2011年6月13日月曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その5.「4.供犠という消費」について

ここでバタイユは再度,「供犠」とはなにか,と問いかけその確認を行っている。
供犠というとどうしても「死」とセットで考えがちであるが,けしてそうではないのだ,と強調する。そして,供犠の本質は「放棄すること」であり,「贈与すること」であるという。

すなわち,供犠とは贈与である,と。
ここで想起されるのはマルセル・モースの『贈与論』。以前にも触れたように,バタイユの視野のなかには当然のごとくマルセル・モースの「贈与論」が入っている。しかも,きわめて大きな影響を受けている。そのことは,このテクストのP.158.にも明らかである。そこにはつぎのように記されている。

マルセル・モース『供犠の性質および機能に関する試論』
マルセル・モース『贈与論』
前者は,古代の供犠に関する歴史的な基本資料をみごとに集成した労作である。後者はそもそもエコノミーというものを,生産活動の超過を破壊する諸々の形態と結びついたものとして理解する全ての立場の基本となるものである。

となると,こんどはマルセル・モースの『贈与論』の内容を確認しなければならなくなる。が,この問題についてもすでにこのブログで何回かに分けて論じているので,ぜひ,ご確認いただきたい。わたし自身は,バタイユの「消尽」という概念も,マルセル・モースの『贈与論』からもかなり大きな影響をうけていると考えている。とりわけ,ポトラッチのシステムは,供犠そのものと言っても過言ではなかろう。

さて,話をもとにもどそう。
供犠にとって重要なことは,と断ってバタイユはつぎのように言う。
「重要なのは持続性のある秩序から離れて,つまりそこでは諸々の資源の消尽が全て持続する必要性に服従しているような秩序から離脱して,無条件な消尽の激烈さ=暴力性へと移行することである。」
そして,さらに,つぎのようにつづける。
「言いかえれば現実的な事物たちの世界の外へ,その現実性が長期間にわたる操作=作業に由来するのであって,けっして瞬間にあるのではないような世界の外へ出ること──創り出し,保存する世界(持続性のある現実の利益となるように創り出す世界)から外へ出ることが重要なのである。供犠とは将来を目ざして行われる生産のアンチ・テーゼであって,瞬間そのものにしか関心を持たぬ消尽である。」

こういうバタイユの文章をくり返し読みながら想像力をたくましくしていると,わたしの頭のなかは「これはスポーツのことを言っているのではないか」,あるいは「この運動はまさにスポーツと同じではないか」という考えでいっぱいになってしまう。つまり,供犠のメカニズムや機能は,そっくりそのままスポーツに当てはまってしまうのではないか,と。ただし,この点についてはもう少し厳密な論考が必要なので,ここではとりあえず頭出しということにしておこう。

さいごに,決定的なバタイユの文章を引いておこう。
「犠牲として捧げるということは殺すことではなく,放棄する(アバンドネ)ことであり,贈与する(ドネ)ことである。」

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