2011年9月1日木曜日

「両足義足の400mランナー」についてのコメントに応答します。

一昨日,アップした「両足義足の400mランナー」のブログに対して,「大仏さん」がコメントを入れてくれましたので応答したいと思います。

現段階でのわたしの結論は以下のとおりです。
オスカー・ピストリウス選手が,もし,仮に金メダルを獲得しても,それを剥奪する権利はだれにもありません。なぜなら,スポーツ仲裁裁判所の判決を経て,堂々と選手登録されているからです。つまり,ルールどおり。だれも異論をさしはさむことはできません。もし,オスカー・ビストリウス選手のような選手が陸続と現れた場合には,国際陸上競技連盟が「ルール変更」という手続きをとる可能性はあるでしょう(これは,どう考えても「ルール改正」ではありません。ここでいう「ルール変更」とは「ルール改悪」もふくめての用語です)。

今回のこの問題は,近代スポーツ競技というものの諸矛盾の一角が,またまた露呈してきた,ということの象徴的なできごとである,というようにわたしはとらえています。その根拠については,すでに『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福龍太,西谷修の両氏との共著,平凡社)のなかで,かなり多面的に議論を展開していますので,そちらも参照してみてください。

この本の結論をかんたんにまとめておけば以下のとおりです。
近代スポーツ競技の「ミッション」はとうのむかしに終わった。つまり,近代国民国家を構築していく上で,近代スポーツ競技というものは絶大なる貢献をしました。しかし,もはや「近代国民国家」の時代は終わり,いろいろの意味で「国家」の枠組みからはみ出し,ボーダーレスの時代に突入しています。これと同じことが,近代スポーツ競技の世界でも起きていることは,すでに,みなさんがご承知のとおりでしょう。これをわたしは「近代」ではなく,まったく新しい時代という意味で「後近代」となづけて,新しい「スポーツ文化」の創出が必要である,と説いてきました。そして,いまは「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)を立ち上げ,その研究をつづけています。

たとえ話の上手な「どじょう首相」に倣って,わたしも下手ながら,たとえ話をしたいと思います。

たとえば100m競走のように,人間の眼では判定できない同着のようなレース結果を,1000分の1秒の差まで計測して,金メダルと銀メダルとを分ける必要がどこにあるのでしょうか。これを「認めている」わたしたちは,すでに「狂って」います。この狂っていることに気づいていないのが,いまのわたしたちの姿です。理性的には,なんの間違いもありません。理性が到達した科学技術の最先端の計器を用いて,その差を「区別」することそのことはなんの間違いでもありません。しかし,そこになんの意味があるのでしょうか。

たとえば,体操競技。いまや中学校や高校から「体操部」がどんどん撤退しています。理由はかんたんです。あれだけの競技施設を学校で確保できるだけのお金がありません。くわえて,つぎつぎに進化していく新技を指導できる先生がいません。もはや,学校のクラブ活動から「体操部」は撤退を余儀なくされているのは,よく,ご存じのことと思います。みんな,学校の外にある「クラブ」に行くしか方法はありません。それも,一定の経済力のある家庭の子弟のみです。

もうひとつだけ。義足の高反発はグラスファイバーを取り入れたものだと聞いています。陸上競技の棒高跳びで用いるポールがブラスファイバー製です。わたしの学生時代の同級生でオリンピック選手であった安田君は当初は「竹」のポールを使っていました。そして,みるみるうちにスチールのポールに変わり,やがてグラスファイバーになりました。それもつぎつぎに新製品(性能の向上とともに)がでてくるので困り果てていました。お金がかかって,みんなに助けてもらわなくては競技生活はやっていけない,とぼやいていたのを記憶しています。

つまり,近代スポーツ競技はお金がなくてはやっていかれない「スポーツ文化」に成り果ててしまった,というわけです。ですから,「世界平和のために」というオリンピックのスローガンは「偽善」です。その「偽善」を許せない人たちが「テロ」という手段に訴えて,攻撃の対象にしている,というこの構図をしっかりと頭に入れておく必要があります。つまり,一見したところ卑劣にみえるテロ行為は,この「偽善」が生み出しているということを忘れてはなりません。ここまで考えれば,どちらが「卑劣」であるかは明々白々です。

こうして,近代スポーツ競技はあちこちで「破綻」をきたしているのです。その最後のとどめを刺したのが「ドーピング問題」です。この時点で,もはや「近代スポーツのミッションは終わった」とわたしは考えました。つまり,自由な「競争原理」が臨界に達したということです。いってしまえば,近代スポーツ競技に「未来」はない,ということです。あるとすれば,ドーピングも自由,補助具も自由,あらゆる禁止条項をはずして,記録への挑戦を認めること,そして,それを眺めて感動する人が多数を占めること,ということでしょうか。そういう世界がいかなるものであるかは,ご想像にお任せします。

もはや,近代スポーツ競技に「未来」はない。その「未来」はいま,ここにすでにある,からです。この論理はわたしのオリジナルではありません。西谷修さんが,フクシマ以後を語った論考のなかで展開している論理です(ここでも,「どじょう首相」の真似になってしまいました)。

つまり,近代スポーツ競技はフクシマと同じ結論に到達している,ということです。

そういう視座に立って,オスカー・ピストリウス選手のこんごを見守ることが大事だ,とわたしは考えています。もっと踏み込んでおけば,オスカー・ビストリウス選手のこんごの活躍こそが,近代スポーツ競技の諸矛盾を超克していく上で不可欠であるとさえ考えています。そういうまなざしと,温かいこころで見守ってあげてくださることを祈っています。

こんな短いスペースで,十全を期することは不可能です。ので,どうか,わたしの意とするところをおくみ取りくださるようお願いいたします。そして,また,さらなる「コメント」を寄せてくださることを期待しています。

ではまた,お元気で。
「大仏さん」へ。

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