2011年10月22日土曜日

田原総一郎に山本太郎を「叱責」する資格があるのか。とんでもない。

田原総一郎が山本太郎を,テレビのトーク番組で「叱責」した,という。山本太郎の主張に対して,「ダメだ」「もっと勉強しろ」とダメだしまでしたという(@nifty.ニュース)。

このことは,なにを意味しているのか。わかりやすくいえば,脱原発を言っている連中は「勉強不足で,なっとらん」と全否定している,ということだ。

わたしの記憶に誤りがなければ,田原総一郎は「3・11」以後,意外に早い時点で「脱原発」を主張した人だ。しかし,これまた意外に早い時点で,「脱原発」と言わなくなってしまった。そして,しばらくしてなんと言ったか。「わたしは脱原発でも原発推進でもない」と書いた。これは『週刊読書人』のかれのコラムで書いたことだ。わたしはこのことをはっきりと記憶している。アレレッ,と思ったからである。みごとな「変節」である。いや,寝返りである。いやいや,思想の「転向」である。

この瞬間,わたしはどう受け止めたか。「ああ,田原総一郎も,とうとう<お薬>を一服盛られてしまったか」と。ちょうど,同じころ,東浩紀君が『朝日新聞』で「わたしは脱原発でも原発推進でもない」と書いて,わたしを唖然とさせた。このことは,このブログにも書いた(検索してもらえば,すぐにわかる)。あまりの「無責任さ」に腹を立てて。

以後,わたしの知っている限りでは『朝日新聞』に評論を書いているかなり多くの評論家諸氏が,みんな「脱原発でもない,原発推進でもない」,いわゆる玉虫色の主張をしていることがわかった。もちろん,論説主幹もまた同じような調子であった。だから,わたしは『朝日新聞』の半世紀にわたる読者であったが,縁を切った。そのときに書いたブログが,毎週,「よく読まれるブログ」の上位にランクされている(このブログの右側枠外にあるので,ご確認を)。が,その後,『朝日』は世論に押されてか,編集方針を変えた,という話を聞いている。しかし,わたしは信じてはいない。

いったい,田原総一郎はそもそも何様のつもりでいるのだろう。長い間,テレビ界で君臨しているうちに,頭が狂ってしまったに違いない。自分のいうことはすべて正しくて,自分の意見に反対する人間はすべて間違いだ,と言いはじめている。これではブッシュ君(日本名は「藪君」)と同じではないか。自分だけが「正義」で,それに反抗する者はすべて「テロリスト」だ。だから,殺していい,と。

「3・11」以前までは,まあ,過激な発言がテレビ受けして,言論の自由だからいいか,と余裕で受け止めることもできた。しかし,「3・11」以後は,そうはいかない。ましてや,「脱原発」を主張するために,俳優業を干されてもいいと覚悟の上で,からだを張っている山本太郎君に対して,「上から」見下ろすようにして「叱責」した,という。当然のことながら,山本太郎は,臆することなく自説を展開したという。それでいいのだ。立派だ。信念の人だ。

田原君は,頭が狂ってしまったのではない。<お薬>が効いてきた,ということだ。なにもかも承知の上で,脱原発をつぶしにかかっている。その方が自分の身の保全のためにいい,と計算しての上で。と,わたしは類推する。だから,なおのこと質が悪い。こんな輩がまたぞろ増えはじめている。これまで鳴りをひそめていた連中までもが,あちこちのメディアをとおして発言をはじめている。

いよいよ正念場にさしかかってきた。政府民主党も少しずつ本音をだし始めた。国民の意思を無視して。政治はだれのためのものなのか。わたしたちは,ここで,もう一度,ふんどしを締め直さなくてはならない。

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の俚諺のとおり。あるいは「長いものには巻かれろ」ともいう。天下の田原総一郎君よ。そんないい加減な人間だったのか。君は。一服の<お薬>くらいで,そんなに簡単に思想の軸をずらしてしまっていいのか。しかも,正反対に。まさに「転向」以外のなにものでもない。大いなる「犯罪」だ。なぜなら,「確信犯」だから。いずれ,歴史が裁いてくれることだ。

かつての体操の名花,ベラ・チャスラフスカを見習うべし。
この人のことは,いま,話題になっているのでご存知の人も多いと思う。が,わたしも,ひとこと書いておきたいことがある。明日にでも書こうと思っている。予告まで。



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