2012年1月24日火曜日

山田詠美の最新作『ジェントルマン』を読む。大傑作です。

先週の金曜日(20日)に発行された『週刊読書人』の一面トップに,山田詠美さんの顔をアップにした大きなカラー写真が載り,彼女の最新作『ジェントルマン』(新潮社)についてのインタビュー記事が,二面にわたって紹介されていました。久しぶりの詠美ちゃん(むかしから,わたしは勝手にそう呼んできました。そうです。熱烈なファンです)の登場だったので,一気にこの記事を読みました。素晴らしい内容でした。

ひさしぶりでしたので,えっ,そんな小説を書いたの?という驚きがまずはありました。そして,すぐに,その足で近くの本屋に走あました。が,そこにはありませんでした。そこで,仕方がないので,二子玉川の大型書店まで足を伸ばしました。さすがに,そこにはありました。

人気作家の話題作となると,川崎あたりのふつうの本屋にはなかなかまわってきません。田舎に住む悲劇。川ひとつ(多摩川)超えて,世田谷区に入ると大手の本屋がありますので,そこまでいくと置いてあります。本の世界も大手の本屋が,売れる本は最優先で買い占めてしまう,ということを聞いています。つまり,取り次ぎ業者が独占的に大手書店と手を結んでいるからです。ほんとうに,いやらしい世の中になってしまったものです。こんなところにまで資本の手がのびてきていて,好き勝手なことをやっているわけです。その陰で,良心的な小さな,個性的な本屋がつぎつぎに潰れていきました。これじゃぁ,電機屋さんの世界と同じではないか。と,ついつい,愚痴がでてしまいます。

さて,苦労して手には入れたものの,その前に片づけておかなければならない原稿の仕事がありました。だから,読みたい本を目の前に置いたまま,禁欲生活がつづきました。昨夜遅く,ようやく,その原稿が終わりましたので,今日は解禁日というわけです。午後から,待望の『ジェントルマン』を読みはじめ,いま,終わったところです。

詠美ちゃんの最新作は,いつもそうですが,今回もまたわたしの知らない新しい世界を切り開いてくれました。読む前と読んだ後とでは,世界がすっかり変わってしまうほどです。つまり,わたしという人間を,わたしの<外>に引っ張りだしてくれて,また,ひとまわり大きくしてくれる,というわけです。これまでも,ずっと詠美ちゃんの作品を追っかけてきましたが,この感想はいまも同じです。だから,詠美ちゃんの作品は,彼女が新しい作品を書くたびに大きな話題となります。そして,多くの賞を頂戴することになります。詠美ちゃん自身が,日々新たにして,つねに,自己変革をくり返しているからです。同じところに立ち止まるということをしない,そういう人なのです。

今回は,驚いたことに,なんと,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を解体して,小説にしたのではないかと思われる,そういう描写が随所に登場します。ここもそうだ,あっ,ここもまたそうだ,とそんなことをくり返しながら,最後まで興奮したまま一気に,この本を読みました。ちょうど,いまの,わたしが読むにはもっともタイミングがよかったということなのでしょう。

そういえば,かなり,むかしから「猫の眼でまわりをみてごらん。おかしなことがいっぱい見えてきます」と詠美ちゃんは書いていました。人間がいかに不遜で,奇怪しくなってしまっているか,という警告を発していたというわけです。

今回は,詠美ちゃんが,また,一段と進化していて,加えて,わたしのレシーバーも感度がよくなっていて,という次第で相乗効果もあって,いいことだらけでした。ですから,とても深い感動があって,そこから伝わってくるメッセージはずっしりと重いものがありました。人間とはなにか,と問いつづけてきた詠美ちゃんの哲学があちこちに散りばめられていて,この人の人間洞察の奥行きの深さに目眩を起こしそうでした。しかも,これまでどおり,研ぎ澄まされた文章は,無駄なところがどこにもない,密度の濃い,凝縮された詩のようなことばの連鎖です。ですから,ひとことも見逃すことのできない,深い味わいがあります。思わず,何カ所も抜き書きしたくなるような,そういう衝動にかられるばかりでした。

さて,「ジェントルマン」とは,お断りするまでもなく,イギリス近代が生み出した男性の理想像のひとつです。この小説の主人公は高校時代から,スポーツも勉強もでき,だれかれなく優しく声をかける気配りのできる,文字どおりのジェントルマンです。のちに,大学を卒業して銀行マンとなっても,じつにバランスのとれたジェントルマンの姿勢を貫いて生きていきます。一点の非のうちどころもない,完全無欠の人生を送っている,かに見えます。しかし,それは表の顔であって,その裏には,人に知られることなく禁を破ることに快感をいだく,恐ろしい犯罪者の顔をもっています。言ってみれば,ヒューマニズムに満ちた人間の顔と,衝動的で,暴力的な動物の顔の二つを生きている人物,ということになります。この主人公を中心に,不思議なキャラクターをもつ人間たちが渦巻く人間模様が,この小説の大きな枠組みです。

もう少しだけ踏み込んでおきますと,この主人公に恋い焦がれている同級生の同性愛者がからみます。そして,同性愛者からの繊細なまなざしと異性愛者たちのマンネリ化した営みが複雑にもつれ合いながら,人間の業のようなものをきめ細かく描写していきます。もっと言っておけば,バイセクシャルの微妙な世界にも踏み込んでいきます。そうして,男と女という近代の単純な二項対立の世界が引き起こす暴力装置にも,詠美ちゃんのまなざしは分け入っていきます。

そうして,「ジェントルマン」という一見したところ立派な「男」の生き方にみえる理想が,じつは,「生きる」とういことの内実を伴わない,まことに形骸化した,たんなる仮面の世界でしかない,ということを明らかにしていきます。そして,むしろ,「ジェントルマン」という仮面に頼ることなく,ありのままの姿(たとえば,性同一性障害)をみずから認め,そのままの生をまっとうすることこそが,人間が「生きる」という実態に迫ることになるのだ,という詠美ちゃんからの熱いメッセージが伝わってくる。そして,そこに,わたしは深く同意する。

このあたりのところは『トラッシュ』以来の,詠美ちゃんのむかしから抱えているテーマに連なるものですが,今回は,さらに一歩踏み込んだ,わたしの知らない世界を描き出し,人間の奥行きの深さを知らしめてくれました。ですから,これまでとはまた違った,まったく新たな感動をよぶことになりました。人間とはなにか,とわたしもまた深く考えることになりました。

人間は,ヒューマンとアニマルの二つの「生」を内側に抱え込んでいることを,もっと素直に認めるべきだ,という詠美ちゃんのむかしからの主張があります。そして,その両者がバランスよく現実の世界に実現できるようにするにはどうしたらいいのか,と繰り返し問いかけてきます。つまり,昼は淑女のごとく,夜は娼婦のごとく・・・というわけです。この小説のテーマでいえば,昼はジェントルマンのごとく,夜はアニマルのごとく。

人間は,ジェントルマンとしてだけでは生きていかれません。また,アニマルだけでは社会が受け入れてはくれません。この宙づり状態が,現代社会を生きるわたしたちのありのままの姿なのです。この矛盾した「生」をわたしたちが引き受けなくてはならないのは,人間が動物性の世界から抜け出してきて,人間の世界を築きはじめたときからの,宿命(あるいは,業)のようなものです。ですから,終わりのない,永遠のテーマとなるわけです。わたしたちは永遠に,この引き裂かれた「生」を引き受けなくてはならないのです。

この世界は,まさに,わたしがこだわってきたジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』にそのまま通底するものです。ですから,わたしには,みごとなまでのバタイユとの符合が,今回は驚きの発見でした。詠美ちゃんは,さきの『週刊読書人』のインタビュー記事では,バタイユのことはひとことも触れてはいませんが,当然のごとく,彼女の視野のなかにある,とわたしは確信しました。

そんな永遠のテーマを詠美ちゃんは,手を代え,品を代えして,小説世界で説きつづけていきます。今回のこの作品は,恐るべき完成度の高いものとなっている(とわたしは思う)。まぎれもなく,彼女の畢生の傑作です(これまでも,新しい作品がでるたびに,わたしはそう思ってきましたが)。それほどの,素晴らしいできばえだと確信しています。

ぜひとも,ご一読を。

またまた,大きな話題を呼ぶことになるでしょう。それは間違いありません。
詠美ちゃんファンとしては,鼻高々です。

芥川賞選考委員を辞退したイシハラ君に,この本を読ませてみたい。理解不能というのだろうか。

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