2011年3月31日木曜日

比嘉康雄展中止と聞いて,思いは複雑。

 IZU PHOTO MUSEUMで「比嘉康雄展」が開催されることになっていて,その期間中の4月10日(日)には,阿満利麿さんの講演があるというので,楽しみにしていた。が,なぜか,この企画は中止になったという。
 不可解というか,複雑な気持ちである。
 こういうご時世だから,いろいろなお祭り的な行事は自粛しようというのは,わからぬわけではない。しかし,なにからなにまで喪に服したように,自重し,自粛すればいい,というものでもなかろう,とわたしは考える。とりわけ,文化事業は自粛しないでほしい,と思う。ただでさえ,気持ちが落ち込んでしまって,これまでやってきたこともまともには手につかない状態になっているのだから,せめて,気持ちの上でも「前向き」になれるように,みずからを奮い立たせることが,この際,重要ではないか,とわたしは考える。
 今回の比嘉康雄回顧展は,比嘉さんのライフ・ワークのなかでもとっておきの沖縄・久高島に伝承されていたイザイホーという祭祀(いまは継承者がいなくなってしまって,廃れてしまった。残念。)に焦点を当て,このことについて阿満さんのお話がある,というので心待ちにしていた。伊豆まででかけるのはいささか距離があるが,それでも比嘉さんの写真と阿満さんのお話がセットになっているこの企画は見逃せない,と早くから予定を立てていた。だから,友人たちにも声をかけ,みんなででかけようと話し合っていたところだ。しかし,なぜか,中止になったという(西谷修さんからの情報による)。
 理由がなにであるかはともかくとして,このご時世だからこそ,この企画は実行(強行)してほしかった。なぜなら,イザイホーのような前近代的な,バナキュラーな,伝統的な祭祀を消滅させた最大の原因である現代科学技術文明のなれのはてのひとつが,今回の原発事故なのだから。なにゆえに,今回のような原発事故にわたしたちは遭遇しなければならなかったのか,いや,それ以前になぜわたしたちは原発の建設を容認してしまったのか,その根源の問題を考えるための絶好のチャンスを提供してくれるもの,そのひとつがこの「比嘉康雄回顧展」であり,阿満さんの講演だったのだ。少なくとも,わたしはそのように「3・11」以後,位置づけていた。
 もちろん,この企画を最初に聞いたのは,「3・11」以前の話である。その時点ですら,いま,この時代だからこそ,この企画はきわめて重要な意味がある,とわたしは受け止めていた。それは,イザイホーの問題を考えることは,21世紀のスポーツ文化を考える上で,どうしても通過しなければならない,不可欠のハードルのひとつだとわたしは考えていたからだ。なぜなら,スポーツの起源は,そのほとんどが祭祀儀礼にある,と考えているからだ。
 わたしたちは,神々への祈りのこころをいともかんたんに投げ棄ててしまい,現代科学技術文明がもたらす「ぬるま湯」的な恩恵に身も心も売り渡してしまい,それを当たり前のこととして生きてきた。そのひずみが,いま,現代社会のありとあらゆるところににょきっ,にょきっと顔を出しつつある。それはまるでジャック・デリダの提起した「亡霊」のようだ。そのひとつが,残念ながら,今回の原発問題なのである。
 だから,わたしは,ますます阿満さんがどのようなお話をされるのか,このご時世だからこそ,大いに期待を寄せていた。が,それが「中止」になったという。まことに残念でならない。わたしは,少なくとも「3・11」以後の新生日本の復興に向けて,あるいは,新しい「世界史」のはじまりに向けて,そのための基本的な理念を構築するヒントを,比嘉康雄さんの写真と阿満さんのお話からさぐってみたいと考えていたのである。
 こういう企画を中止しなければならない理由は,考えられないことではない。しかし,ここは踏ん張って,開催してもらいたかった。それもまた,震災復興に向けての重要な活動のひとつだと考えるからだ。しかも,今回の復興は,単なる復興ではない。原発問題をいかにして超克していくか,というきわめて重大な理念の転換が求められているのだ。つまり,原発推進という現代科学技術文明依存型の思考からの,意を決した離脱と移動が,いま,求められていると考えるからだ。そのために,日本人として,いや,この地球上に生きるひとりの人間として,「3・11」以後の世界を生きのびていくためには,どのような価値観を新たに構築すべきかが,いま,問われているのだから。そして,このことと21世紀のスポーツ文化を考えることとは直結しているのだ。だから,逆にいえば,現代科学技術文明の素晴らしさと脆弱さの両面をしっかりと確認をした上で,これまでとはまったく違った,生身の人間として生きることを最優先させる「理性」の働かせ方(西谷修)を模索していくには,絶好のチャンスでもあるのだ。ピンチこそがチャンス。辛く,悲しい経験をとおしてこそ,ほんとうに「人間である」とはどういうことであるのか,と真剣に考える。これまでのような「ゆで蛙」状態のなかからは,けして,新たな時代を切り開く思考は生まれてはこない。
 だからこそ,比嘉康雄さんのイザイホーの写真をしかと鑑賞した上で,阿満利麿さんの宗教観の蘊蓄に耳を傾けてみたかった。そして,「3・11」以後を生きるひとりの人間としての,思考の道筋をさぐってみたかった。残念でならない。
 幸か不幸か,今回の原発事故がなんとか鎮静化に向けて舵を切ることができたとしても,およそ10年もの歳月を要するという。この歳月と同じ時間をかけてでも,「3・11」以後の世界史を展望することのできるコンセプトを構築していかなくてはならない。その意味でも,わたしたちは,いま,きわめて重要なところに立たされているのだ。ただ,復興すればいい,という問題ではないのだ。
 だからこそ,文化事業を自粛するようなことがあってはならない,と強く切望したい。むしろ,赤字覚悟で開催していくこと,これもまた立派な復興支援のひとつではないか,とわたしは考えるのだが・・・。
 ついでに,もう一言。いまこそ「芸能」の力が求められている,と。

 ※お詫びと訂正
 上記のブログの内容に間違いがありましたので,お詫びします。そして,以下のように訂正をさせていただきます。
 比嘉康雄展は,予定どおり,5月31日まで行われているとのこと。阿満利麿さんの講演が中止になったということ。そして,阿満さんの講演については,現在,調整中とのこと。うまくいけば,どこかで実現するのではないか,とわたしは期待している。以上,お詫びと訂正まで。(某出版社の親しくしている編集者から教えていただきました。ありがとうございました。)

2011年3月29日火曜日

『原発時限爆弾』の著者広瀬隆の現状認識を聴いて,愕然とする。

 知人に,広瀬隆のロング・インタヴューがYou Tubeで流れている(videonewscom・神保哲生)のでみておくようにと教えられ,早速,それをみた。1時間17分22秒の映像に,まるで金縛りに会ったかのように。そして,ついでに,3月23日に早稲田大学で行われた「福島原発現地報告と『原発震災』の真実」という広瀬隆と広河隆一の二人のセッションまでみてしまった。こちらは,2時間4分40秒。見終わったときには,からだの芯まで冷えきってしまって,しばらくはものも言えなくなってしまっていた。
 このブログをとおして,ひょっとしたら,原発はもはやどうにもならないのではないか,と危惧していたことが広瀬隆によって,みごとに説明されてしまった(ということは,わたしは納得してしまったということ)からだ。くわしいことは,神保哲生のvideonewscomにゆずるとして,一点だけとりだして紹介しておくと以下のとおり。
 原発は鎮圧可能か否か,と問われたら「可能」という方に賭けるしかない,という。そうしないと,このあとの議論が成立しなくなってしまうからだ,と。でも,その確率はきわめて低いのだ,と。なぜなら,福島原発は,全部で10基ある。そのうちの1号機から4号機までが,いま,きわめて危険な状態にある。その4基を鎮圧できる確率は,それぞれ1基ごとに「可能」か「否」かの二分の一でしかない。ということは,4基全部鎮圧できる確率は,0.5×0.5×0.5×0.5=0.0625になる。つまり,100分の6の確率でしかない。しかも,1基が核分裂をはじめれば,連鎖反応を起こして,すべては終わりになる,という。つまり,6基が全部,いってしまう,というのである。となると,チェルノブイリの10倍ではきかない被害が予想される,という。これだけでもう身の毛がよだつ。
 その上,こういう原発が全国に50基ある。それらが4っつのプレートの噛み合った日本列島に散在している。今回の大地震は太平洋プレートの活動によるもので,地下1000㎞だったので,地震の震度そのものによる被害よりは津波の被害の方が大きかった。が,その他のプレートが活動したときの地震は,ほとんどが直下型の揺れになる。そうなると,原発におよぼす影響は強烈なものになる,という。しかも,地震はどうやら活動期に入ったらしい,という。太平洋プレートがこれだけ大きく動いたということは,その分,他の三つのプレートにも大きなひずみがきているのだから,そのひずみ分は,かならず,いつかは地震となって現れる。
 だから,日本列島は,まだ,40基もの原発が働いているのだから,これは「時限爆弾」をかかえているのと同じことだ,という。このことをまじめに考えれば,だれだって,原発を直ちに停止させ,廃炉にしなければならない,という結論にいたるだろう。なのに,相変わらず,全国の原発を停止させるという話にはならない。これはとても不思議なことだ,と広瀬隆はいう。
 のみならず,青森県の六ヶ所村には,すでに3000本の使用済み燃料棒が,大きなプールに保管されている,という。もし,大きな地震がきて,ここに電気系統のトラブルが発生したら・・・・,と考えるだけでもう恐怖で夜も眠れない,と広瀬隆はいう。
 ここからさきの話はもうやめよう。わたし自身が意気消沈してしまう。
 もはや,手の打ちようがないのだ。手詰まり状態で,あとは時間かせぎ・・・。ということは放射能はじゃじゃ漏れ状態にしながら,どこまで時間をかせぐことができるのか・・・。それをじっと見守っているのみ・・・。ただひたすら燃料棒の溶融を遅らせるための「放水」による冷却しかない,のだとしたら・・・。
 「神のみぞ知る」と,つい,うっかり口が滑ってしまった〇〇副大臣の発言は「本音」だったのだ,ということがよくわかる。第一,「臨界」ということばの意味を,東工大出身の首相が知らなかった,というのもなんとも情けないかぎり。なんで,こんな政権のときに,こんな事態が起きてしまうのか,それこそ「神のみぞ知る」ではないか。悔しいことに。

 原発問題については,これを最後に,このブログでは書かないこととする。
 なぜなら,奈落の底に向って突っ走る電車の話はしたくないからだ。
 その代わりに,奈落の底から這い上がるためにはどうしたらいいのか,そのためのロジックを考えてみたい。
 

2011年3月27日日曜日

原発は要らない。節電しよう。

 電気を使い過ぎてきたと思う。こんなにぜいたくに電気を使う必要はない,と今回の原発事故によって知った。ぜいたくを止めて,ふつうの暮しに戻ればいい。それだけで節電は十分にできる。そうすれば,原発は要らない。そういうライフ・スタイルを目指すことを提案したい。
 わたしの住む溝の口駅前に丸井があって,「3・11」以後,節電体制に入った。室内の明かりを通常の半分にしている。最初は暗いなぁと思った。わたしがいつも通り抜ける1階にはフード・コートがあって,食べ物屋さん(いわゆるファースト・フードばかり)が並び,中央の広い空間が共同の食事スペースになっている。ここも,最初は,暗いなぁ,と思った。しかし,毎日,ここを通り抜けているうちに,慣れてきた。いまでは,なんの違和感もない。これていいではないか,と思う。上のフロアーにも必要があって上がってみたが,いつもの明るさとは違い,たしかに暗い。しかし,なんの不自由もない。これでいいではないか,と思う。
 わたしはご縁があって,ドイツとオーストリアにはたびたび長く滞在した経験がある。そのときの経験を思い出す。ドイツもオーストリアも無駄遣いを徹底的に排除する生活習慣を身につけている国だ。最初に,住民登録に行った役所で驚いた。エスカレーターが止まっている。2階に用事があったから,歩いて登ればいいと思って接近したら,突然,動きはじめた。降りたら止まる。なるほど,と納得。その後,大学もそうだし,百貨店もそうだし,あちこち,エスカレーターは人が接近してこないかぎり止まっている。明かりもそうだ。役所も大学も百貨店も暗い(と,日本から行った当初は)思った。でも,必要なところ,たとえば,トイレは真っ暗だが接近するとセンサーが働いて電気がつく。地下鉄の駅も全体的に暗い。しかし,1週間もすれば慣れた。それが当たり前になる。この国の人たちは,長い間,これでやってきた。だから,これが当たり前。日本の明るさに慣れきってしまったわたしが,当初,驚いただけの話。それも,すぐに慣れてしまう。
 そのことを考えると,日本の夜の明るさはなんだろう。どこもかしこも明るい。まるで昼のようだ。これは,どう考えてみても,電気の無駄遣いだ。これに慣れてしまったから,暗くすると,なんとなく変な気になる。しかし,どうだろう。このところの節電で,われわれ日本人もだいぶ慣れてしまったのではないだろうか。これでなんの不自由もない。だとしたら,これからも,この明るさで行こうではないか。なんら困らない。
 これだけで相当に電力は節約できているはずである。
 つぎは,家庭内の電気の使い方を工夫すればいい。その方法はここでは問わない。電気代を去年の同時期よりも3割程度抑えることを目標に努力すればいい。企業も同じ。百貨店も同じ。どこもかしこも,みんな「3割減」を目標に努力すればいい。その目標を達成できたら,減税の対象とする,というような施策もあっていいだろう。
 要するに,これまで,わたしたち日本人は,ドイツやオーストリアの人びとに比べたら,じつに贅沢な暮らし方をしてきたということだ。それを,ごくふつうの生活にもどすだけの話だ。こんなことは気持ちひとつでできる。
 考えてみれば,わたしなどは,生活の電化の歴史を生きてきたようなものだ。パンを焼くトースターなるものが出現したのが,大学生になったとき。電気炊飯器を友人がプレゼントしてくれたのが,大学を卒業したとき。結婚したときに冷蔵庫を買った。テレビと洗濯機は子どもが小学生になってから。エアコンを入れたのは,50歳で大病したとき。それから,オーディオにパソコン,という具合だ。あっという間に,文明化の恩恵に浴し,その中にどっぷりと浸りこんで,生活している。そして,いつのまにかそれが当たり前になっている。しかし,贅沢には限度がある。あまりに贅沢に慣れてしまうと,人間は堕落する。
 このあたりで,人間の生活の基本について,根本から考え直すときではないか,と思う。原発にまで頼らなくては生活ができなくなっていた,その実態をこそ反省すべきだろう。まずは,節電生活からはじめよう。電気の無駄遣いを止めよう。ちょっと我慢するだけで,電化製品がなかったころの生活に比べれば,なんの苦労もなく生活できる。
 ことしの夏はエアコンなしで,どこまで耐えられるか,自己試練の年でもある。一度に全部,止めてしまうことはできないだろう。だから,「3割減」を目標に。
 こういう工夫を積み上げていけば,原発などはなくてもやっていける。
 その代わりにソーラー・システムをもっと普及させればいい。屋根の大部分は未使用のままだ。幸いにも日本は日照時間に恵まれている。これを利用しない手はない。放射能に汚染されることを考えれば,たやすいことだ。自己資本で投資して,余った電力は売れるのだ。長い目でみれば,元はとれる。
 とまあ,こんなことを考えるのだが,素人の浅はかなアイディアに過ぎないのだろうか。みなさんのご意見をお聞きしたいところ。 

2011年3月25日金曜日

「原発」を民間にまかせておいていいのか。国営にすべきでは?

 電気がなくてはわれわれは生きてはいけない,ということを今回の大災害をとおしてわたしたちはいやというほど知らしめられた。ふだんはまったく考えることもなく,当たり前のように思っていたが,そうではない。しかも,年々,無制限に電力消費が増えつづけている。だから,どうしても原発が必要だ,というところに行ってしまう。
 そろそろ,この悪循環を断ち切る覚悟が必要なのではないか,と思う。そのためには「欲望という名の電車」の運行を停止させなくてはならない。が,その議論も大事だが,その前に,まずは,原発を廃止することが前提条件であることは当然だ。とはいえ,いまある原発を,そんなに簡単に廃棄処分にするわけにもいかない。だとしたら,そこにいたるまでの間,原発は民間にまかせっ放しにしておいていいのだろうか。
 この問題について,少しばかり考えてみたい。
 福島に原発が全部で10基あると計算すると,全国には500基を超える原発がある,ということになる。それらは,いまも稼働していて,しかも,全部,民間に委ねたままである。今回のような事態を考えると,原発のような「時限爆弾」をかかえた,きわめて危険なものを民間に任せたままにしておいていいのだろうか,という疑問が湧いてくる。
 あれほど「安全」であるといわれてきた原発が,もろくもその根拠を失った。もはや,だれも原発の「安全」など信じはしない。それどころか「危険」そのものだ,ということがみごとに証明されてしまったのだ。だとしたら,つぎなる策を講ずる必要があろう。
 原発は,こんどのような事態にいたれば,東電などという一企業で対処できるものではない,ということも明らかになった。原発は,国の総力を結集して,ことに当たるしか方法はないのである。その意味で,いまや,日本は「戦争」に突入しているのである。相手は,恐るべき「nuclear power plant 」なる敵である。敵は,突然,宣戦布告もなしに襲いかかってきたのである(いまにして思えば,もう,原発建造の段階から宣戦布告されていた,というべきだろう。それに対して,あまりにも無防備にすぎたということだ)。こうなってしまった以上,屁理屈をいう以前に,国民の身の安全を確保することが最優先課題となる。すなわち,非常事態の出来である。なのに,政府も東電も,この対応の遅さはいったいどうしたことか。
 その間に事態はますます悪化の一途をたどってしまった。その最大の問題点は,「初動」の立ち遅れである。東電が事態の真相を政府に伝えなかった。むしろ,隠匿しようとした。だから,政府ものんびりと構え,アメリカからの原発鎮圧のための支援を断ってしまっている。だが,三日目になって「水素」が建屋内で爆発した。ことここにいたって,政府は慌てた。それから大急ぎで,東電と政府とが一体となった「統合対策本部」を設定した。ときすでに遅しである。
 以後は,「国防」の総力を結集して,手のつけられない相手と戦うことになった。
 一企業の発電装置が異常を起こした。それが自然災害であろうとも,その企業が全責任を負って善後策を講じなければならない。それでも,どうにも困った場合には,政府が救いの手をさしのべることもあろう。しかし,原発に関しては,もはや,なんともならないということがはっきりした。しかも,莫大な額になるであろう国民の税金を投入して,とにもかくにも「敵」に勝利しなくてはならないのである。
 だから,原発は,最初から,国家の管理下におくべきだったのだ。
 それを「安全」と騙って,その管理を民間に委ねた,当時の政治家と政府の責任が,いまごろになって露呈することになろうとは・・・・。
 ジャック・デリダは,かつて,「権力によって抑圧,隠蔽,排除されたものは,いつか,必ず亡霊となって現れる」と書いた。「原発は安全ではない」とからだを張って主張した高木仁三郎のことが想起される。多くの識者たちも,異を唱えた。しかし,民主主義という名の「暴力」のもとに,代議士の数の「暴力」のもとに,押し切られてしまった。
 この話は,また,別のテーマで考えてみることにしよう。
 この時点でいえることは,以下のとおり。
 いまある原発はすべて国家の管理下におくこと,そして,危機管理を徹底させること,であろう。
 もはや,原発の管理を一企業に委ねておくべきではない。危機管理ができないのだから。
 その上で,段階を追って原発を廃棄していくこと,ではないか。

2011年3月24日木曜日

これはもう「戦争」ではないのか。非常事態宣言をすべきでは・・・?

 死者,行方不明者を合わせて2万5千人を越えたという報道の前で,呆然自失してしまう。そして,いまも余震が絶え間なくつづき,それとは別個の大きな地震も起きている。いうなれば,4っつのプレートが一斉に活動をはじめたのではないか,という情況だ。そして,原発は相変わらず危機的な情況から脱出できてはいない。そこでは,自衛隊,消防士,警察官,そして,東電関連の作業員の人たちが,文字どおり命懸けで戦っている。
 これはもう,なんの疑いもない「戦争」ではないのか。だとしたら,早急に「非常事態」宣言をして,そのための体制を整備して,全国民に一致団結を呼びかけるべきではないのか。
 被災地にはまだまだ人の手も物資もとどかないところがあるという。その最大のネックになっているのが,原発事故による放射能汚染への懸念なのだ。これさえなければ,もっと迅速に救援活動もできたはずである。この原発事故の対応が,みるも無残な「後手,後手」である。
 まやかしの平和という「ぬるま湯」に浸りきっていて,みんな「ゆで蛙」になってしまった。もはや,そのぬるま湯から抜け出すことすらままならぬ状態に陥ってしまっている。それが,わたしたちの,いまの,現実の姿だ。情けないが認めるしかない。
 いま,必要なのは,この「ゆで蛙」状態から脱出することだ。平和ボケのぬるま湯から,一刻も早く飛び出すことだ。いまこそ,目覚めなくてはならないときなのだ。
 なのに,今日も朝から甲子園では高校野球をやっている。そして,プロ野球もなんとかして早く開幕をしようとしたが,こちらはストップがかかった。いまもなお,観測史上最大級の大災害や原発事故が起きていることを,まるで他人事のように,遠い太鼓の音くらいにしか聴こえていない(認識していない,自覚していない)人たちがいることに唖然としてしまう。まだまだ多くの人たちが「ゆで蛙」状態の中にいる。
 東京にも放射能汚染がやってきたことが,ようやく公開されるようになった。まずは,東京都の水道水が汚染されていることが明らかになった。乳幼児には危険な数値に達しているので,要注意とのこと。なにごとも,弱者から襲われていく。
 すでに被災地だけではなく,その周辺の地域,それも200㎞も離れた地域にまで放射能の汚染が広がりつつある,という。この事実に対して,まだ手を拱いている政府とはいったいなんなのか。信じられない,としか言いようがない。
 ライフ・ラインが復興どころか,手の施しようもなくつぎつぎに崩壊しつつある現実を,もっともっと重視すべきではないのか。
 もう一度,くり返す。
 これはもう立派な「戦争」ではないのか。だとしたら,早急に「非常事態」宣言をして,生活の根幹にかかわるすべてのことがらを国家の管理下に掌握しなくてはいけないのではないのか。そのための体制づくりを急ぐべきではないのか。そして,なによりもまずは,国民生活の安全確保のために最善をつくすべきではないか。もし,それができないのであれは,少なくとも,それに近い警告を発して,多くの人びとを「ゆで蛙」の惰眠から眼を覚まさせることが急務ではないのか。
 このブログでも書いた,わたしの事務所の近くの「焼き肉屋」さんは,いまも一軒だけ,煌々とネオンを輝かせて平気である。その並びにある大きなお寿司屋さんは,ネオンを消し,店内の灯も落として,ひっそりと営業をつづけている。そのあまりの違いに唖然としてしまう。こんなことが野放しのままである。それはいい意味での「ご協力」のお願いのレベルだから。しかし,そんな生ぬるい手を打っている段階ではないのではないか。
 それは,物資の買い占めと同じだ。まるで野放しのままだ。だから,節電の協力も,買い控えも無視し,自分さえよければいいという自己中心主義が,平気で大通りを歩いている。まだまだ,多くの人びとは,半分は「非常時」を意識しつつ,半分は「ゆで蛙」状態の,中途半端なところにいるように思う。なぜ,そんな状態のままでいるのか。いま,起きていることの危機意識が欠落しているからだ。どうしてか。精確な情報が流れていないからだ。まさに,わたしたちはいま,どこぞの国とまったく同じ「言論統制下」に置かれているのだ。だから,多くの人びとは「ゆで蛙」状態のままでいる。また,政府もそのような状態を意図的に維持しようと必死である。
 そんなことをしていては駄目だろう。いまは,全国民が一致団結して,復興に向けて全力投球をしなくてはならないときなのだ。このことを,もっともっと認知させるための情報をきめ細かく流すことだ。それは,どんなことがあろうと,不可欠であろう。にもかかわらず,それを怠り,人びとの善意にのみよりかかろうとしている。
 いまは,とにもかくにも,原発を鎮圧しないことには,その後の展開はまるで違ってしまう。その結果しだいによっては,天国と地獄の差となることはだれの眼にも明らかなはずだ。だからこそ,いま,その最前線では,文字どおりの命懸けの「戦闘」が展開されているのだ。敵は,いつ「大爆発」を起こすかわからない,とてつもなく強力なアトムで武装した,恐るべき武器をもっている。それに対して,われらはなんと「素手」で立ち向かうしかないのだ。精々のところが「海水」がわれらの武器だ。そんなみじめなところで「戦闘」を強いられている人びとの身にもなってみよ,と声を大にして言いたい。
 しかも,いつの時代も「戦争」に駆り出されるのはきまって「若者」たちである。しかも,その人たちに命令をしているのは,前線から遠く離れた安全地帯にいる「年寄」たちである。
 この最前線に立ち向かっている「若者」たちの恐怖を,わたしたちもまた分けもつ,そういう覚悟が求められている,と考えるのだが・・・・。そのためには,現状を「非常事態」としてしっかりと認識し,「戦闘」態勢のなかにすべての人が組み込まれていくこと,それでなければ,あまりに不公平ではないか。
 みなさんは,どのようにお考えだろう。ご意見などお聞かせくだされば幸いである。

2011年3月23日水曜日

太極拳の稽古のあとのハヤシライス。

 「3・11」以後,初の太極拳の稽古を今日(23日)から再開。全員出席すれば6名なのだが,やはり,震災がらみで2名は欠席。まだまだきびしい情況はつづいている。
 先週の16日は,交通機関が乱れているという理由で中止にしたので,今週は2週間ぶりの稽古。からだはすぐに鈍ってしまっているので,稽古の後半は相当に脚に負担がかかる。それでも(だからこそ),うっすらと汗もかいて,気分も爽快。やはり稽古をやってよかったと思う。そして,なによりも,久しぶりにみんなの笑顔に接することができて,元気をもらう。
 稽古の中心は,もっぱら股関節をゆるめながらの腰の回転と体重移動,それに同調させる腕と脚の動きと目線の運び方,それに呼吸を合わせること。これらの動作を同時にゆったりと同調させることは容易なことではない。それらの軸は,すべて,脚力による安定にかかっている。ほんとうに太極拳は奥が深い。動作はきわめてかんたんなのに,その一つひとつを完璧にコントロールして味をだすことは,きわめて難しい。しかし,それがわかりはじめると,これまた堪らない。まるで坐禅をしているような気分になることがある。つまり,自分の理解のレベルでの稽古しかできない,ということ。すなわち,修証一等。だから,太極拳の奥義をきわめるためには道家思想(道教)をわがものとすることが不可欠となる。
 一汗かいたら,稽古のあとのハヤシライス。話題はもっぱら「3・11」以後のこと。これを全部紹介することはできないので,いくつかの断片を箇条書きにしておく。
 ・慣れるということは恐ろしいことだ。非日常が日常となる。
 ・人間には素晴らしい能力が備わっているのだ。自己を超えていく能力が。
 ・放射能汚染に慣れることは御免蒙りたいが,あちこち節電して暗くなることに慣れるのは大いに歓迎したい。
 ・東京電力のとった「初動」の判断ミスは許しがたい。責任重大だ。
 ・原発のような危険な事業を民間にまかせておくのは間違いだ。国の責任において管理すべきではないか。最終的には税金が投入されることになるのだから。
 ・フランスの原発事情について。
 ・原発作業員の実情。
 ・おすもうさんは,江戸時代の大火事災害復興のための勧進相撲の精神に立ち返って,ちゃんこの「焚き出し」を。
 ・5月場所は「チャリティ」として開催を。
 ・甲子園野球開催を決めた高野連とそれを認めた文部科学省の頭の狂い方。
 ・プロ野球の選手も,まずは,災害復興のために汗を流してから。
 ・その他,もろもろは割愛。
 久しぶりなので話題はつきない。が,ほどほどに終わらせて,来週の再会を期して,解散。
 一週間後には,いくらかでも明るい展望か開かれていればいいのだが・・・・。
 いつものように,鷺沼の事務所にきて,その後の災害情報に関するニュースが聴きたくてラジオをつけたら,甲子園野球の実況中継をやっていた。この無神経さ。この神奈川県ですら,計画停電と電車の間引き運転が実施され,あちこちの電気を消して節電につとめているというのに・・・。人びとはどこに行ってしまったかと思うほど,街行く人はまばら。放射能汚染を避けて,ひっそりと家の中に閉じこもっているというのに・・・・。街のネオンは消え,スーパー・マーケットもガソリン・スタンドも駅舎もみんな照明を落として節電につとめているというのに・・・・。NHKのこの無神経さ。
 この大災害を契機にして,みんなが「正気」をとりもどす絶好のチャンスだと思っていたら,とんでもない。この「正気」をぶちこわしにかかっているのだから。しかも,「教育」という名において。怒り心頭に発して,しばし,仕事も手につかず・・・・。

2011年3月22日火曜日

「避難」生活から一週間ぶりに自宅にもどる。

 停電と電車の間引き運転を避けて,愛知県に住む弟の家に「避難」していた。16日(水)の太極拳の稽古がお休みになったので(電車の間引き運転のため),大急ぎで避難を決意した。
 いつもは,自宅と事務所を往復しながら,自宅の仕事と事務所の仕事を分けて暮らしていた。原稿を書く仕事は事務所,その他の雑用は自宅,という具合に。そうしていたら,いつのまにか重要な資料はほとんど事務所に移動している。だから,原稿を書くには事務所に行かなくてはならない。その足がこれまた不安定。もうひとつは停電。
 折しも,20日締め切りの原稿が2本。「3・11」以後,気もそぞろになっていて,原稿が書けない。書きかけるのだが,集中力が持続しない。細切れ的なアイディアばかりが増えつづけるだけで,文章にはならない。困りはてていた。そこで,ここは「避難」することによって,気持ちを落ち着けるしか方法はないか,と考える。切羽詰まった決断である。そこでとっさに弟に電話をして,行動を起こす。で,結果的には,これが効を奏した。
 2本の原稿のうち1本は短いものだったので,すぐに片づけ,もうひとつの原稿に取り組む。停電に怯えることなく,眠くなったら眠り,目が覚めたら原稿を書く,という態勢に持ち込めたのがよかった。不安解消はなによりの妙薬だった。それでもぎりぎりまで「ながれ」がみえてこない。何回も,書き出すの部分(ここが命綱)を書き直す。問題の設定の仕方が悪いと,書いている途中から「ねじれ」がはじまり,どんどん苦しくなってくる。その逆に,最初の書き出しが的中すれば,あとは放っておいてもどんどん「流れて」いく。そこに到達するまでが,いつも苦労するところだ。今回も,同じように手間取る。
 あるとき,目覚めた瞬間に,書き出しの文章が浮かんでくる。それっ,というわけで急いでパソコンに向かい書きはじめる。それが,なんと19日の早朝。でも,道筋はみえているので気持ちを落ち着けて書く。とりあえず,乱暴に所定の枚数(24枚・400字)まで書き終える。これでほっとする。あとは推敲をするだけだ。
 でも,20日(日)は,「ISC・21」の3月大阪例会で,わたしはプレゼンテーションをやることになっている。で,仕方がないので,この書き上げたばかりの,推敲前の文章を読み上げて,みんなの意見を聞きながら,推敲のポイントをいくつか確認する。とてもいい意見や指摘が得られたので,わたしとしてはとても助かった。あと,1時間もあれば推敲はできる。でも,夜は懇親会。これはなんとしても顔を出したい。しかも,一旦,アルコールが入ってしまえば,原稿に手をつけることなどできない。かえって危ない。とうとう,夜中に,明日の昼までに推敲して原稿を送信します,と編集担当者にメールで懇願。それで安心したのか,おしゃべりに夢中。気がついたら夜中の3時近い。
 大急ぎで眠って,朝風呂に入って,すっきりしたところで推敲にとりかかる。これが意外に時間がかかり,午前11時近くに完成。でも,かなり集中できたので,自分としてはまずまずの満足。いそいで,編集担当者宛てに送信。パソコンはありがたいものだ。持ち歩いていれば,どこにいても仕事はできる。
 こうして避難生活の目的を無事にクリア。難産ではあったが・・・。
 22日の午前中に,お墓参りに行く。お彼岸の翌日だったので,お墓の花は,どこの墓も新しいもので飾られ,いつもとはまったく違う華やかな雰囲気。思っていたよりは日本人から宗教心が失われてはいない,と実感。両親のお墓と祖父(17世),そして大叔父(18世)の墓をまわり,般若心経を唱える。
 夕刻,新横浜駅にたどりつく。新幹線の「こだま」はがら空き。昨日は,大混雑だったが。
 プラットフォームから下に降りてきたら,どこかいつもと雰囲気が違う。すぐに気づいたが,照明が落してある。だから,薄暗い。地下鉄乗場に降りたら,さらに,薄暗い。明るさに慣れきってしまった現代人であるはずのわたしのからだの奥底にある古い記憶が蘇ってくる。
 その記憶は二つある。ひとつは,第二次世界大戦の末期のころの夜である。戦時体制下での灯火管制が行われていた。夜は,どこの家も電灯を最小限にして,暗くし,息を潜めて暮らしていた。そして,空襲警報が発令されると,真夜中でも,手さぐりで防空壕の中に逃げ込む。ここはさらに真っ暗だ。それでも,このときは,家の中で寝泊まりをしていた。
 もうひとつは,三河の大地震のあとの一カ月ほどの避難生活。三河の大地震は,当時の「大本営」は発表しなかったので,戦後になってから,その実態が少しずつ明らかにされたという経緯がある。わたしが国民学校(小学校をこのように呼んでいた)の1年生のときの12月8日。開戦記念日ということで学校はお休みだった。その実態は,大空襲があるという情報にもとづく「休校」措置だった。近所の子どもたちと一緒に路地で遊んでいた。そこに,とんでもない激震である。最初はなにが起きたのかもわからない。ばたっと前に倒れて,四つんばいになっている。そばにいた友だちもみんな四つんばいになっている。そのうちに,四つんばいにもなっていられず,路地の上をころがっている。みんな同じようにころがっている。まだ,なにが起きているのかわからない。少し離れたところにいた次兄が「地震だっ!」と大きな声を発した。そちらに目をやると,次兄は,小さな雌竹の藪にしがみついている。ころころ転がりながら,あちこちに目を向けてみる。防火用水の水が,撥ね上げられるように飛び出している。かなり長い間,揺れていたように記憶する。
 大変だったのは,その後の余震だった。木造2階建ての借家に住んでいたが,危険だというので,雨戸をはずして空き地に囲みをつくり,屋根代わりに「むしろ」をかけて,その中に潜り込むようにして夜を過ごした。真っ暗闇である。しかも,ひっきりなしに揺れている。しかも,けして小さくはない。その上に,寒い。とにかく寒くて震えていた。ほとんど眠ってはいなかったのではないか。なぜなら,昼は日向ぼっこをしながら居眠っていたからだ。
 新横浜の駅から溝の口の駅まで,みんな照明を落していたので(しかも,小雨の降る,どんよりとした空模様だったので),どこもかしこも暗い。そして,溝の口から自宅のあるマンションまでの間に丸井がある。その中を通過していくのが近道なので,丸井に向かう。今日は休業なのかな,と思うほどにそとの照明がほとんど消えている。近づいてみると中に人影がみえる。いつもの抜け道を通る。店のなかの照明も必要最小限に抑えている。
 一週間ぶりに自宅にたどりつく。計画停電は午後6時20分から11時までの間の3時間,とある。いよいよ夜も停電になるのか,と覚悟を決める。その前に夕食を済ませ,いつ停電がきてもいいように食後の一休みとばかりに仮眠をとる。午後9時ころ目覚めてみると電気が点いている。どうやら停電はなかったようだ。が,それにしても,昼の停電ならともかくも,夜の停電はおおいに生活のリズムが狂わせられる。これからさきが思いやられる。
 でも,被災地で難を逃れて避難生活をしている人たちのことを考えるとぜいたくは言ってはいられない。明日からは,不自由な避難生活をつづけている人たちに思いを馳せながら,みずからの生活を律していかなくては・・・としみじみと思う。
 明日は太極拳の稽古日。久しぶりにみんなに会える。このことが無性に嬉しい。先週は交通機関の関係でお休みしたので,なおさらである。みんな,どんな顔をしているだろうか。

 

2011年3月21日月曜日

原発,危機を乗り越えるか,正念場。

 今回の大地震も大津波も想定外,原発の事故も想定外。そして,原発の暴走も想定外。あれもこれもみんな想定外。そこで,とうとう制御不能となった原発の暴走をなんとかしてくい止めようと,「散水」「放水」に取り組む。「今日が限度」だ,と防衛大臣。これもまた想定外。
 なんとまあ,想定外の多いことか。だれひとりとして「わたしの責任です」という人が現れない。みんな責任逃れに懸命だ。そのいいわけが「想定外」。なんと情けない人たちばかりなのだろうか・・・・ということが透けてみえてくる。日本の危機管理はいったいどうなっているのか。ますます不安になってくる。
 その一方で,この決死の「散水」「放水」に取り組んでくれている人びとがいる。そして,その人びとの努力が報われたか,いくらか原発の状態がよくなってきている,との報道。こうなると一気に期待がふくらんでくる。なんとか危機を脱出してくれ,と。日本中が,いや,世界中が祈っている。最先端科学技術の暴走をくい止めるものは,決死の覚悟をして行動する人の力だ。そして,それをじっと見守りながら息をひそめて祈る人たち。こんな現実がみえてくる。
 原発の計器類の修理をし,通電して,自動装置がうまく機能してくれるのだろうか。そこが,最後の生命線。そこをクリアできれば,ようやく,廃炉への道が開けてこようというもの。完全に廃炉にいたるのは,まだまだ時間がかかる。が,なにがなんでも無事に廃炉に到達してほしい。犠牲者を最小限にくい止めつつ。
 その間にも,復興作業は着々と進む。こちらも不眠不休の労力が費やされている。それに触発されて多くの人びとが元気をとりもどし,一致団結に向う。こちらは「情」の世界。理屈を超えて,忍耐と協力が要請される。

 いまも拭いきれないのは,放射能に関する情報がきわめて少ないことだ。もう,10日を経過しているのだから,各地の放射能の測定値を公表してほしいものだ。これを公表するとパニックに陥る,と主張する人たちがいる。しかし,いつまでも公表されないでいることの不安も,じわじわと浸透しつつある。こちらの方も限界に近くなってきている。たしかに,情報開示はむつかしい問題がいろいろとあることはわかる。しかし,パニックに陥ることのないように,基本的な情報を開示する方法はあるのではないか。
 すべてを「想定外」のひとことで言い逃れをしている人たちの無責任さが,日に日に露呈しつつあるいまだからこそ,その不信感を払拭するためにも,情報開示に向けて,もっとまじめな対応をお願いしたいものである。

2011年3月18日金曜日

炉心と使用済み核燃料の温度を下げることに懸命。

 放射能被爆との闘いがはじまった。文字どおり命懸けだ。こういう危険な作業に身を挺して取り組んでくれる人たちにこころから敬意を表したい。
 それにつけても,どこか手順がちぐはぐにみえて仕方がないのは,わたしの思い過ごしだろうか。  
 ヘリコプターで水を撒いたり,放水車で放水したり,というような方法を,なぜ,もっと早い段階でとることはできなかったのだろうか,と。放射能の数値がまだ低い段階でこの方法を採用すれば,もっと作業は円滑に進んだだろうに,と。危険も少なかっただろうに・・・,とつぎからつぎへと疑問が湧いてくる。
 北沢防衛大臣は「今日が限度だと思って決断した」と昨日の段階で見解を表明した。なぜ,「限度」まで待たなくてはならなかったのか。もっと早い段階で,つぎからつぎへと手を打っていくべきではないのか。危険に対する感覚が,どこか「にぶい」のではないか,とこの数日,考えつづけている。それは,東電にしてもそうだし,保安院にしてもそうだし,ましてや,政府執行部にいたってはもうどうしようもない,という印象だ。精確な情報が入ったら,すぐに,つぎの手を打つべく「決断」していかなくてはならないのではないか。その「決断」をする人が,どの機関にも欠落しているように,わたしにはみえてくる。こういう非常事態にこそ,すばやい判断と行動が求められる。にもかかわらず,それがみられない。
 今日になって,驚くべき情報が流れている。地震発生直後に,福島原発の異常を知ったアメリカ政府はただちに,原発を鎮圧するための資材の提供とその道の専門家の派遣を日本政府に申し入れた,という。これを,なんと,日本政府は断った,というのである。その理由は,アメリカ政府の提案は,原発を廃棄することを前提にした鎮圧の方法だったからだ,という。日本政府も東電も,原発を廃棄にすることなく鎮圧することを考えていた,というのである。この「のほほん」ぶりに,わたしは呆れ果ててしまった。一度,トラブルの起きた原発を,しかも,「想定外」の大地震に揺すられて異常をきたした原発を,修理して再利用するという発想がわたしには理解できない。なんといったって原発なのだ。いってみれば,つねに時限爆弾を抱え込んでいるようなものだ。一旦急を告げれば,どんな事態を引き起こすかは火をみるより明らかだ。今回の場合に,なによりも優先されなければならないことは,安全の確保だ。それを,通常の自然発生的な機械のトラブルを修理する感覚で,再利用を最優先させた,というこの「のほほん」ぶりが,わたしには理解できない。
 まるで「ゆで蛙」ではないか。蛙は,熱い湯に入れられれば,ただちに飛びだして逃げる。しかし,水の中にいれておいて,ゆっくりと温めていくと逃げ出す感覚を失う,という。わたしたちは,ぬるま湯の平和や安全に浸りすぎて,危機に対する感覚が麻痺してしまった,というわけだ。われわれ庶民が「ゆで蛙」になるのは仕方がないとしても,組織や機関の「長」たる者までもがそれでは困る。そういう「ゆで蛙」ではないか,と思われる責任者がテレビにもたくさん登場してきて,わたしは呆れ果てている。こんな人たちに日本の危機管理をまかせておいていいのだろうか,と。とりわけ,日本政府の後手,後手にまわる対応をみていてそう思う。困ったものだ。
 でも,そんなことも言ってられない。とにかく,炉心の温度と使用済み核燃料の温度を下げることが当面の課題だ。そして,時間をかせいで,東北電力からの電気を接続して,自動化している機器が作動してくれることを期待するのみだ。それが駄目だった場合の対応はできているのだろうか。最後の最後といわれる手段や方法を,二の手,三の手といまから打っておかなくてはならないことは素人でもわかる。そういう手順もみえてはこない。
 初動のときのアメリカ政府の申し入れを,なぜ,受け入れておかなかったのか。そして,いくつもの選択肢の一つとして,なぜ,スタンバイしておかなかったのか。すぐに,アメリカの方法を用いるかどうかはともかくとして,いつでも踏み切れるカードの一つとしてキープしておくべきではなかったのか。
 このことは,わたしたち自身にもいえることだ。ふだんから危機に関する備えを,少なくとも,自分用のマニュアルくらいは作成しておいた方がいい。いまになって,痛切にそう思う。今回の原発への政府の対応をみていて,大きな教訓をえた思いだ。
 それにしても,いま,必死で,身を挺して原発と向き合ってくれている人びとにはこころから感謝したいと思う。それに引き換え,ヘッドの「ゆで蛙」ぶりには呆れてしまう。この落差,なんとかならないものか,とまたまたテレビに向って吼えている。

2011年3月17日木曜日

精確な情報の開示を,そして,第二のチェルノブイリに至らないよう祈るのみ。

 中日新聞の夕刊(3月16日)には,「レベル6」であるとアメリカの専門家が語っている,という記事がかなり大きく報道された。たぶん,東京新聞にも掲載されたことだろう。
 このアメリカの専門家の発言は,すでに,インターネット上では15日の午後には映像とともに流れていた。それとほとんど同じタイミングで,IAEA(国際原子力機関)の事務局長が「チェルノブイリ以下,スリーマイル島以上」(つまり「レベル6」であるということ)という「現段階での認識」である,ということを記者会見で明らかにしている(詳しくは昨日のブログで触れたとおり)。にもかかわらず,新聞各社はこれをとりあげてはいなかった。もちろん,NHKは一切,この情報には触れていない。しかも,NHKは,某東大教授の口を借りて,「今回の事故はチェルノブイリとはまったく異質のケースである」「そういう心配は無用である」とまで言わせている。この某東大教授が,IAEAの事務局長の発言を知らないはずはない。にもかかわらず,平然と上記のように発言している。
 国際社会は,このIAEAの事務局長の公式発言を軸にして,いろいろの判断や行動を起こしている。だから,外国にいるわたしの友人たちからも,遠く離れろ,というメールがとどく。しかし,国内の新聞もテレビも,このこととはまったく逆のことを言っている。この落差には驚くほかはない。つまり,日本という国家もまた,このような非常事態が起きると明らかに「情報統制」をおこなっている,ということだ。もちろん,その背景には,「混乱を防ぐため」という配慮があることは承知している。しかし,IAEAの認識・判断まで秘匿して,まったく別の認識・判断を提示しつづける,この姿勢には疑問を感じないではいられない。
 こうした流れを見越したかのように,アメリカの政府高官は「日本政府のとっている姿勢を支持する」と発言し,しかも「多くのことを学ばせてもらっている」とまで述べている。そして,この発言については日本の新聞にも大きく報道されている(昨日,夕刊)。しかし,よくよく考えてみれば,「多くのことを学ばせてもらっている」という発言にはいろいろの含みがあるようだ。このことの解釈は,ここではひとまず棚上げにしておく。いずれまた。
 情報が乱れ飛ぶことによる混乱はどんなことがあっても避けなければならない,このことは充分に承知しているつもりである。しかし,都合の悪い情報を秘匿して,楽観的な情報だけを垂れ流しにすることもまた,避けなければならないだろう。少なくとも,IAEAの認識・判断と矛盾しない程度の情報はきちんと開示して,その上でいまとるべき行動はなにか,と国民に提示すべきではないか。もうすでに,政府や東電や保安院の記者会見での発言に不信の念をいだく人は日に日に増えている。その結果,多くの国民が疑心暗鬼になっている。このことの方がどれほど恐ろしいことか。この不信が蔓延してしまうと,もはや,あらゆるコントロールが効かなくなってしまうからだ。これこそが,どんなことがあっても回避しなければならない最悪の事態ではないか。

 一夜明けて,今朝になってネットを流れている外国の情報について少しだけ抜粋。
 ドイツ:成田行き航空機の運行を一時停止。
 イギリス:東京および東京以北に住むイギリス人に対し,そこから退避するよう勧告。インフラ混乱の予想も含めて。
 アメリカ:東北地方に在住のアメリカ人に対して,福島原発から80㎞以上のところに退避するよう勧告。
 ロシア:日本からの渡航者・輸入品に放射能検査を実施。
 海外メディア:一部,撤退。
 プロ野球横浜のアメリカ人選手,一時,帰国。など。
 IAEA事務局長:日本政府の情報開示に苦言。

 こうした情報の混乱する中でも,必死で,原発の大爆発だけは回避しようと,それこそ決死の覚悟で取り組んでくれている人たちがいる。とりわけ,もっとも危険な最先端での業務に従事しているくれている人たちにはほんとうに頭が下がる。こういう人たちがいてくれるお蔭で,わたしたちがその恩恵に浴することができるのだ,ということを夢忘るることなかれ。
 とにもかくにも,原発の大爆発だけは回避しなければならない。そして,第二のチェルノブイリに至らないことを,これは全世界の願いでもあるだろう。制御不能となってしまった原発が,なんとしてでも無事に収束してくれるよう,ひたすら祈るのみである。
 科学には限界がある。その限界を越えたさきにあるもの,それは「祈り」しかないのだ。最後には,人間は祈りに救いを求めるしか方法はないのだ。このこともまた,今回の巨大な災害が教えてくれた貴重な教訓である。 

2011年3月16日水曜日

チェルノブイリ以下,スリーマイル島以上の福島原発の現状とは?

 いまも福島原発は異常な状態がつづいている。しかも,改善のきざしはみえてこない。ますます悪化しているとしかいいようのない状態だ。
 あらゆる方法で,福島原発の実情を把握しようとするのだが,いかんせん,素人の限界を感ずるのみ。情けないが事実だ。でも,ようやくわかってきたことは,やはり,きわめて危険な状態にある,ということだ。
 その根拠は,IAEAの事務局長矢野之弥氏の記者会見で述べている内容だ。情報通の友人に確認したところでは,IAEAには,加盟国は放射能に関するあらゆる事実を報告する義務がある,とのこと。だから,日本国内に流すことのできない情報も,IAEAには報告されているはずだ,というのである。で,そこでの矢野事務局長の発言は「チェルノブイリのレベル7よりは下,スリーマイル島のレベル5よりは上」だという内容。レベル7もレベル5も,素人のわたしにはわからない。ただ,わかることはその被害の大きさだけだ。そこから判断すると,福島原発はレベル6,というのが現段階でのIAEAの評定である,ということ。しかも,これは「現段階」までの情報を分析するかぎり,という条件つきのものだ。最悪の場合には,チェルノブイリ並みの大爆発も視野に入れておかなくてはならない,ということでもある。しかも,すでに,スリーマイル島よりは「上」の水準に達している,ということは厳然たる事実として確認されているということでもある。
 このIAEAの分析とほとんど同じ見解をとっているのが,アメリカの某専門家(インターネットの映像で確認したが,名前を記録するのを忘れた)である。で,少しだけ気になったのは,この専門家は,現状ではレベル6で収束する可能性が高いと考えるが,ひょっとするとレベル7になるかもしれない,と含みを残したことだ。アメリカの学者だから,ほんとうのことを述べている,と考えるとこの発言の意味は重い。日本の学者さんのように,ときの権力に自発的に隷従するような,余分な配慮はしていないと考えるからだ。
 チェルノブイリとスリーマイル島の事故は,原発事故としては世界の「二大事故」と認識されている。その間に割って入るようにして,いま,福島原発は推移している。現状で収束したとしても,これからはフクシマを含めて「三大事故」と呼ばれるようになることは間違いない。
 とまあ,ここまで考えてきたときに,やはり,今回の福島原発の事故はただごとではない,ということが明らかになってくる。少なくとも,昨日の夕刻までのわたしの認識では,ちょっとした不具合が福島原発で起きているなぁ,それにしてはなかなか復旧しないなぁ,なにをやってるのだろう,という程度のものだった。が,いつものNさんから電話をもらって,しばらくお話をうかがっているうちに,いけない,これは自分できちんと情報を確認しないといけない,と初めて目が覚めた。
 その結果,国内向けの情報開示と,IAEAに報告している情報との間にある,あまりの格差の大きさに驚くほかはなかった。現段階でのIAEAの判定は「レベル6」。この数字がなにを意味しているのか,日本のメディアは,もっとわかりやすく説明する必要があろう。もし,このレベルで収束するとしたら,ということは「レベル7で爆発するとしたら」,いったい,どういうことが想定できるのか,わたしはそこが知りたい。そして,もし,チェルノブイリと同じ「レベル7の爆発」が起きるとしたら,福島の場合には,どのような状態が想定できるのか,そこが知りたい。そういうことが視野のうちに入ってくれば,つぎなる行動のとり方もはっきりしてくる。
 ドイツの友人は,明らかに,チェルノブイリと同じことが起きている,と指摘してきた。しかも,早い段階で。ということは,ドイツのテレビや新聞では,早々にそのような判断をくだしていた,ということだ。だから,ドイツでもスイスでも,日本からの難民受け入れの態勢を整えている,とまで言ってきたのだ。フランスでも,早々に,日本への渡航禁止を政府決定した,という。それほどに危険な状態に入っているという認識なのだ。知らないのは日本人であるわたしたちだけだ。
 わたしの思考のスイッチを,もう一度切り換えて,危機意識のレベルを上げなくてはならない,といましみじみと考えている。Nさんの仰るとおり,今回のできごとは戦争と同じだ。いつ,どこから敵が現れるかわからない,未知の世界に踏み込んでしまっているのだ。だから,なにが起きても不思議はない。ということは,つねに,最悪の事態を想定して,行動する以外には方法はない。
 小学校2年生で敗戦を経験したわたしのからだには,第二次世界大戦中の,恐ろしい体験・記憶がトラウマのように埋め込まれている。そういうものが,意味不明のまま,からだの中で蠢きはじめている。そして,これまでのぬるま湯に浸っていたからだとはまったく異なる別のからだに移行しはじめている。それはなにを隠そう,理性もまだ十分にははたらかない未熟な,あるいは,動物性に近い「からだ」への蘇りだ。
 「レベル6」をめぐって,わたしのからだの記憶の古層が騒ぎはじめている。こころを鎮めて,しばらくは,このからだの声に耳を傾けてみようと思う。

原発はいよいよ深刻な事態を迎えつつあるのか。

 今日になって,ますます深刻な情報がつぎつぎと入ってくる。原発の最前線で行われていることは,ひたすら爆発を遅らせることだけであって,それ以上の手立てはなにもないらしい。
 わたしたちが日本のメディアをとおして得ている情報は,完全にコントロールされていて,当たり障りのない無難な情報でしかない。だから,なんとなく大丈夫らしい,という錯覚を起こしている。しかし,外国のメディアに流れている情報は,ほとんどなんのコントロールもされていない生のものだ。そのうちのいくつかを開いてみたら,それはそれは恐ろしくて眼を覆いたくなるような映像が飛び出してくるではないか。
 ドイツの友人が呼びかけているのもなるほどとうなづける。一昨日の段階で,すでに,ドイツでもスイスでもいい,受け入れ態勢はできているからすぐに国外に脱出せよ,というのである。もし駄目なら,できるだけ遠く離れろ。まずは,東京から西へ西へと向かえ。そして,できることならさらに南へ。いっそのこと思い切って沖縄まで飛べ,と。この友人は,日本に長く滞在していたことがあり,日本人の女性と結婚したので,日本の地理にも明るい。
 かといって国外脱出するほどの危機感がないのはなぜだろう。わたしの身辺からはそんな話題ももちあがらないからなのか。無知だからなのか。それとも老化現象なのか。いずれにしても,どこか他人事にみえるのである。差し迫った現実感がまったくない。まるで絵空事である。この浮遊感はいったいなんなのだろうか。
 いま,中国に住んでいる友人(日本人)からも,大変な事態を迎えているようだが,大丈夫かと心配のメールがとどく。かれの言うには,日本列島には500基もの原発があることを中国のテレビで知った。アメリカでさえあの広い国土に1000基だから,それに比べたら日本の原発の数は多すぎる,と知った,という。日本にいるときにはなにも考えたことがなかったが,少し距離をもって眺めてみると,その異常さがよくわかる,というのである。じつは,わたしもこんな数字は初めて知った。いつのまに500基もの原発を建造したのだろうか。
 それにしても,地震列島として知られる日本に,なぜ,原発を建造しなくてはならなかったのか。いまさらながら,不思議ですらある。四つものプレートがぶつかり合っていて,エネルギーが蓄積されれば,かならず大地震がやってくる。そんなことはだれでも知っていることではないか。なのに,なにを基準にして「安全」と説得したのだろうか。そして,説得されてしまったのだろうか。当時の政治家の意図するところはなんだったのか。
 かつて,わたしも住んだことのあるオーストリア(ウィーン)では,原発を建造して,いざ,稼働させるという段階になって,最終的な意志決定のために住民投票を行った。その結果,稼働反対が多数を占めたために,一度も発電することなく封印されてしまった。いまになって思えば,賢明な選択であった。しかも,オーストリアは日本に比べたら,ほとんど地震などというものはないに等しい。それでも原発の危険性を重視し,排除する方向に国民の意志は働いたのである。
 今回の福島の原発は,500基のうちのたった10基にすぎない。この10基は,かりに爆発することなく無事に鎮圧することができたとしても,廃棄処分となることは間違いないだろう。では,残りの490基はどうするのか。
 原発は安全だ,というアピールのためのコマーシャルに出演していた俳優さんやタレントさんは,いまごろどんな気持ちでいるのだろうか。
 それにつけても,どうか,福島の原発が大爆発にいたることなく,なんとか無事に収まってほしいものである。いまは,ひたすら祈るしかない,というのが歯痒い。
 そして,天を仰ぎながら,西からの季節風に乗って,海側に放射能が飛んでいってくれないか,とこれまた祈るのみだ。
 この「祈る」こころから,わたしたちはあまりに疎遠になってしまった。そのこころを,いま一度,取り戻せと神の意思が働いているのだろうか。

2011年3月15日火曜日

制御不能の原発のなりゆきが恐ろしい。

 原発についてのきちんとした知識がないので,ますます不安になるのかもしれない。人間が直接,手動で制御できない原発というものはいったいなにものなのか。コンピューターや自動制御装置に頼りすぎてしまって,もはや,人間の手のほどこしようもないものなのかも・・・・。考えてみれば,そういう文明の利器(?)に取り囲まれていて,わたしたちは,いつのまにか機械の奴隷と化している。機械の操作を間違えると機械に叱られる。そういう時代の真っ只中にいる。
 もう,ずいぶんむかしの話。わたしが自動車に乗りはじめたころ(1965年ころ・東京オリンピックの翌年)は,自分でかなりの部分をいじることができた。また,いじれるように教習所で自動車のメカも教えてくれた。カーボンの掃除の仕方とか,エンジン・オイルの汚れの見方とか,バッテリーが上がってしまったら,クランクを差し込んでエンジンをかけるとか,いろいろのことを教えてもらった。で,それはとても役に立ったし,車をいじる喜びや愛着があった。が,新車に乗り換えたころから(1970年ころ),エンジンまわりの自動制御装置が複雑になってしまって,自動車の修理工場でも,直接,手を加えて調整するということができなくなり,不調になった部品をそっくり取り替えるだけの仕事になってしまった,と修理を得意としていた従業員の人は嘆いていた。メカに対して手も足も出せないのだ,と。
 それと同じことが,もちろん,もっともっと進化した高度なテクノロジーが自動化されてしまって,もはや,人間の手出しできないところにまで,いまの原発はきてしまっているのではないか,と想像している。最先端の科学技術は,いったん,トラブルが起きるともうどうしようもない。自動に頼りすぎてしまって,手動のでる幕をなくしてしまったのか,と。

 3号機の爆発は,世界中の人びとが息を潜めて注目しているようだ。ドイツの友人からは,早速,チェルノブイリと同じことが起きているのでは・・?と問いかけ,すぐに,ドイツでもスイスでも逃げてこい,受け入れ態勢はできている,と。ありがたいような,でも困った提案である。仕方がないので,この段階で逃げ出すなどということは日本人としてできない,やれるだけの努力をしてみて,どうしても駄目なら,そのときは逃げ出すことになるかもしれない。それまでは,ここで頑張る,と返信しておいた。
 つづいてスペインのバスク人から。こちらは,とても冷静に,十分に気をつけてください。無事でいられることを祈っています,という趣旨のもの。
 つぎは,中国から。この人は日本語が堪能な人なので,日本語で書いてきた。それもみごとな日本語で。ふつうの日本の大学生よりもはるかに美しい日本語で。とにかく,健康・安全第一に,と気づかってくれている。
 今日になって,3人の外国の友人からお見舞いメールがとどいた。それほどに,地震のすさまじさもさることながら,原発事故についてはとりわけ敏感に反応していることが伝わってくる。

 ひるがえって考えてみれば,原発建造が国会で議論されたときに,あれほどしつこく安全性は大丈夫かと念をおしたのに対し,あらゆる事態を想定して建造するので安全は保障される,と答えていた大臣や,それを推進した総理大臣の顔が浮かんでくる。もちろん,自民党の全盛時代の話だ。東京電力の専門家も同じように答弁していたし,原子力の専門家もまた同様の答弁を繰り返していく。その結果がこれではないか。しかも,いまごろになって「想定外」の事態だったといいわけをしている。「想定外」ではなくて,当時の「想定が甘かった」と答弁すべきだろう。気はたしかか,と問いただしたくなる。
 しかも,今回の事故の引き金になったのは,停電だ。そして,自家発電機が波をかぶって作動しなかった,というきわめて単純なところからはじまっている。自家発電機が作動しなかった・・・?第二,第三,第四の自家発電機は設置してなかったのか。そして,波をかぶらないように工夫はされていなかったのか。詳細がわからないので,なんともいえないが,わたしにはなんとも納得しがたいことばかり。この責任をだれがとってくれるのか。
 それにつけても,映像をみると,その原発の炉心のある地下まで降りていって作業をしている人たちがいる。こういう映像をみると,わたしは絶句してしまってものが言えなくなる。凄い人たちがいるものだ,と。みずからのからだを張って,文字どおり命懸けの仕事に従事しているのだ。無条件に頭が下がる(こういう原発の最先端で仕事をする人たちが,どういう経緯でここにたどりついたのか,ということについて書いた本をむかし読んだことがある)。
 タニガキ君も,外野席で雑音を入れていないで,黙って,あの作業をやってみたらどうか。それが映像となって全国に知られたら,一躍,英雄扱いにしてくれるだろう。そのくらいの肝っ玉をもった政治家がいたっていいではないか。かつて,ハイジャック事件が起きたとき,みずから手を挙げて,俺にまかせろ,と言った政治家がいたではないか。これぞ男ぞ,と思った。

 でもまあ,今回のこの原発の事故で多くの人が,真剣に学ぶことになるのだろう。わたしもそのうちのひとりだが,これで,もう迷うことなく原発はやめにしましょう,と声高らかに宣言したい。つぎの爆発事故が起きる前に,停止させて,廃棄処分にしよう。その代替として,ソーラー・システムを導入しよう。原発を建造するだけの費用と,その維持管理,さらに,最終的な廃棄処理にかかる費用を考えれば,ソーラー・システムの導入は安いものだと思う。すでに,自宅で自主的にソーラー・システムを200万円ほどで建造し,東京電力に余剰電力を売っている人を知っている。200万円でつくれるのなら,それに政府が補助金を半分負担するようにすれば,かなり大勢の人が手を挙げるだろう。わたしだって一戸建ての家をもっていたら,すぐにでも手を挙げる。
 幸いなことに,日本の太平洋側は冬でも晴れの日が多い。日照時間は十分に確保できる。この点,ヨーロッパとは格段の差がある。太平洋側でつくった電気を,日本海側の人たちに格安で分けてあげて,屋根に雪を溶かす装置を備えれば,どれほど喜ばれることか。毎年,多くの犠牲者(雪下ろしのために)がでているのだから。これこそ立派な人命救助だ。
 こんなことは素人の浅知恵なのだろうか。でも,一度,ぜひ,当局で検討してみてもらいたいものだ。原発をこれ以上増やすことを考えれば,それなら,ソーラーシステムでという人は相当数いるだろうと思う。
 こんなことでも考えていないと,あの爆発の映像を繰り返し見せつけられているうちに,気が滅入ってしまう。なにもできなくなってしまう。
 いまこそ,前向きにものごとを考えないと,ますますストレスがたまってしまう。
 日本国復興のための秘策でも考えていないと・・・。
 そして,できることなら,どこかで,みんなで侃々諤々の議論でもして,たまりにたまったストレスを発散したいところだ。だれか,この指に止まりませんか。

2011年3月14日月曜日

いよいよ非常事態に突入。精確な情報と冷静な判断を。

 14日(月)の早朝から計画停電に突入。しかし,需要と供給のバランスをみながら実施を判断するとのこと。わたしの住んでいる地区は,午後に3時間の停電が予定されている。
 この計画停電との関連で,交通機関に大きな影響がでている。都心部は,ほぼ,いつもと同じ状態での運行がなされるようだが,郊外に向かう私鉄各線は,都心から離れれば離れるほどに全面運休が発表されている。都心に近いところでの折り返し運転がほとんどだ。
 都心重視はわからぬではないが,もう少し,大局的な判断はできなかったものだろうか。たとえば,東京23区は,停電はしない(荒川区だけが例外)。なぜか,と考えてしまう。こういうときには,みんな平等に負担を分け合うべきではないのか。
 郊外から通勤しているサラリーマンは電車が止まっていて出勤はできない。となれば,都内の企業の多くは,フル回転での営業はできないはずだ。現に,東海道新幹線は,全面運行予定であったが,運行にたずさわる社員が確保できない(出勤できない)という理由で,まびき運転に変更した。このことに象徴的に表れているように,大手企業も同じはずだ。
 わたしも,今日の出勤は見合わせることにした。いつも利用している田園都市線は朝夕のラッシュ・アワーは平常どおり運行するが,日中は全面運休するという。しかも,あざみ野駅より西方面は全面運休するという。出勤しても大丈夫かな,と一瞬,考えたが,日中に3時間の停電では,仕事はほとんどできない。ここは「不要な外出は控えるように」という通達にしたがった。
 さきほどかかってきた友人からの電話によれば,某ターミナル駅の周辺は,異様な雰囲気だ,という。なぜなら,働き盛りの男性たちが,いくつもの買い物袋を下げて歩いている,この光景は異様だ,と。そして,駅ビルの中にあるスーバー・マーケットに買い物に行ったら,食品のほとんどが売り切れ。缶詰などは影も形もなくなっている,という。あっという間にみんな買い込みに走ったのだろう,と。店員に聞いてみたら,つぎの商品がいつ入ってくるかはわからない,と。みんな被災地に向けて運ばれている,とか。
 電気はアンペアの関係で,西日本の電気をゆずってもらうことはできないそうだが,食品はいくらでも運べばいい。ここはひとつ農林水産省あたりが音頭をとって,きちんとした食品ネットワークをつくって,食の安全確保につとめてもらいたいものだ。そうしないと,パニックが起きる。いや,もう起きているのかもしれない。わたしのようなのんびり屋は,まだ,平然とことのなりゆきを眺めているが,気の早い人たちはすでに買いだめに走っているのだ。
 これも,さきぼと,茨城県で避難所生活をしている人からの連絡でわかったことだが,避難所には食べ物がなにも支給されず,毛布もなく寒さに震えている,という。そこに現れるのが「弁当屋」。しかも,法外の値段で売りつけている,という。背に腹は変えられないから,みんな言い値で買うしかないのだ。こういう悪徳業者が,かならず,非常事態が起きると現れる。困ったものだ。
 こうなると,もはや,戦争状態に入ったとしか言いようがない。大自然との闘いであると同時に,原発との闘いであり,なによりも始末の悪いのは「人間」との闘いである。火事場泥棒とはよく言ったもので,被災地にも「窃盗」が横行している,という(インターネット情報による)。自治体の手のゆきとどかない避難所には悪徳業者が出入りする。スーパーの食品は,車をもった人たちによって,買いだめをされてしまう。こうして,弱者はいつもワリを喰うことになる。そんな世の中であってはならない。と,声を大にして叫んだところで,非常事態にあっては,どうにもならない。
 自民党も野党も,この際,政争は一時休戦にして,一致団結して確かな自治体のネットワークを立ち上げて,国民生活に混乱をきたさないよう,全力を投球すべきときだ。人手が足りないところこそ,ボランタリーを募って,なんとかしてパニックにならないよう,この非常事態をしのごうではないか。
 いよいよ明日からが正念場だ。この非常事態からいかにして脱出するか。
 避難所生活をしている人たちに,きちんとした救援の手をさしのべられるように。
 やらなくてはならないことはあまりに多すぎる。でも,やらなくてはならない。
 そのための知恵と労力を出し合って。

 

2011年3月13日日曜日

節電に協力する店舗,無視する店舗。

 昨日(12日)から,事務所からの帰りの道がどこか違うなぁ,と感じていた。今日も,あれっ?と思いながら,あちこち観察してみた。
 事務所から帰るのは午後7時30分。いまの時期だから暗い。あちこちにネオンや店舗の看板に明かりがついている。が,どうも様子が変だ。まず,最初に気づいたのは,ガソリン・スタンド。二日つづけて休みなのだろうか,と。明かりがほとんどなくて,事務所だけが電気がついている。よくよくみると,いつもの人たちが中にいる。外にも従業員が,制服を着て,なにやら作業をしている。ああ,営業しているんだ,と気づく。少し行くと,二件目のガソリン・スタンドがある。ここは,半分だけ明かりが消えていて,営業をしている。ここで,あっ,と気づく。節電しているのだ,と。
 それから,こんどは意識してあちこち見回してみる。
 わたしは感動した。あちこちの,いつも点いている店の看板のほとんどが消えている。スーパー・マーケットやコンビニの明かりも,外の看板は消えている。
 ここで初めて,ああ,節電に協力しているのだ,と納得。
 行政指導でもあったのだろうか,あるいは,まったくの自主的な行動なのか,一瞬,考えたりした。しかし,そんなことはどちらでもいい。実際に,このように節電に協力しているのだ。この事実だけで十分だ。
 日本人は偉いなぁ,と今日はしみじみと思った。いざ,一大事となると,みんなみごとに一致団結する。そして,自分のできることは率先してはじめる。いつもの,あの無責任な,自己中心主義がどこかに影を潜め,善意が全面にでてくる。ああ,まだまだ,日本人は捨てたものではないなぁ,とわが身をふり返る。
 溝ノ口の駅を降りてきたら,若い人たち(どうみても20歳代の前半の人たち)が5~6人が,横一列に立って災害者支援のための募金運動をやっている。にわかづくりの募金箱を,それぞれ手に持って,被災者のためにご協力を,と大きな声で呼びかけている。思わず,一人ひとりの顔をじっと観察してしまう。しっかりとした顔立ちの,確たる信念のもとに,ここに立って募金を呼びかけている,という若者たちにみえた。大きな声で,順番に,協力を呼びかけている。
 しかし,一点だけ気になることがあった。それは,募金運動をしている人たちの身元がわからないということだ。どういう人たちが,この募金運動をしているのだろうか,とわたしなどは考えてしまう。それがわからないと募金がしにくくなってしまう。なんでもいい。身元を明らかにしてほしい,と思った。〇〇大学OB会,とか。〇〇商店会青年部,とか。高津警察署公認,とか。高津区役所公認,とか。なにか,方法はあるだろう。どこかに認知された団体であることを明示してくれると,どこか安心する。この溝の口駅前には,ときおり,怪しげな団体を名乗った募金活動が展開されることがあるからだ。「被災者を支援する会・代表者〇〇」と明示してくれるだけで,わたしなどは安心するし,喜んで協力したいと思う。
 でもまあ,こうして自発的に募金運動を開始する若者たちがいる,そして,いま,目の前で立ち上がって活動をしている,この光景はわたしは嬉しかった。日本も捨てたものではないなぁ,と。駄目な部分もたくさんあるが,ふだんは隠れている善意の人たちが,いざとなると立ち上がる。また,それに協力する。そういう人たちがまだまだたくさんいる。それを確認できただけで,今日は幸せだった。

 このことは書こうかどうか,とても躊躇したのだが,事実なので書いておこうと思う。
 わたしの事務所から最寄りの駅までの間には,ファミリー・レストランが3軒,有名和食店が1軒,大きな駐車場をもつ寿司屋さんが1軒,そして,同じく大きな駐車場をもつ焼き肉店が1軒。そのいずれにも,一度ならず,入ったことがある。みんないい店ばかりである。が,この中で1軒だけ,いつもと同じように明々と店の看板に明かりを点けて,営業をしている店があった。それは「焼き肉店」だった。よくよく考えてみると,昨日の夜もそうだった。明日の夜はどうだろうか,もう一度,しっかりと確認してみようと思う。この店の経営者はなにを考えているのだろうか。まわりの景色がみえていないのだろうか。節電など眼中にないのだろうか。
 こういう人も中にはいる。それは仕方のないことかもしれない。しかし,気づいてほしいなぁ,としみじみ思う。
 
 今日はとても暖かい一日だった。春の日和だった。だから,わたしはごく自然に,エアコンは要らないなぁ,と思って電源を入れなかった。でも,途中から,やはり少し寒いなぁ,と思ったがエアコンを点けることはやめにした。節電ということがほんの少しだけ頭のすみにあったから。そこで,一枚,上着を多く羽織って我慢することにした。これで十分であった。これからも,ごく身近なところからできる努力をしていきたいものだと思う。
 いまは,なにはともあれ,日本中の善意を集めて被災者支援に向けて力を合わせる時だ。わたしもその中のひとりでありたいと思うから。そして,もっとできることはないか,これから考えていきたいと思う。
 明日から,大きな企業も勤務体制のシフトを組み換えて,いろいろのアイディアを実行に移すという話も友人から聞いた。日本全国が一致団結して,いま起きている,どれほどの災害であるのかすら把握できないほどの大きな「できごと」に対峙していくしかない。みんなで日本人の原点に立ち返り,困った人を助ける「こころ」を取り戻したいと思う。
 自分さえ儲かればいい(得をすればいい)という精神に決別する時がきた,とひとりでも多くの人が気づくことを願いたい。まずは「かい(漢字がみつからない)より始めよ」,と。

大相撲,夏場所を「チャリティ」として開催しよう。

 地震の被災地が,まだ,こんな情況なのになんということを・・・と叱られるかもしれない。しかし,いまはなりふり構わず,できるところからやっていくしかない。そして,そのためのアイディアもまた必要ではないか。
 大相撲もこの際,思い切って「八百長疑惑」に結着をつけて,つぎのステップを踏み出そうではないか,そのためのきっかけとして夏場所を被災地へのチャリティ相撲に切り替えて開催してはどうか,と提案したい。同時に,500億円とも言われる法人備蓄金も,被災地に寄付してはどうか。さらに,場所と場所の間は,力士全員参加で被災地への救援活動(ボランタリー)を展開する。その上で,こんご「八百長はしない」という誓約書にサインをして,心身ともに潔白を誓うこと。そのくらいの決意表明をし,O(ゼロ)から出直す,そういう姿勢を示す,それが一番と考えるのだが,いかがなものだろうか。
 大相撲のいまのような興行形態の土台ができあがったのは,江戸時代後期の「勧進相撲」という興行形態であった。江戸の大火事で罹災した人びとを救済したり,老朽化した神社仏閣の建物を再建したりする,という大義名分を立てて,幕府に興行許可をえて開催される相撲興行,それが「勧進相撲」といわれているものの実態だった。
 この際,大相撲は,その原点に立ち返って,そこから出直しをしてはどうか。そして,興行で稼いだ金を備蓄などしないで,どんどん社会に還元していく。それこそが「公益法人」の資格に相当するのではないか。
 昨日のブログにも少しだけ書いたが,雷電為右衛門は,江戸に大火事があると,必ず焼け跡に出向き,みんなに激励の声をかけながら一緒に片づけ仕事を手伝った,という。もともと正義感の強い人だったので,農民一揆の片棒をかついだり(力士になる前の話),江戸の庶民が悪代官に苦しめられていれば,庶民に加勢して抗議を申し入れたり(ついには,牢屋に入れられることも),といったことの延長線上に,火事の焼け跡に立つ,というかれのスタンスがあった。この時代の力士は,ひとりの人間として自立していたのである(この点については,いつか,詳しく触れてみたいと思う)。
 だから,今回の大地震を契機にして,力士は,もっともっと社会にでて,困っている人びとと起居をともにしながら,救援活動をおこなうこと,それがどれほど人間としての成長に役立つことか,いまさら言うまでもない。それどころか,力士と呼ばれている人たちの人間性を,世間一般の人たちに知ってもらう,とてもいい機会であると思う。この人たちは,ほんとうに心根の優しい,お人好しが多いのである。一般には,土俵の上の,極度に緊張した怖い顔の印象が広く知られているので,力士は怖いと思っている人も少なくない。が,ほんとうは違うのである。
 神戸の大震災のときにも,意外なことに,大活躍したのは「ヤンキー」と呼ばれる若者たちだった。その結果,世間の「ヤンキー」をみる眼が変わった。みかけはともかくとして,人間は「素」にもどると,みんな優しいのである。そして,みんな,困った人がいたら助けてあげたい,という気持ちをもっている。それをなかなか素直に表現できないだけのことである。
 地震の被災地が落ち着いてきたら,力士は,みんなで救援活動に参加しようではないか。得意の「ちゃんこ」でもつくって「焚き出し」で激励することは,力士ならみんなできる。そこを基盤にして,少しずつ救援活動の場を広げてゆけばいい。どれほど,被災地の人びとが喜ぶことか。こどもたちも元気を取り戻すに違いない。これを巡業の代わりにしたっていい。
 こうして人びとに愛される力士となること,人間として信頼される人になること,そして,絶えず社会との交流の場を維持しつづけること,それこそが「八百長疑惑」を晴らす,もっとも手っとり早い方法だと考えるのだが・・・・。人びとに愛され,信頼される力士となれば,八百長などやってはいられなくなる。
 夏場所を開催しよう。5月,両国国技館で。「チャリティ大相撲」と銘打って。そして,八百長に「さよなら」宣言をして。
 そうすれば,ふたたび国技館に「満員御礼」の垂れ幕が下がることだろう。もちろん,熱烈なファンからは「八百長をするんじゃないぞぉ!」と厳しい声援も飛ぶだろう。それでいいのだ。厳しいファンの声援と眼が,力士の姿勢を質していく最良の薬なのだから。この関係をきちんとつくっていくことが,八百長を撲滅していくための,まずは第一の,手始めの方法ではないか。この関係を取り戻さないかぎり,他のどのような合理的な改善策が提示されようと,それは絵に描いた餅と同じだ。じっさいにはなんの役にも立たないだろう。
 夏場所で金を稼いで,その金を手土産にみずからのからだを奉仕すること,大相撲復活の道はここからだ。そのためになら,わたしも最大限の応援をしたい,と思う。
 

2011年3月12日土曜日

観測史上最大級の地震,被災地のみなさんのお見舞いを申しあげます。

 「マグニチュード8.8」,日本の観測史上最大級の地震,震度7という揺れ,建物の倒壊,津波,火事,孤立,原子力発電所・・・・。今朝からぞくぞくと新しい情報が入るにつれ,その被災の大きさにただただ唖然とするばかり。なにも手につかず,呆然と被災者のみなさんの大変さに思いを馳せています。発することばもありませんが,被災地のみなさんに,こころからお見舞い申しあげます。まずは,なによりも,一刻も早くライフ・ラインが確保されますことを・・・・。
 わたしのところにも,多くの方々から電話,メール,などでお見舞いのこころ・ことばがとどきました。ありがとうございました。昨日のブログにも対応してくださり,感謝しています。
 昨夜,遅く(12時近くに),田園都市線が開通したというニュースを聴きました。一瞬,これで帰宅できる,と安心しました。が,その前に開通した地下鉄線や私鉄線が大混乱をきたしているという情報がありましたので,深夜の混乱を避けて,事務所に宿泊することにしました。お蔭さまで,ライフ・ラインは大丈夫でしたので,食事をつくることもできました。簡易マットを敷いて,昼寝用の毛布をかぶって眠りました。神経が過敏になっているせいか,小さな余震にもハッと眼が覚めることがありましたが,なんとか眠りを確保することができました。
 わたしの親戚や友人・知人も,そんなに多くはありませんが,被災地域に住んでいます。いまのところ,まったく連絡はとれていません。とても心配しています。なんとか無事でいてくれれば・・・と祈るばかりです。

 こんなときに思い出すのは「雷電為右衛門」のこと。かれは,江戸に大火事があると,かならず現場に駆けつけ,被災者を激励して歩いた,という。そして,得意の力仕事を手伝って,真っ黒になって働いた,という。これも江戸時代の力士の仕事のひとつだったのだ。つまり,力士のもつ「霊力」を被災地の人びとに分け与えること,そのために,直接,声をかけ,力仕事を手伝うこと,こういう慣習行動が意味をもっていた。いまでも,赤ん坊を力士に抱いてもらうと丈夫な子に育つという信仰は生きている。お相撲さんの地方巡業のひとつの意味はここにある。ちびっこを集めて一緒に相撲をとって,ただ,楽しんでもらったり,相撲を普及させるだけではなく,力士のからだに直接触れることによって丈夫なからだになる,という期待も籠められている。
 日本相撲協会は,いまこそ,東北地方に力士全員を派遣して,救済活動に参加させてはどうか。それは単なる奉仕活動であるだけでなく,社会との接点をもつことによって,ひとりの人間として自立するための「教育」でもある。それこそが,八百長問題にたいする立派な「禊ぎ」になる,とわたしは考えるのだが・・・。
 被災地のみなさんと一緒になって,真っ黒になって汗を流し,力士としてのありのままの姿を知ってもらうこと。おすもうさんは,ほんとうにお人好しで,暢気な人が多い。みかけによらず心優しい人が多い。気立てがいい。そういうおすもうさんと直接触れ合うこと。こうして八百長問題の疑惑を晴らしていく以外に方法はない。そして,夏場所開催に向けて,力士全員が力を合わせて,その姿勢を示すこと。

 ついでに,楽天イーグルスも,仙台に集結して,奉仕活動に参加してはどうか。他のチームも参加してくるだろう。Jリーグも,行動を起こしたらどうか。
 勝利至上主義もいいが,ときには,人間中心主義に身をおくことの重要さを,身をもって示す絶好のチャンスではないか。スポーツマンは勝負師である前に,まずは,人間であること,ひとりの立派な人格者であることをめざしてほしい。それこそが,少年たちに夢と希望を与える最大のプレゼンスではないのか。

 ラジオをとおして流れてくる被災者情報を聴きながら,このブログを書いている。被災の実態が徐々に明らかになるにつれ,その規模の計り知れないものであることが,わたしのような者にもひしひしと伝わってくる。足手纏いにならなければ,わたしとて,馳せ参じたい。
 さきほどから,何回も,何回も,小さく揺れる余震を感じながら,日本国民が全力で立ち向かわなくてはならない一大事だ,とつよく思う。全国の官公庁をはじめ,企業もふくめ,ありとあらゆる団体・個人が力を合わせて人材と浄財をかき集め,救援活動を行う組織を・・・・。大学は学徒動員を・・・。とにかく,やれることからはじめるしか方法はない。

 このブログは終わりがない。千々に乱れるわたしのこころそのものだ。
 ひとまず,ここで切る。
 いま,また,小さな余震を感じている。


 
 

2011年3月11日金曜日

地震の現況報告・鷺沼の事務所より。

 遠距離から電話でお見舞いがくるようになりましたので,取り急ぎ,現況についてお知らせしておきたいと思います。
 まずは,ブログが書けるほどに無事でいますので,ご安心ください。
 いまも,断続的に揺れつづけてはいます。が,一度だけ,大きな余震がありましたが,いまは小さな余震だけになっています。このまま,少しずつ落ち着いてくれるといいなぁ,と希望的観測をしています。
 地震のあった午後2時46分ころは,鷺沼の事務所で,机に向って原稿の構想を練っていました。最初はたいした揺れではなかったので,震源地はどこだろうなぁ,と暢気なことを考えながら余裕をかましていました。が,揺れは止まるどころか次第に大きな揺れになってきて,これはえらいこっちゃ,と思った瞬間に棚からいろいろのものが落ちはじめ,急いで机から離れて,どのように対応しようかと考えました。ここからは真剣そのもの。まずは,エアコンを止め,足温器の電源を切って,外にでられるようにドアを開けて,様子をみる。本棚からは断続的に本の落下がつづく。食器棚からは食器が落ちはじめ,いくつか割れました。
 とにかく長い地震でした。しかも,こんなに揺れたのは久しぶりの体験でした。が,部屋の中を歩いて移動することはできましたので,いくらか余裕はありました。ほんとうに大きな揺れがきたら,身動きできなくなる,どころか,四つんばいになって頑張っていても,耐えられなくなって道路の上を転がっていました)ということをこどものころの「三河大地震」で経験していましたので。
 それにしても,すごい揺れでした。
 幸いなことに,停電もないし,ガスも止まってはいませんので,まずは安心です。
 が,細かな揺れは,このブログを書いている途中にも,何回もあります。ほんとうに断続的に揺れがつづきそうです。が,いまは様子をみるしかありません。
 なお,電車はすべて運転を見合わせているというラジオの情報がありますので,今夜は,ひょっとしたら家には帰れないかもしれません。
 というところが,現況の報告です。
 とにかく無事ですので,ご安心ください。

玄侑宗求対談集『多生の縁』(文春文庫)を読む。

 玄侑宗求さんの本が定期的に読みたくなるという一種の「病い」がわたしにはある。なぜだかよくはわからない。しいて言えば,仏心のようなものが沸き起こったとき,あるいは,禅的なるものにこころが傾斜したとき,あるいはまた,原稿が書けなくて詰まってしまったとき,こんなときに玄侑宗求さんの本が頭に浮かんでくる。不思議だ。が,事実なのだから仕方ない。
 玄侑さんは臨済宗。わたしは曹洞宗。宗派の違いはあるものの,同じ禅宗ではある。もっとも,道元さんは「禅宗」などというものは存在しないし,そんなものに囲い込まれるのは御免蒙ると言ったという。そして,わたしが心がけていることは仏教そのものの教えをいかに正しく伝えるか,つまり,「正法」(しょうぼう)を伝えることにある,と。
 だから,臨済宗とか,曹洞宗とかにこだわる必要は毛頭ない。むしろ,禅宗なるものも忘れてしまった方がいいのだろう。道元にこころから心酔した良寛さんも,曹洞宗で修行をしたが,やがて寺をでて放浪の旅にでる。しかも,肌身離さずもっていたのは『法華経』の経本だった,とか。これは,どうやら道元さんの影響らしい。道元さんも『法華経』はとてもいいお経だと推奨している。日蓮さんはもとより,宮沢賢治もまた『法華経』を手離すことはなかったという。
 というわけで,仏教という基本に立てば,宗派などというものはほとんどなんの意味もないのである。玄侑さんも,いまは,実家の臨済宗のお寺を継いでいるので,立場上はそのようにふるまうことにしているだけであって,本心のところはかなり自由に仏教のことを,あるいは,宗教全般のことを考えている。そのことは,かれの書く小説を読めばすぐにわかる。
 玄侑さんのデビュー作となった『中陰の花』(直木賞受賞作)は,この世とあの世の中間の話だ。現世と来世の間を「中陰」という。もう少しわかりやすく言えば,49日のこと。つまり,人間が死んで仏さんになるまでの間。それまで,死霊はあちこちさまよい歩いているので,7日ごとにお経を上げる。葬式のすぐあとに行われる法事が「初七日」だ。無事に仏さんになれるように,途中で道に迷わないように,という気持ちを籠めて7日ごとに法事を行う。この49日までの間が「中陰」。「中有」(ちゅうう)ともいう。その世界を描いた小説が,玄侑さんのデビュー作となった。
 わたしの玄侑さん詣では,この『中陰の花』からはじまった。人間は死ぬとどうなるのか,とだれもが考える。しかし,だれもその答えを持ち合わせてはいない。あのお釈迦さんですら,「人間は死ぬとどうなるのですか」と聞かれても,無言をとおしたという。「わからないものはわからない」,これが仏教の基本だ。しかし,その「わからない」ことと向き合って生きていかなければならないのが,人間なのだから,困ったものだ。玄侑さんは,お坊さんとしてではなく,作家としてこの人間の大テーマに挑んでいく。
 もともと,玄侑さん自身は,お坊さんにはなりたくなくて,作家をめざしたそうだ。そのために家出までして,行方をくらまし,あちこちを放浪して歩く。その間に,ありとあらゆる仕事を経験した,という。ときには,新興宗教にも踏み込んでみたり,あるいは,キリスト教に接近したり,と宗教的な経験も豊富だ。そうしてようやくたどりついたのが,やはり,臨済宗の寺での修行だったという。でも,作家の夢も捨てきれなかった。尊敬していた哲学の先生のところに相談に行ったら,「両方やればいい」と言われ,憑き物が落ちた,という。そこからは一直線。
 だから,玄侑さんのこの対談集は,対談者に引き出されるかのようにして,さまざまな玄侑さんの顔が浮かび上がってくる。そこのところがこの対談集の最大の魅力となっている。京極夏彦,山折哲雄,鈴木秀子,山崎章郎,坪井栄孝,松原泰道,梅原猛,立松和平,五木寛之の9氏が登場して,それぞれに,とても面白い話が展開する。
 そこに流れている共通理解は,人間は矛盾した存在なのだから,そのまままるごと認めていかなくてはいけない,それを理性の側からだけ物差しを当てて,人間を裁くようなことをしてはいけない,つまり,科学的合理主義だけでものごとを決定してはいけない,ここに宗教的なものさしを,それはじつにいい加減なものさしだが,それを持ち込んできて,両方のバランスをとる智慧を働かせるべきではないか,というものだ。だから,わたしなどは,読んでいて,「そうだ,そうだ,そうなんだよ」と声を出しながら共感・共鳴している。
 具体的には,なにに,そんなに共感・共鳴したのか,いずれ機会をみつけて書いてみたいと思う。それまでの宿題として残しておこう。みなさんは,どうぞ,その前に読んでみてください。対談者によっては,お医者さんの方が仏教的で,玄侑さんの方が科学的であったりして,これまた面白い。
 読後の,はんなりとした,さわやかさがいい。
 つぎは,いつ,この本に手を伸ばすのだろうか。それもまた楽しみのひとつ。
 

2011年3月10日木曜日

米沢唯さん,いよいよ第一線に。おめでとう!

 昨日の朝日新聞夕刊に,写真入り3段組みの大きなコラムとして「米沢唯」さんが紹介されていた。「新国立劇場バレエ団の新鋭・米沢唯」「存在の深さ 踊りたい」と大きな活字が躍っている。顔写真をみた瞬間にピンとくるものがあった。そして,嬉しかった。
 そう,故・竹内敏晴さんのお嬢さんである。竹内さんが生きていらっしゃったら,どれほど喜ばれたことかとついつい涙腺がゆるむ。母上の章子さんに似た美人で,竹内さんがいつも醸しだしていた懐の深さが,すでに滲み出ている。まさに,旬の人らしく,じつにさわやかな笑顔が美しい。
 ご生前の竹内さんは,プライバシーについてはほとんど語られることはなかったが,最晩年のころには,ちらりとお嬢さんのことを話されることがあった。そのときの竹内さんの笑顔は,いつものそれとはまるで違う,とっておきの笑顔だった。滅多にみることのない素朴な好々爺の素顔が全面に表出した「父親」のそれであった。で,ついついわたしたちは惹きこまれ,お嬢さんのお話をもっと聴かせてもらおうと思って,遠慮がちにお伺いを立てる。すると,さっとわれに戻られたかのように「まあまあ,これは個人的な話ですから」と仰って,さっと「普遍」につながる話題に切り替えられるのが,いつものパターンだった。
 そのときの竹内さんのお話で記憶に残っていることを一つだけ。たしか「からだ」というものは不思議なもので,無関心な人はいくら言っても,自分のからだと真っ正面から向き合おうとはしないものなんですよね,というような話の流れのなかでのことだった,と記憶する。「うちの娘は,こどものころからバレエを習っているんですが,どうも根っから好きなようで,家にいるときでも暇さえあればストレッチをして,からだのすみずみまで丹念にチェックをしているんですよね」「だから,いつのまにかバレエをするからだになっていくんですよね」という具合である。竹内さんが「バレエをするからだになっていく」というような言い方をされるときは,ことば面だけの意味ではなくて,もっともっと深い意味がこめられている(この話は,始めてしまうと,止まらなくなってしまうので,また,別の機会に)。だから,娘さんの話はそのための導入の話なのだが,わたしたちは,滅多に聴くことのない娘さんの話なので,俗人そのまま興味本位の問いをしてしまう。しかし,竹内さんは,けしてわたしたちの俗っぽい質問にまどわされることなく,さっと「普遍」の話題にもどっていかれる。
 このときの話題の主が,米沢唯さんである。唯さんにはまだお会いしたことはない。しかし,『環』(藤原書店)という雑誌が「竹内敏晴さんと私」という小特集を組んだときに,唯さんが短いエッセイを寄せていらっしゃる。それがまた,素晴らしい名文なのである。まだ,二十歳を少し超えたばかりの若さで,大好きな父親を見送った深い悲哀を随所ににじませながらも,じつに抑制の効いたことばづかいでつづった,美しい文章だ。わたしは,読み終わるまでに何回,嗚咽してしまったことだろうか。そのとき以来,わたしはすっかり米沢唯さんのファンになっていた。
 唯さんのこの名文は「父と私」というタイトルである。この名文は『レッスンする人』竹内敏晴語り下ろし自伝(藤原書店,2010年)の巻末に転載されている。わたしはこの本をとおして竹内さんの人生の前半生を初めて知った。その巻末に唯さんの名文が載録されている。いま,また,久しぶりにこの本をとりだしてきて唯さんの文章を読み,最初に読んだとき以上に,またまた嗚咽している自分がいる。そして,切り抜いた新聞の唯さんの笑顔が目の前にある。なんとさわやかな笑顔なんだろう,としみじみと眺めてしまう。「存在の深さ 踊りたい」という大見出しが,ずっしりと重い。この若さで,「存在の深さ」に触れていて,しかも,それを表現してみたいという。ああ,やはり,竹内敏晴さんのお嬢さんだなぁ,とみずからを納得させるほかはない。
 3月26日の公演には,ぜひ,でかけてみたいと考えている。そして,一番うしろにいらっしゃるはずの竹内さんと並んで・・・・。「黒い帽子に黒いコート」というわけにもいきませんが・・・・。3月26日はわたしの73回目目の誕生日。

2011年3月8日火曜日

ケビン・メア米国務省日本部長にひとこと。「断じて許せない」と。

 アメリカの正体みたり。本音がついに口から飛び出してしまった,ということなのだろう。それにしても,この「お粗末さ」。いやはや,ここまで日本国民がなめられてしまった,とは・・・・。日本の外交がいかにアメリカ・べったりであったか,いやはや,アメリカの「属州」となりはてていたか,日本政府の「自発的隷従」はここに極まれり,か。それにしても,言うことにことかいて,沖縄県民は「ごまかしとゆすりの名人」だ・・・・・と?! 
 ここはなにがなんでもひとこともの申しておかなくてはならない。「断じて許せない」と。
 かつて,駐沖縄総領事をつとめ,いまやアメリカ国務省の日本部長という最高のポストにある重鎮が,この程度の認識でしかなかったのか,と唖然としてしまう。あきれはててものも申せません。と,同時に,アメリカの政府高官の日本認識がこの程度のものでしかない,ということを今日まで知らずに生きてきた自らを恥じるしかない。
 よくぞ,申してくださいましたケビン・メア日本部長どの。こんごは,これほどまでに知性を欠いた,しかも,偏見でしか日本をみることのできない人として,あなたと対応することにします。そして,同時に,あなたの周辺にいる人たちも,そのような認識の人たちだという前提で,慎重に対応させていただきます。
 アメリカは「正義」であると声高らかに宣言された方も,あなたと同じように,狂っているとしかいいようがありません。「9・11」以後の,世界各地で繰り広げられた,根拠のない「蛮行」をみれば,一目瞭然です。こういう人たちを相手に,沖縄米軍基地移転問題が話し合われているのかと思うと背筋が寒くなってきます。最初から「土俵」が違うではないか,と。
 「ケビン・メア米国務省日本部長」の名を刻して,わたしたちのこころの奥深くに記念碑を建立し,永遠に記憶することを,ここに誓います・・・・。南無阿弥陀仏。

「涙する」情動を取り戻せ(トリン・ミンハ,桜井均,ほか)。

 3月6日(日)の東京外国語大学で開催されたイベントで,グンナル監督の映画『溶けてしまった氷の国・・・』をみたあとのシンポで,桜井均さんが「この映画をみていて,久しぶりに泣いてしまいました」と発言され,わたしは「あっ」と小さく声を発してしまいました。なぜなら,わたしは「泣く」という情感をどこかに置き忘れてしまって,ただ,ひたすら「さぶいぼ」(鳥肌)が立つ恐怖の念にとらわれていたからです。もっといってしまえば,情動からもっとも遠い理性のど真ん中にいて,必死で,「これはえらいこっちゃ」と考えつづけていたのでした。そこに,突然,桜井さんが開口一番「泣いてしまいました」と仰った。わたしは「あっ」としかいいようのない,虚を突かれた思いでした。そうか,桜井さんは「泣いた」のだ,と。それが羨ましくて仕方がなかったのです。そうかぁ,こういうドキュメンタリー映画であっても,丸裸の素の状態でみていれば,ストレートに情動に訴えかけてくるのだ,と。それに引き換え,このわたしは,大まじめに近代人よろしく一生懸命「頭」で受け止めていたのでした。しまった,と思いました。が,時すでに遅し,です。
 と,思っていたら,柏木裕美さんのブログには,なんと,あのトリン・ミンハが「泣いた」とある。しかも,柏木さんの制作した「む・口」さんをみて。同じ,6日に,今福龍太さんと多木陽介さんとトリン・ミンハさんの3人が柏木さんのお宅を尋ねて,お面をみせてもらっていたのだ。そして,柏木さんの「む・口」という創作面(小面の顔・これがなかなかの美人・の眼と鼻まではきちんと彫られているのだが,口がない,不思議なお面)をみた瞬間に,トリン・ミンハさんは眼に涙を浮かべたというのである。そのいきさつについては柏木さんのブログを参照してください。ここでは,「む・口」という柏木さんの作品とトリン・ミンハさんの感性がどこかでショートし,「涙する」というできごとが起きた,このことにわたしは痛く感動してしまいました。理由はともかくとして,一つの芸術作品と,それを初めてみた人のこころとが,真っ正面から「出会う」こと,このことの「凄さ」にわたしは感動してしまいます。「人が生きる」ということはこういうことなのではないか,と本気で思うからです。
 桜井さんにしろ,トリン・ミンハさんにしろ,凄いなぁと感動してしまいます。真の意味で開かれたこころをもつ人というのは,日常のささいなできごとのなかにも,「普遍」を感じ取り,こころの底から共振・共鳴することができる,そういう感性を持ち合わせているんだなぁ,としみじみ思います。
 そんなことを考えていたら,今日の朝日の夕刊の「ニッポン人・脈・記」に,Dr.コートを探して,「気づけば33年,今日も行く」という瀬戸上健二郎さんのことが取り上げられていた。この記事を読んで,じわっと涙が浮かんだ。1978年に,半年でもいいからきてほしい,と頼まれて鹿児島から船で6時間を要する下甑島(しもこしきしま)の診療所に赴任したお医者さんの話。いつか島を出よう,島から出たい,と思いつづけているうちに,その思いもいつしか消え去り,気がついたら33年が過ぎていた,という。そして,島の人びとの「情」の深さのなかにいつしかどっぷりと溶け込んでいる。そこには,濃密な人と人との結びつきが広がっている。
 そうか,生きるということはこういうことなんだ,とわたしは納得。しかし,それは「頭」の中だけのこと。からだではない。瀬戸上医師は,おそらく頭では「いつか島からでる」と考えつづけていたが,いつのまにやら「からだ」がすっかりなじんでしまって,「頭」のいうことを聞かなくなってしまった自分に気づいたのだろう。9日で70歳を迎える「神の手」をもつ外科医は,いまも,元気はつらつとサンダル履きで島の波打ち際を歩いている。
 このブログを書きながら,ああ,わが人生はなんであったのか,と情けなくなってきて「涙する」。この26日で73歳になんなんとするわが身をふり返り,行く末を思いやる。「情」の世界に背を向けて,ひたすら「理」の生き方を求めていたのではないか,と。それは間違いだ。もっと深い深い「情」の世界をこそ堪能すべきではなかったか,と。
 ジョルジュ・バタイユのいう「動物性」と「人間性」のはざまで揺れ動きながらも,やはり,現代社会を生きていくには「人間性」を選択する以外にはなかった。しかし,その分,わたしの中の「動物性」は抑圧され,排除されつづけてきたのだ。でも,「亡霊」はいつか忽然と姿を現す,とジャック・デリダは言った。どうやら,ここにきて,わたしの中の「亡霊」が疼きはじめてきたようだ。そろそろ解放してやらなくては・・・と思う。
 もう,なにも失うものはない。73歳まで,よくぞ,無事で,元気で,生きてこられたものぞ,と思う。これからは童心をとりもどして,可能なかぎり「動物性」に接近しつつ,自由奔放に生きてみたいと思う。そこにこそ「生きる」ことの実態があるのではないか・・・・と。そこでは,「涙する」情動がフル回転しているのではないか・・・・と。
 もう一度,「涙する」情動を,わがものとすべく・・・・。

2011年3月7日月曜日

グンナール監督作品『溶けてしまった氷の国は・・・・』の上映とシンポジウム(西谷修)に参加して。

 3月6日(日)12:30~17:30,東京外国語大学(多摩キャンパス)で「君はオーロラを見たか」──アイスランドの天国と地獄,というイベントがありました。主催者は,西谷修さんと中山智香子さん。とても内容の濃いイベントで,久しぶりにずっしりと重いお土産をいただきました。
 当日の配布資料のなかに,西谷さんが書いた「趣旨説明」がありますので,まずは,それを引用しておきます。これを読むだけで,西谷さんがなにを企んでいるか,ということが明々白々となります。みごとな導入になっています。
 「かつてヴァいキングが住み着いたといわれる最果ての島,氷河に覆われた火山とオーロラの国アイスランド──この国は90~00年代のグローバル化と金融自由化の流れの中で,新自由主義の処方箋に従って,’金融立国’を目指し,国ごと投機に投げ込んで一場の夢に酔ったあげく,2008年秋の世界金融恐慌であえなく’国家破産’してしまいました。
 それだけでなく,孤島ゆえに遺伝サンプルの貯蔵庫とみなされ,住民の遺伝子まで’資源’としてバイオ産業に売り渡そうとしたのです。
 漁業権から遺伝子まで,自然の恵みと歴史の産物を,丸ごと市場の濁流に投げ込もうとする天をも恐れぬこの振る舞いに,島の神々の怒りが爆発したのか,去年は氷河火山の吹き上げる噴煙がヨーロッパの上空を広く覆って航空機を麻痺させました。
 M.フリートマンの口車に乗り,グローバル経済と大国(英米)の恣意に翻弄されたこの国は,しかし今,その破綻の経験を肝に銘じ,ヴァいキング崩れの男たちに代わって政権に就いた女性首相のもと,世界秩序の内幕を暴いて物議を醸す情報サイト,ウィキリークスに拠点を提供しています。
 極北の小国であるがゆえに,グローバル世界の病理を凝縮するように身をもってあぶり出してしまったアイスランド,その’破綻’と’さ迷い’を映像化したグンナル監督を招き,その作品「溶けてしまった氷の国は・・・」を観ながら,経済の金融化から,生命の資源化,情報の民主化まで,グローバル世界の熱いトピックについて,メディア・情報の現場で活躍する方々を迎えて議論します。」
 祭りのあとの余韻に浸っているいまになっても,この趣旨説明を読むと,すべてのことがらがこのなかにみごとに凝縮して述べられていることに,いまさらながら感心してしまいます。そして,この凝縮したことば(キーワード)を手懸かりにして,昨日の映画とシンポジウムをありありと思い出しています。わたしの感想をひとくちで言ってしまえば,グローバリゼーションが含みもつ「暴力」をまのあたりにして茫然自失,というのが実感です。
 「グローバリゼーションと伝統スポーツ」というテーマで,この夏には国際セミナーを予定しているわたしたちとしては,このグンナル監督の映画「溶けてしまった氷の国は・・・・」はあまりに衝撃的でした。この映画からなにを抽出して,スポーツとグローバリゼーションの関係を分析していけばよいのだろうか,としばし考え込んでしまいました。たとえば,「経済の金融化」の代わりになるものは「スポーツの金融化」(別の言い方をすれば,「スポーツの商品化」と置き換えればわかりやすいか)の問題があろう。この問題は,もう,すでに,相当のレベルにまで進展してしまっていて,もはや引き返すことは不能というべきか。あるいは,そのことに,どこかに歯止めをかけるとすれば,どのようにして可能なのか。あるいはまた,「スポーツの商品化」をとことんまでつきつめていくと,どういうことが起こるのであろうか。こういう発想がつぎからつぎへと生まれてくる。そんな,不思議な迫力をもった映画です。
 グンナル監督は,予想したよりは若々しくて,バイタリティに満ちあふれていた。声も大きいし,張りがある。元気そのものだ。そして,アイスランドは,とてもいい国で世界に誇れる国だと信じていたが,その国家に裏切られた,という「怒り」の感情が漲っている。そして,黙っていてはなにもはじまらない。まずは,どんなにささやかなことでもいい,行動を起こすことだ,と。そして,自分たちの手で国家を変えていかなくてはいけない,と強く主張する。この断固とした姿勢が,新鮮で強烈な印象として残りました。なぜか,日本の現状が見透かされているようで,とても恥ずかしい思いがしました。わたしたちは,いったい,どうしてしまったのだろうか,と。
 それともう一点だけ触れておけば,いまごろになって,昨秋の宇沢弘文さんをお招きしての,西谷さんの仕掛けたイベントの意味が,より鮮明になってくるから不思議です。宇沢さんは,岩波新書にもなっていますように「社会的共通資本」という概念を提示して,経済の「金融化」という考え方に根底からの疑問を提示されました。そのことの意味が,これからますます多くの人びとに理解されるときがくるだろう,といまごろになって気づくわたしでした。もっと言ってしまえば,西谷さんが,経済学者の金子勝さんに注目されるのも,その延長線上にあるということも,より鮮明にわかってきました。
 というようなわけで,グンナル監督の映画をみて,それに関するシンポジウムを聞かせてもらおう,などという軽い気持ちででかけたのは間違いでした。現代の世界を見極めるための,きわめて重要な,根源的で,普遍的なテーマがそこには流れていて,その一環としてグンナル監督を招聘したということも,とてもよく納得できました。
 この映画の日本語の字幕入りのDVDは,商品にはなっていなくて,ごく少数だけ私家版としてスペアがある,というアナウンスがありました。どうしても,と仰る方にはお分けします,とのこと。イベントが終わってすぐに,西谷さんに直にお願いして,特別に分けてもらえるように手配しました。6月の東京例会の折にでも,みんなで観賞してみたい,と考えています。そのときには,西谷さんにもお出でいただいて・・・・,などとすでにつぎなる戦略を企んでいるところです。
 楽しみにしていてください。
 詳しいことは,わたしのHPの掲示板で。

2011年3月5日土曜日

和田竜著『忍びの国』を読む。

 困った作家の登場である。その名は「和田竜」(わだりょう)。この人の書くもの,面白くて目が離せない。『のぼうの城』につかまってしまい,この『忍びの国』が文庫化されたことを知り,すぐに購入。3月1日刊行のほやほやである。
 『のぼうの城』については,すでに,このブログで書いているので省略。今回の作品は,伊賀の忍者の話。若き日の石川五右衛門も登場する。忍者ものは,司馬遼太郎が直木賞をとった『梟の城』以後,傑作ものがぞくぞくと書かれたが,ここ最近,パタッと止まったいたように思う。そこに,和田竜の登場である。この『忍びの国』は,文句なしの傑作である。騙されたと思って読んでみてほしい。余分な説明はしない方がいいのかも・・・。
 『のぼうの城』と『忍びの国』とでは,作品の成り立ちがまるで別物なのだが,その底に流れている作者の視線は共通するところが多い。その最大の魅力は,弱者が強大な権力に真っ向勝負にでて,堂々たる闘いぶりを展開するところにある。しかも,何故に,弱者がかくも力を出し切って,強者をたじたじとさせることができるのか,という根拠をみごとに描ききっているところが,両者に共通している。この時代の戦は,数量的な兵力の差だけで勝負が決まるわけではなかった。戦いの機微は,人のこころの奥深くに潜む,人と人との共感・共鳴・共振するこころが,大きく左右する,というところに作者和田竜はいたくこだわっているように見受けられる。そこが,現代社会を生きるわたしたちのこころにも,もはや失われたものへの郷愁を甦らせ,強く訴えてくる。和田竜の人間洞察の深さが,読者であるわたしたちのハートをくすぐる。一旦その作者の「忍術」にかかってしまうと,もはや,最後まで読み終わるまでは食事も喉をとおらなくなる。
 『忍びの国』では,織田信長の次男で,北畠具教(とものり)の六女の婿養子となった北畠信雄(のぶかつ)が,伊賀の忍者を相手に戦う。約3倍もの兵力を擁して伊賀に攻め込むものの,神出鬼没の忍者に手玉にとられ,ほうほうの態で逃げ帰る。それから2年後には,織田信長みずからが3万の兵を擁して乗り込んできて,こんどは伊賀を全滅させる。あの歴史に残る織田信長の「伊賀攻め」である。この歴史的事実を下敷きにしながら,和田竜が,みごとなキャスティングをほどこし,個性豊かな忍者たちが縦横無尽に大活躍する。それにしても,なんともはや凄惨な物語になっている。
 この小説はいくとおりにも読める仕掛けが施されている。その意味でも,真の忍者小説といってよい。読者が,作者の意のままに,いくとおりにも忍術にかけられていき,読者はそのことに気づかないまま夢中になって最後まで読んでしまう。しかし,読み終わった瞬間に,忍術が解かれるようになっている。このあたりの仕掛けもまたにくい。
 わたしの大雑把な印象を述べておく。
 作者和田竜は,明らかにに「9・11」以後の国際情勢を視野に入れて,この作品を書いている,とわたしは思う。それは『のぼうの城』でも同様である。大軍に攻め込まれる弱者は,どう考えてみても,「自爆的抵抗」をこころみる「テロリスト」でしかない。しかも,作者和田竜の立場は,徹底してその弱者の側に立つ。そして,弱者たちを結束させる「情」の世界をみごとに描いていく(『のぼうの城』)。それに引き換え,大軍(『のぼうの城』では豊臣秀吉,『忍びの国』では織田信長)が蜂起すると,圧倒的多数の武将たちは「自発的隷従」の姿勢をとる。こちらは,あきらかに安易に生き延びるための「打算」以外のなにものでもない。どこか,ニッポンコクとどこぞの大国との関係が二重写しになってみえてきてしまう。
 『忍びの国』では,さらに,作者は忍術を使い,忍者たちの行動原理の根底にあるものは「銭」だけだ,と設定して物語を展開していく。「銭」さえくれればなんでもする,それが忍者だ,と。徹底して銭の亡者として描く。ここまでしつこく「銭」「銭」「ぜに」と言われると,現代資本主義社会を生きるわたしたちの「資本中心主義」の行動原理と,これまた二重写しになってくる。
 これらは,もちろん,わたしの深読みにすぎない。しかし,こんな深読みをあまりやってしまうと,これからこの本を読もうとする人の妨害となってしまうので,このあたりで止めにしておこう。その代わりに,作者和田竜が,どういうつもりでつぎの一節を書き込んだのか,みなさんに考えてもらうことにしよう。「終章」の末尾で,伊賀が亡びるのを目の当たりにしながら語り合う,背筋が寒くなるような,二人の武将の会話である。
 「・・・その傍を通って,大膳は左京亮をともない,土塁の斜面を上がり,喰代(ほうじろ)の里を見下ろした。
 『滅びたな,忍びの国も』
 左京亮が,焼き払われた里を眺めながらつぶやいた。
 『いや,違う』
 大膳は,左京亮に横顔を見せたまま異を唱えた。
 『斯様なことでこの者たちの息の根は止められぬ。虎狼の族(やから)は天下に散ったのだ』
 『天下に散った』
 左京亮はその意味が分らず,同じ言葉を口にしながら,次を促した。
 すると大膳は,『左様』と言い,何やら予言めいたことを口にした。
 『虎狼の族の血はいずれ天下を覆い尽くすこととなるだろう。我らが子そして孫,さらにその孫のどこかで,その血は忍び入ってくるに違いない』
 自らの欲望のみに生き,他人の感情など歯牙(しが)にも掛けぬ人でなしの血は,いずれ,この天下の隅々にまで浸透する。大膳はそう心中でつぶやいていた。」
 

2011年3月4日金曜日

大学入試でのカンニング行為は大学で処理すべき問題ではないのか。

 偽計業務妨害などという犯罪に該当するのであろうか・・・・と素人ながら考えている。カンニング行為の「新手」が登場したというだけの話ではないのか,と。
 試験監督者の眼を盗んで,いかにカンニングをするか,というこのこと自体はなにも新しいことではない。大昔から繰り返されてきた問題である。それは,あくまでも試験監督者と学生の関係性のなかでのできごとであって,一般社会とはなんの関係もないことだ。だから,これまではすべて学内の問題として,教授会という場所で最終判断がくだされてきた。入試におけるカンニング問題も同様に扱われてきたはずだ。つまり,教育的指導の対象であったはずだ。もっと言っておこう。カンニングはただ処分すればいいという問題ではない。もし,そのような事件が起きてしまったとしたら,愛情の籠もった指導助言をとおしてカンニングをしない学生に立ち直らせて,世の中に役立つ人間として送り出す,そこまで大学は責任をもってきたはずだ。
 それが,なぜ,いきなり偽計業務妨害というところに雪崩込んでいってしまったのか。しかも,京都大学だけが。他の3大学は,これまでどおり,大学の学内問題として処理しているというのに。
 受験生に不公平があってはならない。そのために,だれが責任を負うのか。入試を行う大学である。こんなことは自明のことだ。にもかかわらず,大学がその責任をまっとうすることができなかった。にもかかわらず,さも,携帯電話が悪い,インターネットのシステムが悪い,と言って責任転嫁しているように,わたしにはみえる。それは違うのではないか。
 文明の利器は,いつでも諸刃の剣である。便利なものは悪用も可能なのだ。そんなことは,わかりきっていることではないか。携帯電話がいまや小さなパソコンと化し,インターネットは,なんにでも応答してくれるシステムが完備している。受験勉強しながら,どうしても解けない数学の問題を携帯で聞いてみる,などということは日常化している,という。わたしのような時代遅れの世代であっても,原稿を書いていて,わからないことがでてきたらすぐにインターネットで聞いてみる。そこで提供される情報は危ないものも混ざっているので,要注意ではあるが・・・・。
 大学の定期試験でも,今回のような事件はすでに起きている,と聞く。なにも新しい問題ではない,と。だから,それぞれの大学はそれなりの対応に追われているという。大学入試に関しても,携帯電話を「持ち込み禁止」にしている大学は少なくない,とも。当然だろう。そういう実情があるにもかかわらず,携帯電話に対して無防備であった大学側の方にも,大きな落ち度があった,とわたしは考える。もし,携帯電話の持ち込みを許可するのであれば,試験監督者はそれの悪用を未然に防ぐことができるという前提に立っていたはずだ。だとすれば,試験監督者の怠慢ということになってしまう。
 ここまで事件が大きくなってしまうと,こんどは大学側の管理体制に落ち度はなかったか,というところに当然向かっていく。となると,大学は単なる被害者ではなく,加害者でもある,ということになってしまう。さてはて,この問題はどこまで波及していくことになるのやら・・・・。
 京都大学は,歴史的に,大学の自治に関しては立派な功績を残している。天皇機関説をめぐる大議論を記憶している人は少なくないだろう。にもかかわらず,今回の件では,なにゆえに,こうまでうろたえたのであろうか。これでは,まるで,日本相撲協会と同じだ。大学の自治能力を失っている。教授会ではいったいどのような議論がなされているのだろうか。優秀なスタッフがそろっているはずなのに・・・・。わたしには不可解である。
 人間は,わたし自身もふくめて,自分自身のことは,できることなら見ようとはしない。そして,さりげなくやりすごしたい。そういう習性のような保身術が蔓延している。ピエール・ルジャンドルの著作のなかに,『西洋が西洋について見ないでいること』(以文社)という,わたしにとってはとても刺激的だった著作がある。とりわけ,大学に身を寄せている知識人の中に,この手の人間が多いのではないか,とわたしは感じている。
 「大学が大学について見ないでいること」という,きわめて根源的な問題が,今回の「事件化」の背景に潜んでいるのではないか,とそんなことを危惧している。いささか考えすぎであろうか。

寒空にスカイツリーがくっきり,大きく,貫祿をみせる。

 このまま暖かくなるかな,と思っていたら,そうは問屋が卸さなかった。ふたたび寒気団が押し寄せてきて,ここ数日,寒くてふるえている。今日は久しぶりに青空がひろがり,寒いながらも,太陽の日にあたるとホッとする。
 このところ雑用に追われていて,自分のことができなくてイライラしていたが,ようやく自分の時間を確保することができた。そこで,まず第一にやったことは,確定申告の手続き。とはいえ,ここ2年ほどお世話になっている税理士のTさんのところに,必要書類を整理して,持ち込むだけの話。きわめて簡単な話なのだが,こういうことがなぜか「後回し」になってしまい,気持ちばかりが焦ってくる。これまた老化現象かいな,と自分に対して自信がなくなってくる。でも,考えてみれば,むかしから好きな仕事はすぐにやってしまうけれども,嫌いな仕事,どっちでもいい仕事は,ついつい「後回し」にしてきた。だから,むかしから変わってはいないのだ,と自分に声をかける。
 10時の約束だったのに,途中で道路工事をやっていて迂回路に入り,近道をしてやろうと思ったら道に迷ってしまった。で,結局,10分遅刻。税理士のTさんとも久しぶりだったので,税務のことはそっちのけで,相変わらず「身体論」を二人ではじめてしまう。Tさんは,コーラスを趣味とし(といっても,相当のキャリアがある),殺陣剣術の稽古に励んでいらっしゃる。だから,歌う身体と殺陣の身体の視点から,とても面白いお話をされる。わたしもついついその気になって,いつもの饒舌がはじまる。あっという間に1時間がすぎてしまい,こんな時期に税理士さんの事務所で長話をしていてはいけないと気づき,あわてて辞去。また,時間をつくりましょう,と約束をして。つぎは,鷺沼の事務所でゆっくりお話を。殺陣師のToさんも一緒に・・・と。
 太陽がさんさんと照りつける冬の道は,ひんやりと暖かくて,気持ちよく散歩ができる。新しい道を歩いてみようと思い立ち,適当に方向だけ定めておいて,じぐざぐに角ごとに曲がって,住宅地の中を抜けて歩いていたら,隣の高津駅にでてしまった。この道も面白いなぁ,と発見の喜び。なによりも,むかしながらの豆腐屋さんがあって,おれが毎朝つくって売っている,という感じのおやじさんが店頭で近所の奥さん方と元気よく話をしている。こういう光景は久しく忘れていたものだ。無性に懐かしい。おから(卯の花)を一袋50円で売っていたので,買ってきた。今朝,豆腐をつくったばかりの卯の花だから,このままで食べられるよ,とおやじさん。いいねぇ。こういうおやじさんと会話ができるだけでも幸せになりそう。また,ちょっとだけ遠回りをして買いにこよう。
 鷺沼駅から,いつもの道を歩いて,鷺沼では一番の高台まで登りつめると,とても見晴らしのいいところにでてくる。そこからは,東京の高層ビルが一望できる。ちょっと風が強くて冷たかったが,しばらく立ち止まって,ここからの眺望を楽しむ。買い物をいっぱい下げた老婦人が通りがかり,「なにが見えるんですか」という。「スカイツリーがみえます」「どれですか」「あのビルの右側にみえる塔がそうです」「ああ,あれがそうですか」とにっこり。地元の人たちは,むかしから見慣れた光景なので,ここからの眺望を楽しむなどということは忘れてしまったのかもしれない。わたしのような,新参者は,毎回,ここからの眺望は楽しみにしている。晴れた日も,曇った日も,雨の日も,かならず,ここから東京方面を意識して眺める。毎回,その表情が変わるのが嬉しい。今日は,東京が元気だ,とか。今日は,東京が泣いている,とか。勝手に解釈して,自分で納得して・・・。
 スカイツリーはやはり存在感がある。しかも,とても近くみえる。新宿の高層ビル群,渋谷周辺の高層ビル,そして,六本木ヒルズ,そのやや右側に東京タワーがみえる。赤白のペンキが,リニューアルしたせいか,とてもきれいに映えている。夜は夜でライトアップされ,東京タワーもきれいに輝き,存在感をアピールしている。スカイツリーは最終的にはどんな装飾が施されることになるのだろうか。すべての高層ビルからぐんと突き抜けるように聳え立っている。このツリーにどんな色を塗るのだろうか。やはり,東京タワーと同じ「赤・白」なのだろうか。高い塔は,全国どこにいっても「赤・白」だから。
 この高台からの眺望を,いつもよりかなり長く楽しんで(真っ青の空が広がったので)(東京の冬の青空はとびきりきれい),坂道を下る。その途中に,いつもの植木屋さんがある。河津桜がほぼ満開。ここでも,駐車場まで入りこんで,しばらく鑑賞する。その隣にある桜のつぼみが真っ赤にふくらんでいる。この桜の名前が書いてないのでわからない(河津桜には,木の札がぶら下がっている)。この桜も,もうすぐ開花。こちらもみごとな花を咲かせる。これらが終わったころに,染井吉野が開花する。その染井吉野も,この植木屋さんの屋敷の角にある。大木である。
 この寒さも今日あたりが最後らしい。これからは日一日と暖かくなるそうだ。
 ことしこそ,桜の花をみてまわろう。そのくらいの道楽はしてもいいだろう。
 できれば,隅田川まで足を延ばして,スカイツリーを直下から眺めてみよう。
 楽しみは多いほどいい。

 

2011年3月3日木曜日

とうとう茂木健一郎先生が堕ちるときがきたか?

 人間はあまりにちやほやされると狂ってしまう。むかしからよくある話。「役者殺すにゃ手間隙いらぬ。三日続けて褒めりゃいい」という。
 脳科学者として注目を集め,講演に著作にと超多忙な茂木健一郎先生も,「褒め殺し」という忍術にひっかかってしまって,ついに馬脚をあらわしたというべきか。それもいわずもがなの「つぶやき」(ツイッター)をとおして。たったひとりの「自爆」。
 NIFTYが配信しているニュースのなかに,「茂木氏,Webで朝日新聞に暴言」という見出しがあって,開いてみたらびっくり仰天。例の入試中に「ヤフー知恵袋」に投稿して回答をえていたとされる「偽計業務妨害容疑」者が逮捕されたというニュースに関しての,茂木氏のつぶやきが,もう一つのニュースになってしまった。その過激な表現には,いささかあきれてしまうほかはない。
 たとえば,以下のとおり(抜粋する)。
 「クズ朝日新聞が,逮捕されたとオレの携帯にニュース速報を送った」「京都大学,お前は死んだ!」というような調子である。あとは,あまりにみっともないので,紹介するのもイヤになるほどの文言の連続である。なにが勘に障ったのか知らないが,あまりのご乱調である。
 わたしは,しばらく前から,茂木氏の書くものや発言には「要注意」と,周囲の人たちに語ってきていた。あまりの独断と偏見が,意外なところで,ちらりと顔をみせることがあるからだ。茂木先生に心酔している人たちにとっては,心地よい響きになっていたかもしれない。しかし,冷静に茂木氏の発言に耳を傾ける人間には「おや,おや?」と思うことが,とりわけ,最近になって多い。そして,ついに,今回のつぶやきとなって一気に表出してきた,というべきか。
 わたしが,決定的に茂木氏にクエッション・マークをつけたのは,昨年の脱税問題のときの茂木氏の発言に触れたときである。3年間,税務申告をしていなかった(つまり,脱税)ことが発覚して,税務署から注意があったときに,新聞社の取材に対して茂木氏はなんと応答したか。覚えている人も多いと思う。茂木氏はつぎのように応答した。
 「あまりに忙しくて忘れていた」「ときどき思い出したが時間がなかった」
 「税務署が全部,計算してくれたので手間がはぶけて助かった」と。
 前者については,社会人として失格である。時間がなかったのは事実として認めるとして,それほどに稼いでいたのだから,税理士に委託して,税務申告をすべきでしょう。それもしなかったというのは,あなたはよほどのヅボラか,無神経な人か,はたまた意図的な確信犯だったのか,ということになってしまう。
 後者の発言にいたっては,もはや,なにをかいわんや,である。人間として失格である。わたしは,ある種の憤りさえ覚えたものである。そして,これで茂木氏は完全に失脚するなぁ,可哀そうに,と思った。
 ところが,である。NHKをはじめテレビには,相変わらず出演しているし,新聞や雑誌でも,さしたり批判もなく,これまでどおり,いや,それまで以上に大活躍である。単行本の刊行もあとを断たない。いったい,メディアの人たちというのは,カネになることなら,なんでも目をつむってしまうという重篤な病気に犯されているというのだろうか。それとも,それに気づかないまま,茂木氏の書くことやテレビでの発言を鵜呑みにしてしまう,われわれがいけないとでもいうのであろうか。
 いずれにしても,今回のつぶやきは,只事ではすまされないだろう。なぜなら,あまりに常軌を逸した「暴言」にすぎるからだ。
 わたしの個人的な感情としては,茂木氏はそろそろ身の引き際を自覚してほしい,そして,メディアは葬送行進曲でも奏でてほしい,と正直に思う。だから,最後に,お疲れさん,とひとこと。なぜなら,茂木氏の初期の著作からは多くのことを,わたしは学ばせていただいたから。それだけに,近年の「狂い方」は残念の極みである。
 「好事,魔多し」という。順風満帆のときこそ,わたしたちは気持ちを引き締めてかからねばならない。こんなことを茂木氏は,わたしに再確認させてくれた。その意味では感謝。

2011年3月2日水曜日

試験監督はなにをしていたのか。それこそが問われるべき問題ではないのか。

 不思議なできごとが,つぎからつぎへと起きる。しかも,最先端科学技術を駆使したテクノロジーによる現体制への揺さぶりである。その意味ではまったく新しいできごとが,これからもあとを断たないだろうと思う。そして,それを伝えるジャーナリズムの視点も,わたしには不思議。もう少し冷静に判断して,情報を伝えてほしいと思う。
 大学入試のさなかに,携帯メールを用いて,問題の回答を求めるという新手の「不正行為」(俗にいうカンニング)が現れて,大騒ぎになっている。しかも,その批判の対象は,もっぱら,だれが,どのような方法で,この不正行為を行ったのか,というところに集中している。たしかにそのとおりてはある。しかし,もっと驚いたのは,それを「偽計業務妨害容疑」として告訴するという大学側の姿勢である。もちろん,結果論としてはそうするしかないのだが・・・。
 しかし,この姿勢には,入試を行った大学にはなんの責任もなく,受験生のあるだれかが「不正行為」を行った,これは許せない行為である,という暗黙の了解があるように思う。たしかに,携帯電話を用いて外部の人間に問題の解答を求める行為そのものは,どこにも容認できる要素はない。だからといって,それを行った受験生を「偽計業務妨害容疑」で訴える大学と,それをテクノロジーを駆使してその不正行為を割り出そうとする,それだけでいいのだろうか。犯人を割り出せばそれでいいのか,ということにわたしは疑問をいだく。そのことだけで問題の解決をみようとする姿勢そのものに,わたしは深い憂慮をいだく者である。
 なぜなら,大相撲の八百長問題と同じような,ある特定個人を「悪者」に仕立て上げ,そこに総攻撃を加える。きわめて単純明快な,二項対立的な,どこかテロリスト退治にみる「正義」対「テロ」の図式がちらつくからである。そうではなくて,競馬の「油断騎乗」にみるように,内部できちんとけじめがつけられるようなシステムを構築することが先決ではないのか。あるいは,そのような不正が発生しないようなシステムを構築することではないのか。
 ここで欠落している視点は,一つには制度を維持していくためのシステムの問題である。不正行為はどこまでも未然に防がなければならない。しかし,完璧な管理体制をとることはほとんど不可能であろう。ということは,多少の不正行為は不可抗力として見逃されてきたということだ。これは制度の限界を承知してのこと。
 入試に限定すれば,これまでの発想では,一定時間内に効率よく試験問題を配布し,回収できる人数が試験監督者として配置されてきた。それは,原則的には入試で不正行為はまず発生しないという受験生に対する信頼が前提となっていたからだ。試験監督者も,一応,不正行為を監督するかのような身振りをするものの,まずは,そんなことは起こりえないという前提に立っている。だから,監督者によっては,ほとんどこころここにあらずという状態で,ただ立っているだけ,あるいは,ぶらぶらと見回っているふりをするだけ,という人もいる。極端な言い方をすれば,不正行為を誘発するような雰囲気が試験会場に生まれることもある。まあ,こんなことは滅多にあることではないが・・・。もし,あったとしても,不正行為を行う受験生はほとんどいない,というある種の信頼関係がそこにはあった。
 しかし,時代は大きく変化した。受験生の気質も,試験監督をする大学教員の気質も,当初の入試制度が構築されたころとはまるで異なる。そこに IT革命である。携帯電話という,すでに小型コンピューター化した文明の利器の登場である。これ一つで,相当の量・質の情報を,瞬時にして手に入れることができる。現代の若者気質を身につけた受験生がこれに吸いよせられていくというのは,ある意味では,自然な流れである。言ってしまえば,日常的にこの方法を用いている人間にとっては,わからない問題は携帯に聞いてみる,というのは当たり前のことだ。場合によっては賢いともいえる。ただ,問題は,これを入試の現場に持ち込んだ,というただ一点だけである。
 こんなことは,十分に予測できたはずである。
 すでに,学内で行われている学期末試験や学年末試験では,多くの大学で携帯電話の持ち込みを禁止しているはずだ。にもかかわらず,大学入試に,携帯電話の持ち込みが認められている,ということがわたしには不可解である。これは,どうみても大学側にも相当に大きな「油断」=不手際があった,と考えるのだが,いかがだろうか。
 誤解されないように繰り返しておくが,携帯電話を悪用した受験生は,明らかなる犯罪を犯したのだから,なにがなんでも悪い。しかし,それを「油断」して,許していた大学側も悪い。さらには,試験会場でそれを見破ることができなかった(見破ろうともしなかった)試験監督者の「無責任」さも,不正幇助に相当するのではないか。
 最新科学技術の産物たるすぐれたテクノロジーが,日本の近代が構築してきた制度や組織に大きな揺さぶりをかけていることは,日々,多くの人びとが承知しているはずである。明治期に構築された日本の近代制度は,基本的には,人間は悪事を働かないという前提に立っていた。つまり,人間を信頼するということが優先されていた。しかし,いまや,人間は悪事を働くという前提に立った,新しい制度づくりに移行しつつある。すでに,多くの企業が,社員に「IDカード」を常時携帯させて,社内への出入りをきびしくチェックしていることは,衆知のことだ。しかし,大学入試の会場の出入りに関して,受験票の提示を求めて,本人確認をしている大学がどれだけあるだろうか。
 テクノロジーの進展は,人間に多くの利便性を提供してきたが,それと同時に,人間と人間との関係性を大きく疎外し,人間不信をも招いてきた。この恐るべき現実に目をつむったまま,テクノロジーによる「暴力性」は放置されたままだ。
 今回の事件は,こういう根の深いところまで視野を広げた洞察が必要ではないか,とわたしは憂慮しつつ考えている。

〔未完〕

2011年3月1日火曜日

バドミントンにルール変更を迫った「力」はなにであったのか。

 競技スポーツのルールが,このところ目まぐるしく変化していく。わたしが,かつて目指したことのある体操競技などは,あまりにめまぐるしいルール変更にともない,なにがなにやらさっぱりわからないものに成り果ててしまった。極端な言い方ではなく,わたしが経験した体操競技とはまったく別物になってしまった。これはいったいどういうことなのだろうか。スポーツ史の専門家としても看過できない重大な問題といわざるをえない。
 昨日,バドミントンの専門家の I さんから,2006年にバドミントンのルールが大きく変更されたことについて,詳しくお話を聴かせていただいた。大きな変更点は,ポイントのカウントの仕方の原理・原則が,まったく別のものになってしまった,ことにあるという。簡単に言ってしまえば,サービス権制からラリー・ポイント制への転換だという。問題は,だれが,なぜ,そのような変更をしなくてはならなかったのか,という点にある,と。
 この変更は,すでに,バレーボールが通った道筋と同じだ。ただ,ひとつだけ違うのは,バレーボールがアメリカ産の競技種目であるのに対して,バドミントンはイギリス産であることだ。が,スポーツ史的にみると,ここはとても重要なところだ,とわたしは考える。
 なぜなら,アメリカという国は,いわゆる近代という時代しか経験していない。しかも,最初から世界中からの移民によって国家が構成されている。いわゆる多民族国家である。したがって,アメリカの文化は,一時に,じつに多くの地域や民族の文化が持ち込まれ,それがミックスされて構築されたものである。だから,「サラダ・ボウル文化」と呼ばれたりもする。そこでの基本原則は「わかりやすさ」であり,だれにも納得のいく「合理性」が求められる。言ってしまえば「単純明解」であること。それがひとつの大きな特徴である。
 ところが,バレーボールのポイントの数え方は,イギリス産のテニスにあったと言われている。だから,最初のころはサービス権制をとっていた。しかし,かなり早い時期にラリー・ポイント制に変更された。わたしの記憶するところでは,時間がかかりすぎる,テレビ放映の時間に合わせる,などが主な理由だったように思う。この結果,どういうことが起きたか。パワーと高さで一気に勝負をかける展開が主流となった。つまり,ヨーロッパ系の長身とパワーを誇るチームに有利となり,アジア系の技術やねばり強さは不利だ,ということ。
 このパレーボールと同じような変更が,2006年にバドミントンで起きたというのである。バドミントンは,さきほども触れたようにイギリス産のスポーツである。王室をかかげる長い歴史と伝統を誇る国家が,とりわけ,産業革命以後の勢いにのって近代スポーツを立ち上げ,その中に,イギリスに伝統的な風俗習慣にもとづくルールやマナーを多く取り入れた。その中のひとつが「サービス権制」という制度である。
 サービスという用語そのものが,テニスから生まれた用語で,前近代から伝承されているロイヤル・テニス(室内の壁面や庇を用いるテニス)の時代から用いられている。この時代のテニスは,テニス・コートそのものが「サービス・サイド」と「ハザード・サイド」と固定されていて,コートのつくりにもハンディがついていた。つまり,サービス・サイド有利,ハザード・サイド不利。これは図面や写真で説明しないとちょっと複雑なので省略。ちょっとしたテニスの歴史の本には書いてあるので参照されたい。
 で,ハザード・サイドのプレイヤーは,この不利な条件をいかに克服して,サービス権を獲得するか,ここに,じつは大きな意味があった,とわたしは考えている。詳しいことは省略するが,不利な条件を克服して,はじめてサービス権を獲得し,そののちに,ようやくポイントを得るチャンスに恵まれるというわけである。このことの意味を語ることは,イギリスの伝統文化や伝統精神について語る必要があるので,残念ながら・・・・。結論からすれば,サービス権制という考え方は,イギリスの伝統的な,固有の文化や精神から生まれた考え方なのである。
 だから,バドミントンでは,長い間,サービス権制が温存されてきた。バレーボールがラリー・ポイント制に変更しようが,そんなことは無視して,サービス権制を大切に守ってきたのである。その精神が,2006年にいたって,ついに放棄されることになったというのである。このように考えると,これは,きわめて重大な変更だ,ということがよくわかる。
 さて,いったい,だれが,なぜ,このような変更を求め,だれが,なぜ,それを「是」として受け入れたのか,ここが最大の問題点。スポーツ史的にも,きわめて魅力的なテーマである。ここを,ぜひ,解明してください,とバドミントンの専門家の I さんにお願いをした次第。
 わたしの中の大きな仮説は,ルール変更の主役が,プレイヤーの論理から,それを管理・運営する側の論理へ,そして,ついには,テレビ放映する側の論理へ,と変化していく,その最後の段階の現象ではないか,というものである。そして,さらには,それがはたしてバドミントンにとって,あるいは,バドミントンを愛好する者にとって,なにを意味しているのか,という新たな問題が提示されている,という点にある。
 さて,I さんがいかなる答えを導き出してくださるか,いまから楽しみではある。