2011年10月23日日曜日

宮本亜門さんも排除されているとか。いまこそ芸能界が立ち上がるときなのに。

「脱原発」宣言をし,デモの先頭に立って活動をはじめた山本太郎がテレビ・舞台から排除されているという話は,すでにネット上の常識である。その山本太郎を,あの田原総一郎が頭ごなしに「叱責」したという話は昨日のブログで書いたとおりである。

「叱責」した理由が,またまたふるっている。田原総一郎が「自民党が悪い。民主党の足を引っ張って,民主党をつぶしにかかっている」という趣旨の発言に対し,山本太郎は「自民党も民主党も元は同じじゃないですか」と応じた。そのタイミングで田原は「ダメだ!」「もっと勉強しろ!」と吼えた,というのだ。

わたしも原則的には山本太郎と同じ意見だ。民主党が政権交代をしたことの意味を忘れてしまって,迷走をはじめてからの民主党は,かつての自民党となんら変わらない。だから,選挙をやることもなく首相を取り替えて,なんとか苦境を脱出しようとする手法まで,そっくり同じだ。しかも,原発推進に舵を切った自民党の元首相中曽根康弘とそれを支えた与謝野馨の民主党でのその後のポジションを考えてみれば,「自民党も民主党も元は同じ」という山本太郎の主張の根拠も明白である。田原総一郎はそんなことは百も承知で「嘯いて」いる。だから,許せない。

しかし,ネットを流れている情報の取り扱いは,どれをみても田原総一郎のいうことが正しくて,山本太郎は「勉強不足」ゆえに「叱責」された,という姿勢で一貫している。なにも知らない読者は,なるほど,政治評論家である専門家から,俳優である山本太郎が素人の「無知」ゆえに「叱られた」,と鵜呑みにするだろう。こうして,テレビもネットも週刊誌も新聞も情報を操作して,世論を形成しているのが実情だ。

その山本太郎を宮本亜門が引き立てて公演を打った(横浜)というので,こんどは宮本亜門の発言に要注意,という情報がネット上に流れている。いつも,まっとうなことを発言する宮本亜門を,ここにきてそれとなく排除しようとしている。まるで,芸能界にいる人間は脱原発に触れると,干されてしまうぞ,という脅しのようなものである。だから,芸能人は原発に関してはみんな口をつむっている。下手に発言すれば,ろくなことはない,ということを熟知しているからだろう。

それもそのはずだ。「原発安全神話」の構築に大きく貢献した高橋英樹のような大御所が鎮座ましましている芸能界にあっては,若手の芸能人は,ただただ「平伏する」のみだろう。原発の「ゲ」の字も禁句になっていることだろう。だから,みんな「だんまり」を決め込んでいる。なんということだろう。恐るべき「言論統制」ではないか。あるいは,「自発的隷従」(西谷修)という「慣習行動」(ブルデュー)に身をゆだねている,というべきか。

そんななかでの山本太郎の「脱原発」宣言は立派だ。そして,その信念のもとに俳優業を廃業してもいいと覚悟を決めている。そういう覚悟を決めた俳優の,一皮剥けた俳優の,新しい演技の魅力を引き出そうとした宮本亜門さんまでもが,どうやら排除の対象とされつつある,という。なんということか。ほんとうに困ったものだ。芸能界ファシズムの現前である。

こんな構造までもが「3・11」以後,露呈しはじめている。まさに,重大な事態の出現である。言ってしまえば,マス・メディアによる意図的・計画的な,それでいて「自発」的な「言論統制」である。別の言い方をすれば,脱原発を主張する人間は,マス・メディアから「徹底」して排除されている,ということだ。つまり,まっとうな,ほんとうのことを言う人間は,いまの大手新聞やテレビ界から,抹殺されている。だから,「わたしは脱原発でも原発推進でもない」と「禊ぎ」までしてマス・メディアに居残るための戦術をとる,みせかけの知識人・評論家があとを絶たない。

わたしたちは,いまこそ,眼を皿のようにして,だれがどのような発言をし,どのような行動をとるのか,しっかりと見きわめなくてはならない。そして,みずからの信念にもとづく主張と行動を展開すべきときだ。そこを忌避してはならない。おおげさな物言いに聞こえるかもしれないが,日本という国家の存亡にかかわる一大事(わたしは「非常事態」だと思っている)に,いま,わたしたちは直面しているのだから。

宮本亜門さんが,そして,山本太郎さんが,こんご,どのような扱いをされていくのか,わたしたちはしっかりと見きわめなくてはならない。

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