼ねて,いよいよ『宗教の理論』の具体的な読解にとりかかることにしよう。

このテクストについては,すでに,2回ほど読解を試みていて,このブログでも公開している。詳しくは検索して確認していただきたいが,1回目は,第一部基本的資料の「Ⅰ.動物性」の部分を,2回目は,「Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成」をとりあげ,それぞれ数回にわたって連載したと記憶している(最近は,すぐに過去のことを忘れてしまうので,きわめて怪しいのであるが)。

したがって,今回はその3回目ということで「Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則」がその対象となる。スポーツ史やスポーツ文化論的立場から読むと,この「Ⅲ.」が一番,刺激的な面白いし,さまざまな研究上のアイディアがつぎつぎに浮かんでくるところでもある。9日のブログにも書いたように,「聖なるもの」と「スポーツ的なるもの」とは「同根」ではないか,とわたしが仮説を立てる根拠もこの部分にある。そして,「Ⅰ.」と「Ⅱ.」で論じられた動物性と人間性とに引き裂かれた存在としての原初の人間の苦悩の表出として「供犠」や「祝祭」が,鮮やかに描きだされている。ここでは,少なくともこれまでわたしたちが教えられ,あるいは,本で読んで学んできた「供犠」や「祝祭」とはまるで異なる論理展開が待ち受けている。あるいは,まったく正反対の論理展開,と言ってよいだろう。眼からウロコが落ちるような経験をわたしは何回もした。

それこそがバタイユのバタイユたる所以であって,こういう斬新な視点の提示こそが,かれをして『宗教の理論』を書かしめたというべきであろう。手短に,図式的に説明しておくと,以下のようになろうか。ヘーゲルが「絶対知」を人間の到達するゴールとして設定したのにたいして,バタイユは「非-知」を設定する。つまり,ヘーゲルは動物性から離脱して,自己意識を獲得し,さらに理性をわがものとし,共同体の精神を構築し,宗教を超克して絶対知に到達する,という直線的な人間の進歩発展を思い描いたのにたいして,バタイユは,その正反対を主張したと考えてよいだろう。バタイユは,動物性から人間性へと<横滑り>したことに,ある種の人間の原罪をみる。なぜなら,人間がいくら頑張って動物性から抜け出そうとしても,それは人間が生物であるかぎり不可能であって,どんなに遠くまで動物性から離れたつもりでいても,最終的には「生死」「生殖」という「生きもの」としての動物性の枠組みのなかに取り込まれてしまうことになるからだ。そして,人間が安穏に「生」を享受できるとしたら,それは「非-知」のレベルではないか,と問題を投げかける。

このあたりのことは,やや短絡的に聴こえるかもしれないが,道元が『正法眼蔵』のなかで説く「無」の教えや,自然との一体化をめざす正覚の世界につながっていく。西田幾多郎の説く「純粋経験」の世界もまた,バタイユのいう「非-知」の世界ときわめて近似している,とわたしは受け止めている。しかも,その境地は日本の武術の世界にも通底する世界でもある。

あまり話が逸れないうちに話をもとにもどすことにしよう。
このようなバタイユの基本的な考え方は,このテクストの「緒言」の終わりのあたりで,つぎのように述べていることからも確認することができる。引用しておこう。

哲学というイデーそのものに,ある一つの原初的な問いが,すなわちいかにして人間的な情況から外へ出るのかという問いが結ばれている。いかにして,必要性による行動に服従している思考,有用な区切りを立てるよう定められている反省的思考から,自己意識へと,すなわち本質なき──が,意識的な──存在の意識へと横滑りしていくのか,という問いが結ばれているのである。(P.16)

ここには,まぎれもないヘーゲルの論理を逆手にとったバタイユの戦略がみごとに提示されている。『精神現象学』の前半を読んだ人にはすぐにピンとくる,バタイユの挑発でもある。しかも,この「緒言」の最後はつぎのような文章で結ばれている。

不可避なものとしてある未完了は,一つの運動である応えを,──たとえそれがある意味で応えの不在であるにせよ,運動である応えを──いかなる割合においても鈍らせたり,緩慢にしたりすることはない。それどころか未完了は,その応えに不可能なことの叫びという真実を授けるのである。この『宗教の理論』が衝こうとする背理(パラドックス),すなわち個人を「事物」にし,さらにまた内奥性の拒否としてしまうこの根本的な背理は,おそらくある一つの無力さを明るみに出すであろうが,この無力さの叫びこそ最も深奥にある沈黙への前奏曲となるのである。(P.16~17.)

バタイユかなにゆえに「緒言」のさいごにこの一文を置いたかは多言を要すまい。
このことをつねに念頭に置きながら,このテクストを読み進めていくと,面白いほどバタイユの仕掛けたロジックが透けてみえてくる。
とりあえず,今日は「Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則」への導入まで。



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