2011年11月29日火曜日

「3・11」以後を生きるわたしたちの身体について考える。

「3・11」以後を生きるわたしたちの身体について考える
──「ものの豊かさ」から「こころの豊かさ」へ

これは明日に迫った特別講義のテーマです。場所は,名古屋の椙山女学園大学(日進キャンパス)。時間は16:40~18:10。前のブログでも書きましたように,学生さん対象ですが,一般にも開かれていて,聴講自由です。時間のある方はお運びください。

いよいよ明日という段階になって,さて,どのような話をしようか,と少しずつ気になってきました。今回は,フリーハンドででかけていって,その場の力を借りて,「いま,ここ」での,ギリギリいっぱいの話ができればなぁ,と夢見ています。わたしにとっては一種の賭けであり,挑戦です。これこそが「正義」と信じて。

それにしても,ある程度は,話題のポイントは抑えておかなくてはなりません。そのための整理を少しだけ試みておこうと思います。

テーマのポイントのひとつは,「3・11」をどのように受け止めるのか,というところにあります。
もうひとつは「生きる」とはどういうことなのか,ということ。
三つめは,身体とはなにか,ということ。
四つめは,「ものの豊かさ」とはどういうことなのか,ということ。
五つめは,「こころの豊かさ」とはどういうことなのか,ということ。
最後は,もう一度,出発点にもどって,「3・11」以後,すなわち「後近代」を生きるわたしたちの身体とはなにか,と問い直すこと。

これらの一つひとつが,断わるまでもなく,とてつもなく大きなテーマになっています。ですから,それほど立ち入った議論を展開することは,ほとんど不可能です。それでも,大きな問題の所在はどこにあるのか,という提示はしなければ・・・と考えています。そのためのポイントをさらりと触れておけば,以下のようになりましょうか。

「3・11」は,わたしにとっては,「後近代」のはじまりです。ずいぶん前から,核エネルギーの開発は近代論理の破綻をもたらした,つまり,「自由競争」原理の枠組みの一角がくずれはじめた,と主張してきました。そして,このときから,「後近代」への移行期に入った,と考えてきました。しかし,今回の「3・11」は,近代論理の限界をみごとに露呈させることになりました。ですから,「3・11」以後は,近代論理を超克する新たな論理を構築しないかぎり,もはや,わたしたちの「生」は成り立たない,と考えています。

つまり,「3・11」は,世界史的な転回点になる,ということです。そういう認識に立つこと,そして,そこからわたしたちの「生」を考えなくてはならないこと,それがいまや強く求められている,と考えています。

つづいて「生きる」とはどういうことなのか。動物が生きることと人間が生きることの共通点と差異はなにか。それはそのまま,本能と理性。このふたつの「折り合い」のつけ方をどこに求めていくのか。近代のように「理性」中心主義に大きく舵を切り,「本能」を抑圧・隠蔽する制度や組織では,もはや,立ち行かなくなっていることは明らかです。そこを,どのように超克して,生き生きとした「生」の躍動をとりもどすか,ここがポイントとなります。すなわち,ニーチェのいう「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」との「折り合い」のつけ方です。これ以上の「悲劇」を誕生させないために。すなわち,「生身の身体」を可能なかぎりありのまま「生きる」こと。

つぎの「身体」は,存在しつつ存在しない,ということの再確認。すなわち,「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではない」そういう存在である,ということ。つまり,平穏無事であるときにはわたしたちの身体はほとんど忘れ去られているけれども,危機に立ち会うと身体はにわかにその存在を主張しはじめる。すなわち,「身の安全」を主張しはじめる。つまり,「3・11」以後を生きるわたしたちの身体とは,「身の安全」を強く意識させられる存在だ,ととりあえず位置づけておくことにしましょう。つまり,危機に立ち向かう身体である,と。もっと言ってしまえば,放射性物質と向き合う身体。

「ものの豊かさ」と「こころの豊かさ」のヒントは,大塚久雄の著作『ものの豊かさとこころの貧しさ』(みすず書房)からのものです。そして,最近では,ブータン国王のいうGNH(国民総幸福)。つまり,まずは物質的欲望の充足という呪縛から解き放つこと。そして,「こころの豊かさ」の実現に向けて舵を切ること。そのためには,貧乏になってもいい,という覚悟をもつこと。むしろ,そうすることによって,人と人との関係性はより豊かになっていく,とわたしは考えています。

まあ,ざっと,こんな話が展開できれば・・・と,あとは祈るのみ。
それでは,明日の,特別講義を楽しみに。

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