2011年9月13日火曜日

「戦争について」──戦争はなぜ終らないのか(西谷修×石田英敬)

昨日の一件落着で,気持ちも楽になり,鷺沼の事務所に向かう途中で本屋さんに立ち寄った。石田英敬さんの『現代思想の教科書』─世界を考える知の地平15章(ちくま学芸文庫)がでていることは知っていたが,また,いつか時間のあるときに・・・と先のばしにしてきた。ところが,今日は,わたしの気持ちの問題もあってか,この本が盛んに呼びかけてくる。ときどきこういうことがある。こういうときは素直に呼びかけにしたがうのがわたしの流儀。手にとって目次をみる。

なるほど,こういう本かと想像力をたくましくしながら,目次の章立てを追っていく。これがまたたまらなく楽しい時間だ。順番に目次を追っていったら,11「戦争について」──戦争はなぜ終らないか──西谷修との対談,とあるではないか。あわてて,小見出しをみる。なるほど,これは面白そうだと直感する。と同時に,すぐそのあとに,12「宗教について」──宗教の回帰を問う──西谷修との対談,とある。おやおや,である。こういう話を,西谷さんは個人的にはほとんどされない。だから,わたしはいままで知らないできた。即刻,購入して鷺沼の事務所へ。

事務所にきてから,やおら,この本をとりだし,目次をもう一度,確認する。目次の11と12を,再度,確認して,どちらから読もうかなと思いながら,目次のつぎのページをめくってみた。そうしたら,13ナショナリズムと国家──ナショナリズムを克服する──小森陽一との対談,とあるではないか。これは儲け物,と大満足。

で,まずは「戦争について」から読みはじめることにした。近頃は,横着になってきて,本を買ってきても,冒頭からきちんと読むということをしなくなってしまった。目次を眺めたり,まえがきやあとがきや,中味を拾い読みしたりして,ある程度のあたりをつけたところで,一番,面白そうなところから読みはじめる。で,今回はそれが「戦争について」だった。

15章のうちの1章なので,ページ数にしてもわずかなもの。たった25ページ。だから,すぐに読み終わる。ところが,である。このわずかなページ数のなかに,よくぞ,これほどの内容を手際よく,わかりやすく収めたものだと感心してしまった。西谷修はいま絶好調ではないか,と。

いつもの,「稽古のあとのハヤシライス」のときには,「ふつうのおじさんじゃないの」とKさんに茶化されるほど西谷さんはくつろいで,素顔をさらけ出す。でも,Kさんがツボにはまる質問をすると,とたんに眼がぎらりと光り,「それはねぇ」と言って,授業料をいくら払っても足りないくらいの素晴らしい話をはじめる。兄妹弟子というのは,ありがたいかぎりである。

この本に収録されている話は,石田さんが放送大学で講義をされたものを加筆修正をして,まとめられたものばかりです(本書のまえがき,による)。ということは,西谷さんもまた石田さんの放送大学の講義に招かれて,お話をされたのだな,と推測できます。

さて,問題の11「戦争について」の内容です。
わたしの印象に残ったところだけを抜粋してご紹介しておくことにします。
そのうちの一つは,ヘーゲル哲学を語ったくだりです。ヘーゲル哲学にもとづけば,人間にとって最初はすべて「無」であったのだから,これを人間がどのようにしようとまったく自由であった。だから,人間は自然(つまり,他者)を自分にとってつごうのいいように加工することをはじめた。これが文化のはじまり。そうしていくうちに,自然とは別の,もっともつごうの悪い他者(すなわち,利害を異にする人間)が現れる。ここでも人間は,その他者を自分のつごうのいいように支配しようとする。それが「戦争」のはじまり。素朴な戦いから,時代とともに,組織的な戦いへと進展していく。やがて,近代に入って,国家間の戦争がはじまる。こうなると,自分の意志とは関係なく「国民」として戦争に巻き込まれていくようになる。第一次世界大戦はヨーロッパという地域限定の戦争だった。しかし,第二次世界大戦は文字通り「世界」が戦争に巻き込まれる「大戦」となった。が,その時代を通過して,いまや,国家間の戦争は成立しなくなってしまった。つまり,「非対称の戦争」。戦う相手が国家ではなくなってしまった。見えない相手との一方的な戦いとなり,もはや,近代の戦争の概念は当てはまらなくなってしまった。つまり,戦争の形態が溶解してしまったのだ,という。その根源にあるのは,「グローバル秩序」を維持するための「正義」の戦い。この「グローバル秩序」に反するものはすべて攻撃の対象となる。これが「テロとの戦い」。ヘーゲル哲学がその基盤とした「理性」が行き着いた,これが現代の姿である。だとすると,この「理性」とはなにか,という新たな問いがはじまる。ヘーゲルは「理性」を鍛え上げていくことによって,戦争を通過して,やがて,理想社会に到達する,という理論仮説を提示し,人びとはそれを信じた。それがヨーロッパ近代という時代であった。その帰結が,こんにちの「世界」の姿である。つまり,ヘーゲルのいう「理性」が人間の「世界」を切り開き,文化・文明を進展させてきた。しかし,ヘーゲルの意図に反して,ヘーゲルが信じた人間の「理性」が,ついには自己を「無」に帰するかのような「否定」をはじめた。すなわち,人間の生きる時空間を破壊しはじめた。つまり,自己の存在そのものを否定しはじめているのが現状ではないか,と。しかも,つごうの悪いことに,現状をジャッジする「第三項」の審級すら機能しなくなってしまった。だから,ユニラテラルな攻撃が野放しになってしまい,とうとう「戦争が腐乱してしまった」(『夜の鼓動に触れる』)というわけだ。

以上は,わたしのずいぶん勝手な読解なので,これを鵜呑みにしないで,かならずテクストを確認してください。

わたしは,この対談を読みながら,どういう新たな発想がうまれ,そこからなにを考えたのか,ここにその全部を書きたいところですが,それは不可能ですので,その一部を紹介しておくことにします。

それは,今日の戦争が「グローバル秩序」を維持するためのものであって,それ以外の戦争は認められない,という指摘です。つまり,グロバリゼーションを「是」とする行為・行動は国際社会に認可されるけれども,それに反する行為・行動はすべて「非」とされるということです。つまり,「テロ」とか,「テロリスト」というレッテルを貼られて,徹底的な攻撃の対象にされてしまうということです。このことはいったいなにを意味しているのか,よくよく考える必要がある,とわたしは思いました。えらいことになってきた,と正直に思いました。

ここから,わたしの発想は一気に活性化していきます。来年,予定されている第2回日本・バスク国際セミナーのテーマは「民族スポーツとグローバリゼーション」です。そして,このセミナーには西谷さんも参加されることになっています。そして,セミナーの最後に,まとめのお話をしてもらおうと事務局のTさんと相談しているところです。そうなると,来年には「グローバル秩序」の問題がどのように進展しているか,予断を許しません。そういう状況にいまの「世界」はある,とわたしは考えています。ということは,わたしも,このセミナーでは,冒頭の基調講演をすることになっていますので,ことは単純ではありません。しかし,この講演のための原稿はすでに提出済みです。当然のことながら,当日のプレゼンのためには,また,別の原稿と差し替えなければ,と考えざるをえません。それほど,大きな,しかも,進展の早い,現代の「世界」を考えるための不可欠の視点でもあります。これから,もっと,もっと,わたしの思考を練り上げていくことが必要です。

なぜ,このような問題に強く惹きつけられてしまうのか。もうひとこと附加しておけば,以下のことも,わたしにとっては重大なひらめきでした。
「グローバル秩序」のこの発想をスポーツの「世界」にもちこむとどういうことになるのか。結論的な仮説だけを書いておきますと,それは以下のようになります。
「近代スポーツ競技や,オリンピック・ムーブメントや,ワールドカップは,グローバル秩序を浸透・維持させるための,<平和>という衣を身にまとった『戦争』ではないか」と。

だれが勝っただの,どのチームが優勝しただの,と浮かれている間に,無意識のうちに「グローバル秩序」を「是」とする思考・心情が全身に浸透していくことになります。そして,気がついたときはすでに手遅れになっている,と。たとえば,勝利至上主義と経済原則に乗っ取られてしまった近代スポーツ競技は,スポーツの<金融化>と<ドーピング>という文字通りの麻薬によって溶融をはじめているのではないか,と。

この仮説はこれから,慎重に跡づけをしてみたいと思います。そして,『近代スポーツのミッションは終ったか』(西谷修,今福龍太の両氏との共著,平凡社)の続編にとりかからなくてはならない,とむらむらと深いところからの衝動が突き上げてきます。また,ひとつ,新たな展望が開かれた,という心境です。

こんなことを考えさせてくれる西谷さんのお話でした。
次章の,12「宗教について」──宗教の回帰を問う──からは,どんなひらめきをもらえるのだろうか,といまから楽しみです。
石田英敬さんの,このテクストそのものについても,いつか,このブログで取り上げてみたいと思います。今回は,その導入まで。
素晴らしい本であることは,間違いありません。本気でお薦めします。ぜひ,ご一読を。


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