2011年12月11日日曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・人間性のパラドックス(背理)ということについて・その1。

これまでの集中講義の折には,飛ばしてきた「緒言」という見出しの短い文章が,テクストのP.13~17.にかけて掲載されている。これまでは,なにげなく読みとばしていたのだが,久しぶりにここを読んでいたら,「えっ?」,「なぬっ?」という直観のようなものがひらめいたので,少しだけ足を止めて考えてみようと思う。

どこが引っかかったかといえば,終わりの方の二カ所。
一つずつ取り上げて考えてみることにしよう。

まずは最初の部分について。
「哲学というイデーそのものに,ある一つの原初的な問いが,すなわちいかにして人間的な情況から外へ出るのかという問いが結ばれている。いかにして,必要性による行動に服従している思考,有用な区切りを立てるよう定められている反省的思考から,自己意識へと,すなわち本質なき──が,意識的な──存在の意識へと横滑りしていくのか,という問いが結ばれているのである。」

「・・・・いかにして人間的な情況から外へ出るのかという問い・・・」。これがバタイユのいう「哲学というイデーそのものに,ある一つの原初的な問い」だというのである。いかにも,バタイユ的な視覚を感じさせる問いではあるが,では,「人間的な情況から外へ出る」とはどういうことを意味しているのか。ここが,この『宗教の理論』を読み解いていく上でキーになるところだ。

わたしたちは,「人間的な情況」にあることに,なんの不思議も感じない。いな,むしろ「人間的な情況」にあることに満足すらしている。あるいは,「人間的な情況」を維持することに生きがいすら感じている。幸せに生きるということは「人間的な情況」を上手に保つことだとさえ思っている。

しかし,哲学的イデーからすればそうではないのだ,と逆説的な問題提起をバタイユはしている。つまり,「いかにして人間的な情況から外へ出るのか」ということが哲学では重要なイデー(理念)なのだ,というのである。ここには,「外へ出る」というもう一つのキーがある。外とは「ex」。バタイユの基本概念の一つである「エクスターズ」(extase)(恍惚,脱自,脱存)の「ex」である。この「エクスターズ」こそが「外に出る」ことそのものを意味している。

ここには,すでに,立派なパラドックスが仕掛けられている。バタイユは,ヘーゲルのいう「絶対知」を対極に設定して,みずからの知,すなわち「非-知」を拠点にして,かれの思想・哲学を展開していく。したがって,ここに何気なく書かれていることは,バタイユにとってはきわめて本質的で,重要な意志表明なのだ,ということがわかってくる。

となれば,「必要性による行動に服従している思考」とか,「有用な区切りを立てるよう定められている反省的思考」というものが,まさに「人間的情況」に生きる思考である,ということもわかってくる。つまり,近代合理主義的な思考そのもののことである。ヨーロッパ近代の論理は「必要性」や「有用性」に思考の軸を置いていることは,もはや,説明するまでもないだろう。わたしたちの,こんにちの生活の価値観の軸はここにあるのだから。

しかし,ここに軸足をとられているかぎり,哲学的イデーをまっとうすることはできない,とバタイユは考える。そのことの意味を説明するために,長い前ふりが,繰り返し,くりかえし述べられている。それは,緒言の冒頭にあるように「私はある運動性に富む思想を,その最終的な状態を求めることなく表現しようと試みたのである」という文章の根拠,あるいは,言い訳ともとれるものである。しかも,この冒頭の文章の末尾には注1.が付されている。

この注1.は,P.162.から166.にいたる,きわめて詳細にわたるものである。この内容をここで取り扱うことは不可能である。したがって,この内容については,講義の中で丁寧に読み解くことにしたいと思う。

ただひとことだけ,断わっておけば,バタイユは,このテクスト『宗教の理論』に限らず,一度,書いた論考に,あとから何回にもわたって推敲を重ねていく,という手法をとっている。それが「私はある運動性に富む思想を,その最終的な状態を求めることなく表現しようと試みたのである」ということの実態である。

このテクストは,その意味では,本文よりも「注」をしっかりと読み込むことが,バタイユの運動性豊かな思想を理解する上では不可欠である。ということは,今回の集中講義では,もっぱら,「注」に光を当ててながらの読解に主眼をおくことが,これまでの読解を補填する上で有効であろうと思われる。

この稿は,思いがけず,長くなってしまったので,ひとまずここで区切ることにしよう。
つぎのブログでは,二つめの問題点をとりあげることにする。

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