2012年1月31日火曜日

「スポーツは消尽である」という理論仮説立論の試み・Mさんへの応答・その1.

1月28日(土)の「ISC・21」奈良例会での,わたしのプレゼンテーションのなかで,「スポーツは消尽である」という仮説を提示しました。それに対して,Mさんから「この仮説に賛成」だが,それを証明するにはどうしたらいいのか,という趣旨の問いがありました。その場でわたしは,「証明」することは不可能に近いし,また,証明にこだわる必要はない,むしろ,こだわらない方がいい,という趣旨の応答をしました。このことは,さきのブログにも書いたとおりです。

が,その後,時間が経過するにつれ,証明をしようという気にはならないけれども,「スポーツは消尽である」という理論仮説を立ち上げた根拠,つまり,立論の根拠は明らかにしなければならないだろう,と思うようになりました。そこで,まずは,「スポーツは消尽である」という理論仮説立論の試み・Mさんへの応答「その1」として,以下のような考えを公開しておきたいと思います。

この理論仮説は,まだ,わたしの頭のなかで誕生したばかりです。したがって,ずいぶん荒っぽい仮説にすぎません。欠点だらけのものにすぎません。ですので,みなさんとともに揉んでいただいて,より説得力のあるものに仕立て上げていきたいと考えています。ぜひとも,ご意見(反論,支持,異論,など)をお聞かせいただければ幸いです。最初に,まずは,このことをお断りしておきたいと思います。

さて,以下が「その1」の文章です。

太陽の惑星のひとつである地球に生きるわたしたちにとって,太陽は特別な存在である。わたしたち人間のみならず,あらゆる地球上の生命体にとって太陽はなくてはならない存在である。すなわち,太陽なしには,いかなる生命体もこの地球上には存在しない。

その太陽は,その内部で,4個の水素核から1個のヘリウム核に変わる原子核融合反応が起こして膨大なエネルギーを,ただひたすら放出している。太陽は,すでに50億年前から核融合反応を始めており,こんごも約50億年は輝きつづけると考えられている。しかし,太陽は,やがてこの核融合反応を終えると,その輝きを失うという。いわば,太陽の「死」である。すなわち,太陽はひたすら「死」に向かって輝いている,ということだ。ただ,それだけの存在。それ以上のものでもないし,それ以下のものでもない。すなわち,太陽の活動は「消尽」そのものであって,それ以外のなにものでもない。

太陽の死は,同時に,地球上のあらゆる生命体の「死」をも意味する。したがって,すべての生命体は,太陽とともに,「死」に向かって生きている。太陽の寿命がほぼ中程にあるとすれば(100億年の半分の50億年が経過しているとすれば),地球上の生命体は,太陽のこれからの消尽の仕方の変化に合わせて,あらたな「適応」が必要となる。つまり,自然淘汰が起こる。いずれにしても,あらゆる生命体は「死」に向かって生きている。

わたしたち人類もまた,「死」に向かって生きている。いまを生きているわたしたちもまた,「死」に向かって生きている。やがては,みんな間違いなく「死」ぬのである。つまり,「死」から逃れることはできない。すなわち,「生きる」という営みそのものが,すなわち,生命エネルギーの「消尽」そのものにすぎない。

もう少し踏み込んで考えてみよう。

個々の生命体は,誕生以来,ただひたすら「死」に向かって生きている。わたしたち人間もその例外ではない。すなわち,わたしは,オギャーと産声をあげたときから(あるいは,母の卵子が父の精子を受精したときから),ひたすら「死」に向かって生きている。いかなる人間といえども,成長し,老化し,死に至る。仏教でいうところの「生老病死」(しょうろうびょうし)。日々,これ「消尽」あるのみ。(ハイデガー風にアレンジしてみると,人間の存在は「時間性」のなかに拡散していく。時々刻々と変化をし続けるのみの存在,ということになろうか。)

人間が「生きる」ということは,所与の生命エネルギーを,ひたすら「消尽」すること。ただし,このレベルで完結してしまうと,その生は「動物性」のそれと違わない。したがって,人間が「人間性」を「生きる」ということは,所与の生命エネルギーを,ひたすら「消尽」しつつ,自己を超え出る経験を積み重ねること,と言わねばならない。

そして,この自己を超え出る経験のうちのひとつである,「動物性への回帰願望」の実現という経験が重要な意味をもつ。それらは,しばしば祝祭という時空間のなかで繰り広げられてきた歴史的経緯がある。ときには,供犠として。ときには,儀礼として。ときには,贈与として。しかも,酒池肉林を伴いながら。

とりあえずは,ここまでで,Mさんへの応答「その1」としておこう。

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