2012年1月6日金曜日

奈良・山焼き講演「3・11」以後のスポーツ文化を考えるための理論仮説について」──バタイユの『宗教の理論』をてがかりにして。

毎年,奈良の山焼きの日には,かつての奈良教育大学時代の教え子たちとの約束で,お里帰りをすることにしている。ことしは,1月28日(土)がその日にあたっている(毎年,1月の第4土曜日が山焼きの日)。そこでは,恒例の講演をすることになっている。場所は,奈良教育大学教職員会館。そして,そのあと,山焼きをキャンパス内の最高のポイントから見物し,もどってきてから,懇親会に入る。こんなことを,かれこれ15年ほどつづけている。

ことしのテーマは,「3・11」以後のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をてがかりにして,というものである。しかも,お世話をしてくださる井上邦子さん(「ISC・21」1月奈良例会の世話人)の希望で,たっぷり3時間をかけて,存分に語って欲しい,と言われている。

じつは,この長時間講演は,半分はわたしの希望でもあった。というのは,ジョルジュ・バタイユの思想・哲学をてがかりにして,スポーツ文化を語ることは容易なことではない。1時間30分くらいの時間ではとても語れない。だから,講演依頼を受けたときに,思わずわたしの口から,時間をたっぷりくれるのなら・・・と言ってしまった。そこは割り切りの早い井上さんのこと。わかりました,3時間ではどうですか?ときた。そうか,3時間ももらえるのであれば・・・・,ということでわたしも決断した次第。

この講演のタイトルを決めたのは,井上さんから依頼を受けたその日の夜(12月23日,「ISC・21」12月神戸例会の懇親会)のことである。昨日のブログにも書いたように,「スポーツに思想はあるか」という恩師岸野雄三先生の30年も前の「問い」に,なんとかしてわたしなりの「答え」を出さなければと考えつづけていたので,この機会に,その一端を披瀝することはできないだろうか,と考えたのである。その瞬間に,ほとんど直観に近い状態から,突然,口をついて出てきたのが,このタイトルだった。こういう直観は信じたい,というのがわたしの流儀。

もう少しだけ踏み込んでおけば,じつは,もうすでに,3年にわたって続けてきた神戸市外国語大学での集中講義そのものが,「スポーツに思想はあるか」という恩師の「問い」に応答する,ひとつの試みだったのである。その一端は,このブログのなかでも何回にもわたって書いているので,ご存じの方も多いと思う(ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解。スポーツ史・スポーツ文化論の視点から)。いささか難解なテーマへの挑戦であったが,意外に多くの方が熱心に読んでくださった。やはり,自己を超えでていく,蛮勇をふるっての挑戦には,みなさんが温かく見守ってくださるものだ,と痛感した。ありがたいことである。

ここまで書いてきたら,ふと,思い出したことがある。
わたしがフランス現代思想というものを初めて意識しはじめたころのことを。人間にはレディネスというものが大事で,それがないとつぎの段階のステージは開かれてこない。ちょうど,さきほども書いたように,30年ほど前に「スポーツに思想はあるか」という恩師の「問い」に触れ,おろおろしていたときに,西谷修さんとの何年ぶりかの再会があった。このころ,すでに,西谷さんは,ジョルジュ・バタイユをはじめ,エマニュエル・レヴィナスやモーリス・ブランショという人たちの,いわゆるフランス現代思想の黎明期を代表する人たちの,眼の覚めるような思想・哲学を,さまざまな雑誌に紹介したり,翻訳をしたりしていた。その内の一冊が献本として,わたしの手元に届いた(たしか,モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』だったと記憶する。なぜなら,このころ,大塚久雄の『共同体の基礎理論』という本とにらめっこしながら「共同体」のことを考えていたので,この『明かしえぬ共同体』という本のタイトルをみた瞬間に,なんのこっちゃ,という強烈な衝撃を受けたことを記憶しているから)。これがまた,難解至極,読んでもさっぱり要領をえない。しかし,訳者の西谷修さんの「訳者解説」を読むと,これまた不思議なほどすとんとわたしのこころに落ちた。

これがきっかけとなって,わたしはフランス現代思想の,それまでに学んできた思想・哲学とは,天と地がひっくり返るほどの違いを知り,びっくり仰天しながらも,気づけばすっかりのめりこんでいた。わからないことは西谷さんに教えてもらい,少しずつ,その世界の空気に馴染んでいった。だから,当時,できたばかりの大学院のゼミでも,「共同体」を考えるためのテクストとして,モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』をとりあげたことを思い出す。しかし,このころは,指導するわたし自身がよくわかっていないのだから,院生さんたちには申し訳ないことをした,と反省している。しかし,そのときの「蛮勇」があったからこそ,いまがある,とわたしは思う。

それから,長い長い,フランス現代思想遍歴をへて,いま,ここに立っている。そのわたしを諦めずに導いてくださったのが,西谷修さんである。みなさんもご存じのように,わたしの「思想・哲学」の師匠である。お蔭で,いまでは,西谷さんとお話しているときが,もっとも幸せな時間である。しかも,毎週,太極拳の兄弟弟子として。いま,振り返ってみると,なんとラッキーだったことか,とわが人生を省みて気が遠くなる思いがする。こんなことは,まずは,ありえない,と。お蔭さまで,わたしは,いま,至福のときを過ごしている。

というようなわけで,こんどの山焼き講演は,わたしの人生の集大成のようなものになる,また,そうしなければいけない,と考えている。そういう意味では,ようやく,ここにきて,大学でいうところの最終講義ができる,と思う。ただし,わたしの言う最終講義とは,これまでの過去の自分をすっぽりと切り捨てるための,そして,まったく新たなスタートを切るための,けじめをつけるための講義を意味する。

この山焼き講演を境にして,「スポーツに思想はあるか」という「問い」への,根源的な「応答」をはじめたいと切に願っている。その長年のわたしの願いが,ことしこそ実現するように,と祈るばかりである。

1 件のコメント:

井上邦子 さんのコメント...

山焼き講演は初夢からつながる流れにあるのですね。先生の、今だからこそ沸き起こる思想とそれを語る研ぎ澄まされたお言葉を楽しみにしております。このブログをお読みの皆様も是非おいでください。