2011年9月26日月曜日

「万里の長城」に立つ。

朝7時に宿舎を出発して,車で万里の長城を目指す。道路が渋滞する前に・・・という北京大学に勤務する友人のRさんの提案で。なにもわからないわたしたちは「おっしゃる通りに」と素直に答える。この提案が正解だったことはあとですぐにわかる。

1時間半ほどで万里の長城の登り口に到着。すでに,団体客を運んできたバスがずらりと並んでいる。みんな,われさきにと登っていく。天気は上々。風がそよそよと吹いていて,汗ばむ肌には心地よい。万里の長城の登り口に到達すると,左右二手に別れて登っていくことになる。つまり,西に向うルートと東に向うルートの二つ。なぜか,大半の人は右にルートをとる。これは右利きの人が多いことと関係しているのだろうか。もちろん,左にルートをとる人もいる。こちらの方が圧倒的に少ない。不思議な現象。

前方に延々とつながる万里の長城を登りながら,うしろを振り返ると,こちらにもまったく同じようなルートが延々と連なっている。石畳の道の途中はところどころ石段になっている。つまり,急斜面のところは石段になっている。この石畳の「石」を一つひとつよくみると,ところどころの石はすり減って,すり鉢状にへこんでいる。その数も少なくない。ずいぶんむかしから存在することがその形状からわかる。

万里の長城のパンフレットによれば,長さ約2400㎞,城壁の高さ約6~9m,道幅4.5m。春秋戦国時代に辺境を守るために築き,秦の始皇帝が大増築し,この名前をつけたという。現在の万里の長城は明代に築造。その位置は遥かに南に下がっている,という。

なるほど,と納得。北京から車で1時間半で万里の長城に到達するとは想像もしていなかったからだ。いかに,早朝に出発して渋滞に巻き込まれることなく走ったとしても,「北の辺境」に到達するには相当の時間が必要なのだろうと覚悟していた。それが,あっという間に到着してしまったので,いささか呆気にとられていた。なるほど,最初期の万里の長城と,いまの万里の長城では,その位置が違うのだ。「遥かに南に下がっている」ということは,最初期の万里の長城はもっともっと北の辺境地域に構築されていたということになる。それは,いまは,どうなっているのだろうか。

それにしても,秦の始皇帝が築いたという万里の長城は,前221年に,中国史上最初の統一国家を立ち上げたときというから,およそ,いまから2200年も前に築城がはじまったことになる。こんなむかしに「万里の長城」を構想すること自体が驚きである。

その発想を引き継いで,こんにちの「万里の長城」は,元の支配を倒した明の時代(1368~1644年)に,はるか南に下がったところにふたたび築城されたものだという。

いま,わたしたちが歩いている万里の長城は,この明の時代に構築されたものだという。だから,7世紀も前のものだ。人間が上り下りする足の力で石段の「石」がすり減ってしまっているのも,まあ,宣(むべ)なるかな,というところ。

どこまでもつづく万里の長城の前方を眺めながら,必死で登る。そして,振り返れば,これまた同じように万里の長城がうしろに連なっている。この眺望の楽しみを何回もくり返しながら,そして,写真を撮りながら,さらに,おしゃべりをしながら,延々と2400㎞もつづく万里の長城の,ほんの一端を歩く。眺望のよいところにくると,立ち止まって前後左右をくまなく眺める。「万里の長城に立つ」という実感がじわじわとからだに伝わってくる。いや,染み込んでくる。

それにしても,いったい,なんのためにこんなものを築いたのか。
それほどまでに北方から攻めてくる騎馬民族に脅威を感じていたということか。騎馬民族とはモンゴル族。つまり,モンゴル族の騎馬隊はそれほどの戦闘能力をもっていたということか。たしかに,そのモンゴル族の騎馬隊は,秦の始皇帝が築いた万里の長城をいとも簡単にを乗り越えて,中原を征服したことは歴史の語るとおりである。すなわち,元の時代のはじまり。フビライの登場。そして,秦の始皇帝が築いた万里の長城の破壊,撤去。

万里の長城が,軍事上,かなり大きな役割を果たしていたとしても,じっさいには役立たずだったことは明らかだ。だとしたら,元王朝を倒した明王朝はなんのためにこんな,とんでもないものを築造したのか。それも,秦の始皇帝が築いた万里の長城よりもはるかに堅牢な城塞の築城である。いま,こうしてその「場」に立っていても,不思議だ。

人間が背負って歩くことのできる限界の大きさに,一つひとつの石のサイズが切り揃えてある。これを一つずつ背負って,運びあげたのだ。この苦役のために,どれだけの人夫が駆り出されたことか。そのために,どれだけの人びと(家族をふくめて)が辛い思いをしたことだろうか。その集積の上に権力が成り立っている。

権力の力を,民衆のからだをとおして思い知らせるための一つの手段として,万里の長城の築城が利用されたとでもいうのだろうか。あるいは,同時に,「万里の長城」というネーミングと具体的な存在をとおして,権力のシンボルを明確に提示すること,こちらの方に大きな狙いがあったのだろうか。東西南北に広大な領地をもつ大国を統治するためには,このくらいのことをしないと権力の偉大さを周知徹底させることはできなかったということなのだろうか。などと,いろいろ考えてみる。

そんなこととはなんの縁もゆかりもない,現代の一人の日本人にすぎないわたしですら,この「万里の長城」に立つという経験が,深くふかくわたしのからだに染み込んでくる。人間が「生き延びる」ための営みのひとつが生み出す不思議な「力」の経験ではある。それほどの威力をいまもなお失ってはいない。

「人が生きる」ということは,ことほど左様に単純ではない。
「万里の長城」もまた,人間の「理性」が生み出した,一つの狂気の現出に違いない。この「狂気」は,歴史的遺物として,こんにちのわたしたちにさまざまな教訓を残しているものの,直接的な「危害」を加えるものではない。しかし,わたしたちがいま直面している「原発」という「狂気」は,半永久的に全人類に大きな影響を与えつづけることになる。

「万里の長城」に立つ。
そこでもなお,わたしの思考のなかから「原発」は消え去るどころか,またまた,別の姿・形をとって,問題を投げかけてくる。しかも,現代の最先端科学という名の恐るべき理性の「狂気」として。

「万里の長城」もまた,一つの儀礼だったとしたら,「原発」もまた現代の「儀礼」ではないか,と。ここでいう「儀礼」の意味については,また,いつか詳しく触れてみたい。

とりあえず,中国旅行の第二報まで(修正版)。

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