2012年3月4日日曜日

「スポートロジー」(Sportology)=「スポーツ学」事始め・その1。

わたしが主宰している「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)の研究紀要が,いろいろの事情で,一年,間が空いてしまいました。二年つづけて休刊にしてしまうと,もう駄目だと考え,なんとか刊行しようと,いま,必死に最後の詰めをしているところです。

このブログでも書いてきましたように,「3・11」を通過したわたしたちは,もう,あとには戻れない,戻ってはならない,むしろ,新たな時代の可能性を探求することこそが喫緊の課題である,と考えてきました。そこで,「ISC・21」でも,これまで『IPHIGENEIA』という名前の研究紀要を刊行してきましたが,これを終巻にして,ひとつのけじめをつけ,新たに『スポートロジー』(Sportology)(=スポーツ学)という造語をかかげ,「3・11」後のスポーツ文化の新たな可能性にむけてスタートを切ろう,と決意しました。

『IPHIGENEIA』は,2000年を契機にして,20世紀的なスポーツ文化のあり方に決別して,21世紀を生きるわたしたちにとって必要とされる,あらたな「スポーツ文化」の考え方を探求しようという強い意思のもとでスタートを切りました。そのときの思想的なきっかけを与えてくれたのはジャック・デリダでした。キー・ワード的にいえば「脱構築」でした。つまり,近代という時代が徹底して抑圧・排除・隠蔽してきた「非合理」の問題系の力によって,最終的に近代論理が破綻をきたすことになった,という認識に立つことでした。そして,その近代論理を「「脱構築」することによって,新たに開かれる「スポーツ文化」の知の地平をさぐっていこう,ということが大きなテーマとなりました。

換言すれば,近代スポーツ競技という近代の文化統合がもたらした抑圧・排除・隠蔽の構造を解きあかすことにありました。前近代まで温存されてきた豊穣な「スポーツ文化」が,近代スポーツ競技の登場によって,わたしたちは「スポーツ文化」のうちの,なにを新たに獲得し,なにを失うことになったのか,を明らかにすることでした。これが,わたしたちの目指した「脱構築」の中味でした。そして,それは一定の成果を挙げえたと考えています。

しかし,「3・11」は,それをも凌駕する,とてつもなく大きな時代の変化を余儀なくされることになりました。もはや,「3・11」以前の論理に縛られているかぎり,未来に希望を見出すことはできません。簡単に言ってしまえば,ヨーロッパ産の近代合理主義的な考え方の枠組みの<外>にでること,そこから再出発することでしか,21世紀の未来は開かれてこない,と考えるに至りました。スポーツ文化の領域でも同じです。繰り返しておけば,近代スポーツ競技の考え方の枠組みの<外>にでること,このことこそが喫緊の課題である,という次第です。

そうして,到達した結論のひとつが「スポートロジー」の提唱です。この概念については,じつは,もうずいぶん前からわたしの思考のなかで構想されてきたものです。そして,その一部は,活字にもなっています(この点については,いつか詳しく書くことにします)。「3・11」後のスポーツ文化を考えるための無垢の,手垢にまみれていない,新たな「学」の可能性を,新鮮な響きをもつこの新しい造語「スポートロジー」に賭けてみようと決心しました。

そんな思いを籠めて「ISC・21」の研究紀要の書名を『スポートロジー』とすることにしました。そして,その創刊号の特集テーマは「スポートロジー」(Sportology)=「スポーツ学」事始め,ということにしようと,現段階では考えています。そして,その手始めに,「スポーツ学」構築のための思想・哲学的根拠のひとつとして,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)の読解を試みようという次第です。

ごく簡単に触れておけば,人間が動物性の世界から「離脱」し,人間性の世界に「移行」し,人間として生きる道を歩みはじめたとき(理性的人間の誕生),そのとき,いったい,なにが起きたのか,を考えることです。なぜなら,このことと広義の「スポーツ文化」の誕生とは表裏一体のものであった,とわたしは考えているからです。つまり,スポーツの始原の問題をさぐること,です。

「スポートロジー」は,まずは,ここから始めてみよう,という次第です。
題して「スポートロジー」事始め。

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