2011年9月8日木曜日

『世界』10月号の西谷修論考に感動。必読です。

毎月8日は,鷺沼の事務所に行く途中でかならず本屋さんに立ち寄る日。岩波の雑誌『世界』が発売される日だから。今月はことのほか,わくわくしていました。ですから,いつもよりも少し早めに家をでました。昨日の太極拳の稽古のあとの「ハヤシライス」の時間に,西谷さんから「見本」(執筆者にだけ早くとどく)をちらりと見せてもらっていたからです。

今月の特集はいうまでもなく10年後の「9・11」。題して「覇権国家アメリカの凋落」──<9.11>10年の現実──。この特集の巻頭の論文が西谷さんの「『自由』の劇薬がもたらす破壊と荒廃」─ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』に寄せて,です。しかも,14ページにわたる大論文です。

ひとことで感想を述べるとすれば,「この10年の間に,そんなことが仕掛けられていたのか」と,ただ,ただ,驚き,あきれるばかり,ということです。えらいこっちゃ,「世界」がこんな仕掛けによって翻弄されているとは・・・!もちろん,日本もそういう仕掛けのもとで,いいように操られていたとは・・・。コイズミ内閣はその総仕上げをしていたということ。その仕掛けとは「新自由主義」。郵政民営化もその一環として展開されたもの。ワッショイ,ワッショイとコイズミ劇場に乗せられて,「規制緩和」という美名のもとに郵政もまた「民営化」の道を一直線に駆け抜けていきました。その結果が,こんにちの郵政事情です。そのしわ寄せはどこにいったのか。まぎれもなく「僻地」です。

話をもとに戻します。
この西谷論考は,じつに手際よく「9.11」以後の10年間の「世界」の動向を整理してくれています。そして,その背後で行われていたことの内実を,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』惨事便乗型資本主義の正体を暴く(上・下,幾島幸子・村上由見子訳,岩波書店)〔注・今日発売。各2,625円〕に寄り添いながら,そのポイントを明確にしてくれます。しかも,その上にかぶせるようにして,西谷さん独自の,視野の広い論考が展開されています。わたしのような者にも,じつにわかりやすく語って聞かせてくれます。この10年の「世界」の動向が意味するものの「正体」を,じつにみごとに説き明かしてくれます。つまり,ひとくちに「グローバリゼーション」として語られることがらのその背後には恐るべき仕掛けが待ち受けていて,しかも,それらが着実に「世界」のすみずみにまで浸透しつつあるという事実を知ったとき,一瞬,茫然自失してしまいます。

アメリカが「正義」の戦いと称し,「テロとの戦い」と銘打って,アフガニスタン,イラクに侵攻し,その結果は無惨そのものとしかいいようのない終り方をしています。しかし,これはある意味では「みせかけ」であって,戦争という非常事態を通過することによって生ずる無秩序状態こそが,アメリカの新自由主義者たちの「つけ入る」絶好のチャンスだったというのです。つまり,旧制度を完全に破壊し,空白が生じる,そここそが「自由」な時空間であり,そこに「自由市場」への道が開かれるというわけです。その「自由市場」に新自由主義がかかげる「規制緩和」「民営化」「公共支出削減」を導入し,新制度を築きあげる,それはまさに経済の「金融化」への道でもあるという次第です。これが「ショック・ドクトリン」の内実。詳しくは,西谷さんの論考で確認してください。もっと詳細に分析を積み上げた上で,みごとな結論に到達しています。

その結果は,貧富の格差がますます増大することになり,新たなテロリストを産み出す構造になっていることは自明のことでもあります。ですから,アメリカは一見,失敗しつつ(戦争という一点では),その裏では,経済(それも「金融化」)という点では大成功というわけです。しかし,それはアメリカという国家を支えている人びと(政財界)の考えであって,アメリカという国家全体を考えたときには「覇権国家アメリカの凋落」のシンボルとして,まさに崩壊のシナリオを一直線に突き進んでいるとしかいいようがありません。

それを,みごとに証明してみせたのが,アラブ世界で起きた「民衆蜂起」です。この地域の独裁国家はアメリカの支援によって維持されてきたものです。それが,だれも想定しなかった,まさに「想定外」のこととして,その独裁体制が「これ以上は我慢ならない」というきわめて素朴な民衆の感情の集積によって,あれよあれよという間に崩れ落ちていきました。エジプトを筆頭にしたアラブ世界のこんごの行方は,21世紀の「世界」の新展開の鍵を握っている,というわけです。

こんな稚拙なまとめ方をすると,かえって,混乱を起こしてしまいそうですが,お許しください。わたしとしても,もう少し整理をした上で,このブログを書くべきだということは百も承知しているのですが,なんとしても,一刻も早くこの感動を書き止めておきたいという欲望を抑えることができませんでした。ので,あとは,西谷さんの論文にゆだねたいと思います。

で,最後に,なぜ,この論考に感動するのかといえば,以下のとおりです。
わたしの関心事であります「スポーツ史」や「スポーツ文化論」の領域では,「グローバリゼーション」についての議論がほとんどありません。もし,あったとしても,ごくごく「借り物」の議論でしかありません。ですので,そこにわたしは大いなる不満があります。そして,その現状をなんとかして克服したいものという強い願望があります。その一環として『近代スポーツのミッションは終ったか』(今福龍太,西谷修の両氏との共著,平凡社)を世に送り出しました。

つまり,スポーツがグローバル化するということはどういうことを意味しているのか,これがわたしの関心事です。しかも,来年には(じつは,ことしの予定でしたが,原発事故を理由に一年延期),日本・バスク国際セミナーが予定されていて,そのテーマが「民族スポーツとグローバリゼーション」です。その意味では,ナオミ・クラインの提示した『ショック・ドクトリン』は,これまでのグローバリゼーション理論にはみられなかった,まったく新しいものです。これをベースにして,もう一度,スポーツにおけるグローバリゼーションの問題を考え直してみようと,いまは強く思っています。

ナオミ・クラインのテクストもしっかり読み込んだ上で,できるだけ早い時期に,西谷さんを囲む会でも設定して,この論文を軸にしたお話を伺いたいものだ,といまから考えているところです。

「世界」のこの10年とはなにであったのか,を考えるための必読の論文として,みなさんにお薦めします。

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