2011年7月5日火曜日

被災地短報・ズタズタに寸断されてみるも無残な気仙沼線。

気仙沼線というローカル電車が美しいリアス式海岸に沿って走っていたことを知っている人は,地元の人以外では,よほどの鉄道マニアでないかぎりいないだろう。その気仙沼線がこの間の津波でズタズタに寸断されている。6月29日に,わたしたち(Nさんと二人)はこの気仙沼線に沿って,海岸線を北上し,気仙沼まで行った。自動車の走る道路も段差ができていて,いたるところ応急処置をしてかろうじて通行可能となっていた。道路も完全復旧にはまだまだ時間がかかる。が,この気仙沼線の全線回復はほとんど不可能だろうといわれている。

前谷地から志津川までは内陸(山の中)を走っているが,志津川から気仙沼までは,ほとんどが海岸線である。リアス式海岸だから,山が海岸まで迫り出しているところはトンネルで,トンネルを抜けると海岸線を走る。この絶妙の変化が面白い。このラインは観光気分で乗っていたら最高に楽しいだろうなぁ,と想像したりしながらも,もう復旧が無理なのかと哀しい思いに沈む。

この気仙沼線はトンネルから海岸へ,そしてまたトンネルへ,トンネルから海岸へをくり返しながら走っているので,自動車道よりは直線に近い。だから,自動車道はあちこち迂回しながら,この気仙沼線に絡みつく縄のように,巻きついたり離れたりしながら志津川から気仙沼までつづく。リアス式海岸というものをからだで知る絶好のコースだった。

海岸に沿って走っているところの線路はほとんど津波に流されて見当たらない。運良く線路が残っていても枕木も砕石も,その下の土も流されていて,みるも無残な姿を晒している。途中の何カ所かはトンネルからトンネルへ谷を渡って高いところを走っている。自動車道はその下をくぐり抜けるようにして走る。そういうところは鉄道の橋桁だけが残っている。線路もなにもない。トンネルのあたりに線路がぶら下がっている。自動車道路から見上げると10m以上も上まで橋桁は伸びている。しかも,海からはかなりの距離がある。狭い山間の谷間の光景である。こんなところまで津波が押し寄せてきたのか・・・ととても信じられない。津波のもつエネルギーというものが,常軌を逸したものであることが,あちこちの痕跡から推し量ることができる。狭い,山間の漁港ほど津波のエネルギーは集積されて,小さな沢を駆け上り,驚くべき高さに達している。

だから,ここなら大丈夫と思われるような高台にある民家まで,津波にさらわれている。それは不思議な光景でもある。海岸からの距離といい,標高差といい,まずはありえないと思われるようなところにまで津波は押し寄せている。リアス式海岸にはいたるところに小さな漁港があって,そのすべてが大きな被害に遭遇している。このことはほとんど報道されていない。そして,復旧の手はほとんどとどいていない。あちこちに壊れた家の残骸や流木が,そして,なにより大事な漁船が仰向けになったまま散らばっている。発することばもない。

このラインが止まってしまって困っているのは,自動車を運転することのできないお年寄りやこどもたちだという。なぜなら,学校も病院も大きな町まで行かないとない。漁港といっても数十軒しかない小さな集落なので,小学校から電車通学,中学,高校となればさらに遠くまで通わなくてはならない。病気の治療をしている人もこの電車に乗って気仙沼まで行かなくてはならない。いまは,その頼みの気仙沼も壊滅状態なのだ。だとすれば,仙台まで行かなくてはならない。自動車で往復するとすれば一日仕事になってしまう。その頼みの自動車すら,津波にさらわれてしまっている家がほとんどだという。おそらくは,運良く難をまぬがれた家がフル回転で助け合っているのだろう,と推測するのみである。

新聞もテレビも,着々と復旧作業が進んでいるかのように報道しているけれども,それはほんの一部のことでしかない。大きな漁港を除けば,どこも手つかずのまま放置されている。そして,みんなじっと耐えるしかない現実と向き合って日々を送っている。

7月に入った東京は,電車もデパートも,6月末よりも一段と冷房を効かせている。ひんやりして寒くなるほどだ。去年と同じ。一枚上着をもって歩かなくてはならない。いったいなにを考えているのだろうか。朝晩のラッシュ・アワーは仕方ないとしても,昼間のガラガラにすいた電車の冷房は少しだけでいい。

身動きもできなくなっている気仙沼沿線の人びとのことに思いを馳せながら,わたしのこころは複雑に揺れる。(そこにまたぞろ,着任早々のアホな大臣の暴言が飛び出している。この国は,ほんとうに箍(たが)の外れた桶のようになってしまっている。情けないかぎり。)

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