2011年12月11日日曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・人間性のパラドックス(背理)ということについて・その2.

前回のつづき。
未完に終っているので,その補填をまずさきに。
「いかにして,必要性による行動に服従している思考,有用な区切りを立てるよう定められている反省的思考から,自己意識へと,すなわち本質なき──が,意識的な──存在の意識へと横滑りしていくのか,という問いが結ばれているのである。」

ここで言われている「横滑り」という言いまわしが,バタイユのテクストにはときおり顔を出す。「必要性」や「有用性」の思考から自己意識へと「横滑り」していくという,ここのところをどのように読み解くかが重要なところであろう。

そのキーとなるのは「自己意識」だろう。コジェーヴの引用文のところでも考えたように,動物性のレベルでの欲望からは「自己感情」しか生まれないが,動物性から人間性への移行期にいたってようやくその欲望は「自己意識」を立ち上げるようになる,という。つまり,ここでいう「自己意識」とは,ヘーゲルがいう自己意識とは,若干,異なるということを念頭におく必要があろう。つまり,ここでバタイユがいうところの「自己意識」とは,まだ,理性とは無縁の,きわめて素朴な,人間性に目覚めた原初の人間の自己意識のことである。

そのことは,「自己意識へと,すなわち本質なき──が,意識的な──存在の意識へと横滑りしていく」という文言からも窺い知ることができる。自己意識とは,「本質なき存在の意識」のことであり,それでいて「意識的な存在の意識」でもあるものだから。「本質なき存在の意識」とは,まさに,動物性の世界に片足を突っ込んだままの「存在の意識」と読み替えてもいいだろう。しかし,同時に「意識的な存在の意識」でもある──こちらは,かなり人間性の世界に踏み込んでいる状態のことを指していると考えていいだろう。

そのことが,同時に,「人間的な情況」から「外」にでることをも意味している。ここが,この『宗教の理論』を読み解くときの重要なポイントとなる。原初の人間が,初めて動物性の世界から人間性の世界に足を踏み入れたときの情況は,こんにちのわたしたちが生きている世界である「人間的な情況」からはほど遠いものである。だから,そこの,ある意味では「中間領域」(動物性と人間性の)に接近して,新たな思考を展開するには,まずは,「人間的な情況」から「外」にでなくてはならない,とバタイユは言うのである。この「中間領域」に移動していくことを「横滑り」と表現する(谷口指摘により一部修正)。なぜなら,一足飛びに,動物性の世界から人間性の世界に移行することは不可能だから。つまり,徐々に,徐々に,動物性から人間性へと移行していく状態を,バタイユは「横滑り」と表現したわけである。

ここまで読み解いておけば,二つめの問題点は簡単である。
「この『宗教の理論』が衝こうとする背理(パラドックス),すなわち個人を「事物」にし,さらにまた内奥性の拒否としてしまうこの根本的な背理は,おそらくある一つの無力さを明るみに出すであろうが,この無力さの叫びこそ最も深奥にある沈黙への前奏曲となるのである。」

このテクストが衝こうとするパラドックスが,手短かに,凝縮したかたちで語られている。ここを,どのように読み解くかは,かなりの個人差があろうと思う。だから,とりあえず,わたしの読解を提示しておくので,みなさんで議論してもらえれば幸いである。

まずは,「個人を『事物』にする」というパラドックス。「事物」とは,本文にでてくるルビによれば「ショーズ」のこと。事物の前の段階は,「もの」そのもの(オブジェ)。原初の人間は,まず,他者の存在に気づく。その最初の他者が,すなわち「もの」(オブジェ)。「水の中に水があるような存在」,すなわち,動物性の世界にあっては他者はありえない。しかし,原初の人間は,動物性の世界から,ほんの半歩ほど外に踏み出した瞬間に「水ではない」なにか別の他者の存在に目覚める。それが最初の他者,すなわち「もの」そのもの(オブジェ)。

そのオブジェの存在があるとき意味をもち始めることになる。つまり,役に立つ道具となる。石や棍棒などは,その原初の人間の道具であった。このとき,石や棍棒は他のものたちとは別の「事物」(ショーズ)として,はっきりと人間に認識されるようになる。つまり,人間にとって特別の存在となる。「事物」とはそういう存在のことだ。

しかし,やがて人間は,みずからの存在をも事物とするようになる。道具を事物として取り扱うようになると,人間は道具なしには生活できなくなってしまう。つまり,道具と人間の逆転が起こる。道具を駆使しているつもりの人間が,やがて,道具に人間が束縛されることになり,ついには,道具と人間は同格になってしまう。すなわち,人間の「事物化」である。

このことが,もっとも端的に進行したのは,植物の栽培であり,動物の飼育である。植物を栽培しているつもりの人間が,いつのまにか栽培植物の「事物」になってしまう。動物の飼育も同じである。栽培や飼育という人間の営みが,いつのまにか栽培させられ,飼育させられる関係性のうちに閉じ込められてしまう。こうして,人間はいつのまにか「事物」となってしまうのである。

しかも,バタイユに言わせれば,いったん「事物」なってしまった人間は,もはや,元にもどることは不可能だという。このパラドックスを衝くことが,このテクストの目論見だと,バタイユは手の内を明らかにしている。

これと同じパラドックスが「内奥性の拒否」である。原初の人間は,動物と同じ「内奥性」の世界に生きていたのだが,次第に「内奥性」の世界から人間性の世界に移行するにしたがって,やがて,内奥性を拒否するようになる。かつての故郷である動物性,すなわち,内奥性を忌避し,ついには拒否するようになる。それが,こんにちのわたしたちの現実の姿なのだ。

しかし,そのことによって,わたしたちは説明不能の「無力さ」に襲われることになる。つまり,存在の寄る辺なさのような,一種の「不安」である。ひとたび,その不安に襲われると,わたしたちは当てもない「叫び声」を発したくなる。この叫びこそ「もっとも深奥にある沈黙への前奏曲となる」とバタイユは言う。これこそが,祝祭における酒池肉林へと人間を惹きつけて止まない原動力のことではないのか。だとすれば,そこにこそ「宗教的なるもの」の原初の姿が立ち現れるはずであるし,同時に「スポーツ的なるもの」の出現の契機があるに違いない。こんにちのスポーツが含みもつ「闇」のような魅力の源泉は,じつは,ここに行き着くのではないか。

こんなことをわたしは考えつづけているのだが,はたして,どうなのだろうか。多くの人の意見を聞きたいところである。集中講義の楽しみの一つ。

0 件のコメント: